back
美しき華は遅く咲く


 何日も熱の引かないだるい体に、アグストリアの秋の冷たい雨はむしろ心地よかった。
 アイラは一人、教練場に立っている。
 戦いが鎮まり、なまるばかりの体をふり起こそうと出ては来たが、剣を握っても、なんの感慨も起きない。
 情けない。アイラは口の中だけに響くような低い声で、そうつぶやいた。
 こんな熱、戦いのある中では何度でもあった。切りつけられた傷がいえないままに、何かの拍子に土の上に転ばされれば、その後は決まって、こんな熱を出したものだ。しかし、湧き上がるはずの剣士の誇りは、今はなりを潜めて、アイラの手は、握らされた剣に、なにか恐ろしいものでも持ったような怯えすら感じていた。
「アイラ!」
泡を食ったような、自分を呼ぶ声。エーディンが、大きい布を手に抱えながら走ってくる。
「…エーディン、ぬれてしまう」
「その言葉そっくりそのまま、今の貴女にお返ししますわ。
 その熱が引くまで、外に出てはいけないと、お医者様はおっしゃっておりましたのに。
 さ、中に入ってくださいな、熱いものでもお飲みになって」
言いながら、エーディンはてきぱきとアイラに布をかぶせ、滴るほどにぬれた髪からさわさわと水気を取りながら、城のほうへ背中を押してゆく。
「…そうだな」
その、有無を言わさない振る舞いに、アイラはおそらく自嘲のためなのだろう、苦笑うように唇をゆるめながら、とぼとぼと押されてゆく。
 部屋にはいるまでに、もう一度外を見た。雨は細い糸を行く筋も行く筋もたらすように、向こう側の景色を煙らせている。
 柔らかい、容赦ない、雨。

「アイラだめだよ。外に出たりしたら、風邪が治らないじゃないか」
部屋にはいるなり、待ちかまえていたようなシャナンの声が出迎えてくる。アイラはそれにもごく薄いほほ笑みを返して
「心配かけた」
と言った。
「心配なんてもんじゃないよ、アイラにもしものことがあったら、僕は一体どうしたらいいのさ」
「…お前はもう立派な、イザークの戦士だ。前にそう自分で言ったじゃないか」
「そうじゃなくて、アイラは…」
シャナンは続きを言おうとしていた。しかし、その言いたいことが言葉で表現しきれないと悟ると、ぷいと黙って、側のイスにかける。マディノの城付きの侍女が、心配そうな顔で、新しい寝巻きを持って立っている。
「シャナン」
「何」
「しばらく向こうを向いているか、席を外してくれ。着替えるから」
「あ…うん」
水気を取ったといっても、アイラの教練着はまだたっぷりと水分を含んでいる。それをかえないうちは、始末を済ませたとはいえない。それに気がついたシャナンは「わかったよ」と言い、ポットをトレイに乗せたエーディンとすれ違うように、部屋を出ていった。

