レックスは、ことの成り行きをあらかた話した。エーディンは、納得した顔をして、
「やっぱり、あなたでしたのね」
と言った。
「え?」
「実は」
エーディンは、レックスの反応を見逃すまいという穿つようなまなざしを傾けながら、
「アイラ、おめでたのようなの」
と言った。レックスはその突然な言われように
「そんな馬鹿な、あの時とこの間と、二度しか」
言ってから、考え込むように口を押さえた。
「二度でも一度でも、事実があれば可能性はあります」
少しくあきれたような声の後、エーディンがレックスを手招きするように歩き始めた。
「どうした」
「アイラの所にいっておあげなさいな」
「でも、一人にしとけって」
「あなたは特別です」
引きずるように引きずられるように、二人はしたしたと廊下を歩く。雨は止んでいたが、空気はしっとりと露をふくんで、深閑とそこにある。
一人にされたが眠れるわけでもなく、アイラは、自分の元に誰かがやってきた気配を感じ取って、身を起こしていた。
エーディンの手だけが、開いた扉から中にレックスを押し込むようにして、すぐに消えていった。
冷たい空気をよけるように、アイラの寝台はとばりが降ろされていた。以前のアイラなら、布団に潜り込むなりして彼の視線を避けただろう、しかし今は逃げも隠れもせず、ただ、寝台でじっとしている。
「エーディンから、聞いたんだけど」
というレックスの声は、いつもの不敵さがやや影をひそめ、戸惑いを滲ませていた。
「その…子供が」
「…聞いたのか」
というアイラの声は、抑揚がなくなるほど冷静だった。
「ずっと隠してるつもりだったのか」
「まさか、私もさっき聞かされたんだ」
「そのわりには、落ち着いてるな」
「取り乱しても始まらない。事実、ここにいるのだから」
「俺の方が慌ててて、なんか馬鹿みたいだ」
「女は弱し、されど母は強し」
アイラがやっと、顔だけ笑った。
「それよりも、一つ聞きたいことがある」
「何だよ」
「この間、私の所に来た時」
「…ああ」
「何か、話したいことがあったんだろう」
「ああ…」
こういう時だから、かの序の口から弱音の一つでも出るかと思ったレックスは、ほとんどいつもと変わりのないアイラのそっけないそぶりに、憮然とはしたが救われていた。
「聞いても、何もいいことないぜ」
「なくてもいい。聞きたいから」
レックスは、深いため息をついてから、ぽつぽつとあの夜からのことを話し出した。
あの夜から、というのも、その状態が今なお続いているということであり、事態の解決は、すでにマディノにいる勢だけでは、どうにもしようがないところにまで、追い詰められてしまっているからだ。
グランベル本国は、成り行きとはいえ為政者の存在を失ったアグストリアの掌握に本格的に乗り出していた。
アグストリアの民に返還すべく、無傷をたもっていたアグスティの城は、本国から遠征してきた軍により接収されたという。それを主導したのは、フリージ・ドズル両公爵。レックスは、アグスティを足場として本国に謀反を企てる一味の中に、名前を連ねられているらしい。
アイラは、やりきれない気持ちをそのまま吐き出すようなレックスのため息の後の間に、しずかにつぶやいた。
「狡兎死して走狗煮らる、か」
「…俺さ」
その言葉を聞いたか聞いてなかったか、レックスは重く口を開き始める。
「もう、あの場所には必要ないんだなって、思い知らされたんだ」
「…」
「兄貴にはもう妻子がいて、親父にしてみれば孫の代まで、スワンチカの後継者には困らない。俺はもとがこういう性格だから、手を焼いてたのはわかってるんだ。
今回のことは、立派な勘当の理由としてあまるほどこの上がないんだ。…お前とおんなじだよ」
「わたしと?」
「そこにあるなしはもう関係ない。
俺の帰る場所は、なくなってしまったんだ」
レックスは唇をかんだ。アイラはそれを見ながら、考えている。
「い、居場所なら、あるぞ」
そして、こんな言葉が自分の口から出たのが信じられないように、はっと口を押さえた。
「え?」
レックスが顔を上げた。アイラの顔が、柄にもなく真っ赤に染まってゆく。彼は苦笑いを浮かべる。
「冗談はやめてくれ、お前の国イザークを踏みにじったのは、紛れもなく俺の親父なんだ、いまさらどんな顔で許してくれって言えばいいのか、俺にはわからない。
そのお前を、こんなことにしちまって」
「ちがう、そうじゃない」
自嘲の言葉を、アイラは払うように言う。
「シャナンとバルムンクは健在だ。あの子がいるところがイザークだ。…それに、謝るのはお前の仕事ではない。
公爵自らが地に諸膝と額を預けて許しを請わない限り、イザークの臣民は心より許しはしないだろう。
イザークの民の誇りとは、そういうものだ」
言いながら、アイラは考える。考えながら、手繰るように言葉をつむいでゆく。
「それに、…『後悔しないな』と、念を押したのは、お前ではないか。
お前により母になれる事実を、私はこれからも後悔しない」