 エーディンが熱い紅茶を入れる間に、アイラは続きの部屋で濡れた服をはたはたと落としてゆく。
 すべて落とし終えてから、側の大鏡に、自分の姿を映していた。
 これが戦士のものかと、知らないものが見れば思えるほどに、しなやかに艶いた肢体。剣さばきを妨げないように、常日ごろは鎧におさえられていた胸の丸みも、一枚の布にもおおわれていない今は、ふっくらと暖かく、影を持った桜色の先端をつんと空に向けている。視線を落とすと、健やかに均整のとれた腰の線がみえ、部屋の暗がりに隠れるようにではあるが、秘められるべき茂みもあらわになっている。乳房から腰にかけて、鏡に映された、その丸いラインを、アイラは自分の指でつとなぞって、今度は、明らかに、忌避の表情を浮かべた。
 この体は、もう、守るべきものを守り、剣をふるい続ける、緊迫に満ち、また清い志に満ちていた時間を失ってる。それを思い出すと、アイラは、詰まるばかりに悩ましかった。鏡の中の自分が、たまらなく、忌まわしいまでに淫靡に見えた。
「…」
鏡に手を当てると、鏡の向こうの裸身の自分も近寄り、同じように自分を見つめている。
「!」
ふるえが来て、その胸を抱えるように、アイラは身を縮ませる。この部屋は寒すぎる。用意された寝巻きを引っかけるように着て、もどってゆくと、
「長いお着替えでしたのね」
エーディンが座って待っていた。
「でもお茶は飲み頃ですわ」
「…ありがとう」
アイラは寝台に入ってそれをうけとる。冷えた指に、じんと熱さが伝わる。
「あら」
そのあと、エーディンは困った声をだした。
「ごめんなさいアイラ、そう言えば、紅茶は飲めないって聞いてましたわ、それなのに」
「いや、最近は慣れた」
言いながら口に含む。本当はまだ独特の渋味が口に残るのがなれないのだが、エーディンの好意を無駄にはできなかった、何よりも、自分の体はその温かみを求めているのだ。その温度と、すこし溶かされた砂糖が、やさしく、アイラののどを慰めた。
「いまお湯をもらいに行ったら、厨房の方が心配していましたわ。あの黒い髪の方は何をお出しすればちゃんと食べてくださるのか、と。
 二三日、ほとんど何も召し上がってないのね。欲しいものがあります? 言いつけてきますわ」
「…」
エーディンは、アイラの返答をずっと待っていた。しかし、その返答がすぐにもらえないことを悟って、ふう、とため息をついた。
「…こんなことを、私が言い出すというのも、おかどが違うというところですけれども、…イザークのお父様、お兄様のこと…」
「…」
「気にしてらっしゃいますのね。
 しかも、ここはイザークを壊したグランベルのものが大勢なのですもの。居心地のいいはずがありませんわ」
そうではないのだ。アイラは唇を噛んだ。たしかに、自分は敵の手の内に飛び込んだも同然だ。シャナンを守りながら逃げるつもりだったのが、これは好機と言えただろう。それなのに、本当なら、差し違えてでも「本懐」を遂げなければならないはずのことについて、もうどうでもよくなり始めている自分が、たまらなく情けなかった。
「…エーディン」
紅茶の器を側に置き、口の中にのこる渋味を隠すように、小さい声で、アイラは部屋の一隅を差した。
「あの剣を、取ってほしい」

 イザーク風の剣には、無骨なところはない。しなやかな反り身。ひた、と当てるだけで切れそうな刃。一人の職人が何十年をかけた中にも、一本出るかの逸品。
 イザークの剣の真価を引き出すのに必要なのは力ではなく技だと、アイラは教えられてきた。こうして剣をとっていると、自分はイザークの剣士で、誇るべきオードの末裔だという自覚に、背筋の伸びる心地がする。
 刃を薄い光に照らしていると、イザークでの記憶がふっとよみがえってくる。
 薄暗い宝物庫の中で、ひとりでにでも輝くようなしなやかな光。初めて入ったときから、そこにあった。
「アイラ、この剣が好きか」
父マナナンは、宝物庫に入るたびにこの剣から離れなくなるアイラに、冗談半分に言った。
「はい…美しい剣です」
アイラはそれだけ、思ったままを返した。
「話によれば、偉大なるオードが、砦にてバルムンクを下される前に、守り刀として肌身離さぬ品だったそうな…
 そういえば、お前もじきに輿入れの年になるのぉ」
マナナンがそう言い、脈絡のなさに目を丸くしたアイラに肩を揺らして笑う。
「しかしお前ほどの手だれの婿になるならば、よほど腕に覚えがなければのぉ」
「お戯れをおっしゃらないでください、この剣とそれになんの関係が」
アイラが、暗がりの中にもはっきりと頬を染める。まだ、結婚云々を語るよりは、マリクルと一緒に剣の稽古をしているほうが楽しい年ごろであった。
「どうでもあれ、お前が誰かと縁付こう暁には、渡そうではないか、それを」
マナナンは白いヒゲをしごきながら、もっともそうに言った。彼にとっては、老いの時間を歩み始めて、たまさかに得た娘だった。当時のアイラは悟るべくもなかったが、初老のマナナンにとって、アイラはまさに掌中の珠だったのだ。
「リボーに行ったあの娘とそろいの守り刀をあつらえさせておるが、どうやらそれだけでは満足ゆかぬようじゃの、この姫君は」