戸惑うようなレックスの目を、毅然と見返した。
「…迷惑か?」
「迷惑だなんて、そんな」
ふる、とレックスは首をふった。
「俺のほうから、お願いしたいぐらいだ」
「そうか」
「なあ、アイラ。
今日にでも、みんなに俺達のことを言おう」
「え?」
「今日がだめなら、明日でも、明後日でもいい。でも、早い方が良いだろう」
ぱちくりと、アイラの目が瞬いた。おそらくは、一人で勝手に感極まってしまったのであろう、レックスは彼女の体をぎし、と抱きしめる。アイラはそれを振りほどくこともしない。
「…良かった」
「…」
「これからは、朝早く、お前に部屋を追い出されずに済む」
「…だめだ」
しばしあって、やっとアイラがレックスの腕を振りほどこうとする。
「なんでだよ」
「日が昇ってから夫を部屋から出すなんて、イザークでは身持ちの良くない女がすることだ」
「ここはイザークじゃないんだから、細かいこと言うなよ」
「それでも、だめだ」
どうやら、本気でそう思っているようだった。あるいは、照れているのかもしれない。耳たぶまで赤くして寝台に座り込んでいる、母になろうとしているアイラの姿を、父マナナンがいればどんなに惚れ惚れしく見たことであろうか。
周りの反応は、全く知らずに驚いたもの半分、やっと年貢を納めたかと生暖かい目をしたもの半分で、儀式的なことはあれこれと落ち着いてからがいいという言葉には、二人は同意した。
シレジアが、マディノに孤立した者たちに救いの手をさしのべたのは、ちょうどそのころのことであった。グランベルの本国から逐われる立場になり、かといってこのままアグストリアにとどまることもできない立場からすれば、唯一、グランベルの脅威から一線を画して孤高を保っているシレジアが受け入れてくれることは、地獄に神を見たも同じことであり、同時に、シレジアも不愉快な国際政争の渦に巻き込むことで、後ろめたいことでもあった。
ラーナ王妃は、オーガヒル対岸の対海賊の要衝セイレーン城を当座の退避場所として提供した。
アグストリアでは雨だったものが、ここではすっかり雪だ。その寒さにふれないように、アイラは、大事の上にも大事を重ねて、王女の格をもって迎えられた。
傍らに誰かが眠る夜にも、だいぶ慣れてきた。レックスは、時折は朝になっても部屋にとどまり、膨らみ始めたアイラのお腹を、興味深そうに撫でたり、耳を当てたりする。日数の割には大きいと、医者が見立てたのが気になっているようだ。
「もしかしたら、もう動いているんじゃないか?」
「いや…まだ」
生まれるのは春の半ば過ぎだ。アイラはそんな事を言って、やはり出渋るレックスを押し出すように帰らせた。
事件が起きたのは、その昼過ぎのことだった。アイラは、エーディンに教えられて、産まれてくる子供に着せるものを仕立てている。剣ほどうまくできないとぼやくアイラに、エーディンは苦笑いをする。
「剣をお使いになるのですから、じきにはさみの扱いもものになされますわ」
「そうだと良いのだが」
と、アイラは真面目くさった顔で髪をかきやりながら針を進ませていた。そのアイラが、
「!」
何かに気がついたように顔を上げた。
「どうか、なさいまして?」
と尋ねるエーディンを見やりもせずに、
「…馬鹿、なんてことを!」
立ち上がり、仕立て途中の服を机に投げ出すようにして、椅子に立てかけてあった剣をつかんで、部屋を出て行ってしまった。
「アイラ、走ったら危ないですわよ」
と、エーディンがその後を追う。
身重であっても、アイラの足は速い。途中迷いながらでも、城の中にある教練場についた頃には、後を追うエーディンはすっかり息が上がってしまった。
声を上げたのは、そのエーディンの方だった。
「シャナン、なにをしているの!」
シャナンが、剣を構えてねめつける先には、誰でもない、レックスがいた。
「ああ、来ちまったのか。まあ、見てのとおりさ」
二人には背を向けていたレックスが、ちらりと振り向いて言った。エーディンが、シャナンの脇によって訴えるように話しかける。
「シャナン、お願いだから、剣をお納めなさいな」
しかしシャナンは何かに集中しているのか、エーディンに答えることはなく、レックスが淡々と言った。
「気持ちはわかるがなエーディン、その王子様は俺でないとダメなのさ。
アイラをつれて、戻ってくれないか」
そのレックスも、教練用の剣を持ってはいたが、彼にとっては飾り以上の物でしかない。少年とはいえ、オードの直系という天恵をもったシャナンの前では、練習台にもならなかろう。
「いや、戻れない」
エーディンが渋々という体でアイラの手を引いたが、アイラはその場所を動かなかった。
「シャナン、自分が何をしようというのか、わかっているのだろう。わかっているなら、私にわかるように説明することだ」
「僕は、許せないんだよ」
シャナンが、絞り上げるような声をあげた。
「だって、アイラ、困ってたじゃないか。それなのに、どうしてなんだよ」