 今、主人オードの末裔にまみえて、刃の輝きは嬉しそうにさえ見える。
 嬉しいのはアイラも同じだった。ただ、こんな形で巡り合うとは思わなかったのだ。
 そして今、この剣がイザークから離れアグストリアにあったというその皮肉が、アイラをさいなんでいたのもまた確かであった。
 イザークをおそった悲劇。小さな波が大きな波を呼び、自分を愛してくれた父も兄も失った。この剣も、その混乱に乗じて持ち出され、さまざまに商人の手を渡り歩いたのだろう。それだけに、剣士のアイラは、その剣を手にした途端、これは生涯手放してはならぬと思わせるほどの衝撃を覚えていた。
 しかし。

 「アイラ?」
回想を中断され、アイラははっと我に返った。
「…ああ、エーディン、まだいたのか」
「取って差し上げたら、動かなくなるのですもの、心配しましたわ」
珍しく、エーディンがあきれたように眉をあげる。
「さ、今度こそ冷えないように、ゆっくりお休みになってくださいな。そうしてくださらないと、シャナンはもう、私にも容赦なしですから」
くすくす、という笑い。そのしぐさが少女のようだった。アイラは、奥深くまで潜りながら、これが本来、女がもつしぐさなんだろうと素直に感心する。
 エーディンは、アイラの額に軽く手を置き、エッダの聖典の一節か、ささやくように唱えた。アイラのまぶたはやがて、少しずつ重くなり…夢の世界に引き込まれていった。