「解説するとな、なんで俺なのかってことだ」
「それはね、シャナン」
エーディンが説明に入ろうとする。
「アイラは、お前にいじめられて、病気になるほど困ってたんだぞ。
アイラは許しても僕が許さない」
シャナンの体から、闘気が立ち上る。アイラが早くその気配を感じ取ってたのは、その闘気にオードの末裔でないものには感じられないものが、たぶんに含まれていたに他ならないだろう。
「わかってないな、この王子様は」
レックスは、苦りきった声を出した。エーディンが
「そうね」
と同意する。
「まあ、剣も練習用だから、多少怪我はしても死にはしないだろう。ライブの準備を頼む」
「はいはい」
エーティンが肩をすくめた。レックスは、シャナンに向かって、剣をさしかざす。
「来いよ王子様。俺ぶっ叩いて満足するなら好きなだけしろ」
「言ったな、痛い目見ても知らないぞ!」
シャナンが一足飛びに間合いを詰める。
「やぁあっ!」
そして、足をさらに踏み込んだシャナンの剣が、かきぃん、と、乾いた音を立てて受け止められる。
「アイラ!」
三人が、ほとんど同時に声を上げた。アイラは、来るときにつかんできた剣を、抜かずにふりあげて、まさに流星の勢いのシャナンの剣を受け止めていたのだ。
「シャナン、お前が振るうべきは王者の剣だ。王者の剣は、一時の気の迷いで振り上げてはいけないものだ」
この一合で、シャナンははあ、と肩で息をする。しかし、アイラはあくまでも冷静で、言われなければ身重の婦人とはわからないだろう。
「アイラ、アイラは悔しくないの?
こんなやつにいじめられて、悔しくないの?
僕がもっと大きかったら、アイラを守ってあげられるのに」
きん、と、剣をはじいて、シャナンが飛びすさる。
「レックスが、アイラは俺の物だって言うから、僕、悔しかったんだ。
アイラは、僕と一緒にイザークに帰ってくれるって、思ってたから」
「それで、自分よりはるかに技量の少ないものを相手にして、徒に流星の奇跡を期待するのか。
そんなことでは、おのれが剣の技量に慢心して、心が正しく育たぬぞ」
アイラが、剣をレックスに渡し、代わりに練習用の剣をとった。胸高に仕立てられた衣装のすそが、ふわりと広がる。
「私は、兄よりお前を託された。お前に、剣士として、人間として、教えられるすべてを教えよと託された。
私は縁あってお前と血縁を持つが、一家臣に過ぎないことをお前は自覚しなければならない。
そして、私から生まれ出る者は、同様に、いずれお前の手で作られるイザークにとって、欠くべからざる忠臣となるだろう。お前は、その将来の家臣を父なしにするつもりか」
「アイラ…」
「その剣を、私が受けよう。お前の見た流星の奇跡を、私に見せてほしい」
「…」
シャナンは、アイラの構えた剣を、じっと見ていたが、やがてへなへなとしゃがみこんだ。
「できないよ、アイラに流星剣なんて」
「降参か? らしくないな」
レックスが、笑うような声をあげる。
「うるさい」
シャナンは照れるように顔を背けた。
「…シャナン」
アイラは、座り込むシャナンのそばに歩み寄り、自分もひざを折った。
「一緒に、喜んでくれないか? じきに、私から子供が生まれるのだ」
「僕さあ、まだよくわからないんだけど」
「何がだよ」
シャナンの憮然とした問いに、レックスが憮然として答える。
「何でお前なんだよ」
「何でなんだろうなぁ」
答えるレックスは、本当に知らなさそうだった。二人は、アイラの部屋の椅子に思い思いに腰掛けて、窓の外にやってきている、シレジアの遅い春をまぶしそうに見ている。
「アイラが俺でいいって言ったその理由は、あいつにしかわかんないのさ」
「無責任だな」
「わからないものはわからないっつの。
アイラが言うまで、子供がいるのを知らなかったお子様にゃ、まだまだたどり着けない境地なんだよ」
シャナンがぶんむくれたところに、エーディンが入ってきた。
「あらあら、呉越同舟で楽しくお話なんて、珍しいこと」
と笑うのに、シャナンがかけよってくる。
「エーディン、見せて見せて」
彼女の腕には、生まれたばかりの赤ん坊が一人、宝物を扱うように抱かれている。
「お父様が先よ」
エーディンはにべもなく微笑んで、立ち上がったレックスの前に寄る。父子の対面をさせようとしたとき、あわただしい声が入ってくる。
「エーディン、大変大変、もう一人出てきたわ!」
「まあ、それは大変」
見せるはずでつれてきた子供を抱えてきたまま、エーディンが部屋を出てゆく。
「…すげぇや」
レックスが、自嘲するように片頬を引きつらせた。
「双子かよ」
シャナンが、椅子に座りながら、首をかしげた。
「僕さあ、わからないことだらけだよ」
「今度は何がわかんないんだ」
「アイラとお前の間で、何かあって子供が生まれるのはなんとなくわかってきた」
「お、少しは大人になったな王子様」
「でもな」
「ああ」
「一度に二人できるってていうのがわかんない」
「安心しろ、俺にもわからない」
をはり。 |