 眠ってしまったアイラをそっと残して自分の部屋に戻るエーディンのうしろで、
「ねえエーディン、アイラ、本当に大丈夫かなぁ」
シャナンの落ち込んだ声がする。
「ずっと寝てばかりだし、ご飯も食べないし…
 アイラ、死んでしまわないよね」
エーディンは、そのシャナンを振り返って、
「ええ、大切なあなたを遺して、そんなことにはなりませんわ、アイラは。
 今までも、あなたを守ってどんなつらいことも乗り越えてきた、誰よりもあなたがそれをわかっているでしょう?」
「…うん」
「じきに元気になります。あなたがそんな顔をしていると、アイラが心配するわよ」
「…うん」
シャナンの足音は、彼の心境を表しているのか、じつに静かだ。柔らかい靴の底を半分するような音が、エーディンの靴のかすかな硬い音とからんで、渡り廊下に響く。
「エーディン、レスターのところに帰るの?」
「そうよ、ずいぶんと放ってしまいましたし…私も、あの子の顔を見ないことには」
「レスター、かわいい?」
「ええ」
深いことを考えずに、エーディンは心底からの返答を返した。シルベールとの戦端が開かれた直後に生まれたレスターは、両親とともに戦火をかいくぐり、その愛らしさが、小さなセリスと一緒に、追いつめられた人々の中で安らぎの存在となっていた。二人の小さな子供が預けられている部屋の前では、降る雨がしっとりと回廊を濡らしているにもかかわらず、人の姿がちらほらしているようだ。
「僕さぁ、この間変な夢を見たんだ」
「夢?」
「アイラが、お母さんになった夢」
「…まぁ」
シャナンの言葉に、おそらく突拍子もなかったのだろう、エーディンはふふふ、と笑う。
「アイラはどんなお母さんだった?」
「うん、笑ってたよ…たぶん」
「そう」
「でも、恥ずかしかったから、よく見ないでいたら目が覚めちゃったんだ」
「まあもったいない。もし女の子だったら、きっとアイラそっくりの、黒髪のきれいな子だったでしょうに」
「うーん、そこまでは見てなかったよ、なんか、恥ずかしかったから…」
そう他愛なく言葉を交わしつつ、部屋まであと少しというところで、シャナンが「あ」と立ち止まった。
「何?」
「ぼく、やっぱりアイラみてる」
シャナンはそういって、たたた、と、元来た道を戻っていった。
「お待ちなさいな」
言おうとして、エーディンは、シャナンが見たのだろう人影をみて、何となく納得した。ふふ、と、含蓄のありそうな含み笑いをして、部屋の前まで来る。
「レックス、あなたシャナンに何かして?
 あの子、きっとあなたの顔を見て戻って行ったのだわ」
というと、扉のわきで壁を背に座り込んでいたレックスは、エーディンを見上げて一瞬だけ眉根を寄せた。
「は? 俺、あいつにゃ何もしてないぞ?」
「あなたがアイラにご執心なのは、シャナンだってとっくのお見通し。あの子は自分をアイラの騎士だと思っているのだから、仲良くしてないとそのうち流星剣の練習台にされちゃうわよ」
「へいへい」
無聊そうに返事をするレックスのとなりに、エーディンも座り込む。
「息子の様子見に来たんじゃないのか」
「ええ、そのつもりでしたけど、お邪魔はしないほうがいいかと思って」
「邪魔?」
「アゼルとティルテュが中でしょ、声が聞こえたわ」
「あいつもずいぶん変わったね、今はあんたのことなんか、茶飲み話にもしないよ。あんたがヴェルダンにさらわれたってから、兄貴のお叱り覚悟で飛び出してきたのによ」
ハスに構えた物言いに、エーディンはふふ、と笑って
「そうよ、終わった恋に固執するのは心意気の悪い男のすること」
「余裕のせりふだね」
「バーハラの宮廷に上がっていた頃、あなたがよく言っていたことじゃない。その捨てぜりふ残して、何人の女の子を泣かしたことかしら」
「ただでさえ湿っぽいときにお説教は勘弁してくれ」
レックスのげんなりとした顔に、エーディンははらはらと手を振った。
「まさか。
 そういうあなたが、花より剣を好まれる方のとのおつきあいにはさすがに手をこまねいているようだから、興味深くことの成り行きを見守っているだけ。
 シャナンにはかわいそうだけれども」
「…」
「あなたが差し上げた剣、気に入ってくださってるようよ」
レックスの視線が、どこか遠くを見るようなものになる。
「そりゃそうだろう。剣に関しては全く素人の俺にも、気迫が伝わってきたヤツだ。
 なまじっかなモノじゃ袖にもされないと思ったからさ…」
しかし、エーディンが言うほどには、あまりうれしそうではなかった、と、レックスはその記憶を反芻する。アイラの表情はあくまでも変わらない。なまくらをつかまされたか品定めでもするように、それを瞬きもせず眺め尽くしていた。拒否されるのが怖くて、それ以上の反応を見ずにいたのだが…剣は帰ってこなかった。
「俺にゃ、あいつの無表情が何を言いたがっているのか、いまだにわからないんだ」
「イザークでは、むしろ感情を表に出さないほうが礼儀正しいらしいわよ。剣をとって戦う姿ばかり目に立つけれど、アイラは本当は、この上もなくおしとやかなのではないかしら」
「…そうかも、しれないなぁ」
レックスの視線が、また遠くを見る。剣は確かに帰ってこなかった。後から聞けば、イザークでは国宝級の剣が、いつかの遠征で流出したものかもしれないという。
『イザークの宝を見いだしてくれたことには、きっと報いたい。でも、今は何を返していいのかわからない』
そんなことも言っていた気がする。返礼を受けたのは、ここに足止めされる前だから、彼はずいぶん放っておかれたことになる。そしてそれ以来、レックスは彼女に全く会っていない。会わせてもらえないというほうが正しいか。手のひらを返すように、アイラは自分と、視線すら合わせようとしないのだ。話に聞けば、食事もできないほど体調も崩したらしい。この寒い雨ばかりでは、確かにかぜのひとつもひきそうだ。
「なあ、エーディン」
「…アイラならまだ眠っているわよ」
アイラに会えるか聞こうとして、エーディンに先回りされた。
「アイラが心配なら、彼女がいいというまで、彼女に会おうとは思いたたないことね。あなたにあったら、彼女はきっとあなたのことを気にして体を悪くしてしまうかも」
「…そか」
「…嫌われているわけではないと思うから、それは安心して」
「そうだといいんだけどな。俺、肘鉄もなれてないわけじゃないから、別にいいけどさ」
「そう自分をくさすようなことを言うものではないわ。嫌われてるなら、剣をつき返すだけのことだもの。
 アイラがあなたに会うと言ったら、知らせるわ。シャナンには内緒にして」
「恩に着るよ」
レックスはそう言って、立ち上がった。エーディンに手を差し伸べる。
「ほら、あんまり長く座ると、冷えるぞ。
 中に入れよ、自分の子供に会うのに、遠慮なんていらないだろ」
「そうね、もうお尻がひりひりしてきたわ」
そして、彼は中に首だけを突っ込む。
「おらアゼル、母上のお出ましだ」
出てきたアゼル達に、軽く会釈で挨拶して、回廊の雨に湿った裾をつと持ち上げながら、エーディンは中に入ろうする。そしてレックスとすれ違うときに、
「レックス、子供というものは、じつにかわいくて、正直なものよ」
と言った。
next