結局、よい夢どころか一睡もできなかった。
件の屋敷に向かう馬車の中で、白兎のような目をしたラケシスを、キュアンは笑いをこらえているような顔で見ては、何度もラケシスににらみ返された。ラケシスは、二人の間にあった話がわからなくて、きょとんとしている。
「現地に着いたら、少し眠るがいいよ」
何度目か睨み返されたとき、キュアンがそう言った。
おそらく、あれもキュアンの作戦のひとつだったのかもしれない。しばらくしてリーフが戻され、自分の部屋で寝ていたことにわけがわからなくなっているエスリンをごまかすようにして、まさかその後の一部始終まで聞く羽目になるとは思わなかったのだ。何とかして眠ろうとしても、目を閉じれば、物音と気配すべてが自分達に重なってくる。アレさえなければ、自分はなんとか余計な考えを押さえ込んで眠ることもできたろうに。
「知りません」
ぷい、とそっぽをみたラケシスに、エスリンがあわてる。
「キュアン、何かして? ラケシス様、朝起きたらリーフの部屋から起きていらして、私びっくりしたの」
「いや、今日のことを少し話しただけさ。思いのほか長話になって、寒い中帰すのも不憫でね。
ゲイボルグに誓って、間違いなんか何もないよ」
「そう、それならいいのだけど…」
「エスリン」
「なに?」
「彼女にはもう、隠し事やいい濁しをしても無駄だぞ」
「え」
エスリンが顔色を変える。
「あら、そう…」
そしてふにゃ、と肩の力を抜いた。馬車が、屋敷の門をくぐって行く。
よろず戦いの場所には、勝利や幸運の女神というものがいるらしい。
それは、決闘者二人の先に待っている存在のことではなく、単に運不運、勝利と敗北をつかさどる、公平で気分屋な運命の女神だ。
ラケシスを、今まで使っていた部屋に見送ったところで、待ち合わせていたようにラーナ王妃が来た。
「あら、王太子殿下もご一緒ですか」
「フィンは私の弟も同然に育ててきましたから、少し心配になりまして」
「ラケシス様はどちらに?」
という問いには、エスリンが答えた。
「お使いになられてたお部屋にいらっしゃるようにさせましたわ、眠ってらっしゃらないようお見受けしましたから」
「そう、ご心配でらしたのね」
その彼女の振る舞いも、ラーナ王妃の琴線に触れたらしい。
「決闘には、教練用の剣を用意させました。オーク材ですから、打撲程度ですむと思います。
さすがに、お預かりしている異国の方に、何かあっては大変ですから」
と、今日のことを自分から話してくる。
「同様の理由から、最終的な判断は、私がいたします」
「ほぅ」
キュアンが面白そうな声を上げた。彼女は言下に、すでにどちらかが勝つような筋書きになっている、と言ったと同じことだった。
「どうなりますかな、エリオット王子も長い旅のなかで、多少は使われるようになったと伺ってますが」
と、聞いてもないことを言って探りを入れる。
「でも貴方の可愛い弟君は、歴戦の勇者ではありませんか」
ラーナ王妃は意味深な含み笑いをした。
教練用の鎧は、本当の戦いに使うものよりかは、いくらか軽装にできていた。それでも、全身を覆う厚地のキルトアーマーとチェインメイルの上から、要所にプレートを装着すると、かなりの重量になる。
エリオットは、従者達からその装着を手伝われながら、至極ご機嫌だった。成り行き上、まだ従者のないフィンには、ラーナがつれてきた無名の兵士がそれに当たったが、彼は終始無言だった。
「おお、こんな立派な旗印が」
エリオットの従者達が、決闘の場に出て声を上げた。シレジアの紋章管理官が、ハイラインの紋章を調べて、エリオットのために用意してくれたのだ。
「殿下、お命だけは大切になさいませ」
と、頼み込むように言う従者の声を背中にして、
「大丈夫だ、大船に乗った気持ちでいろ」
エリオットは揚々と、決闘の場に足を踏み入れた。従者達はその背中に、エッダの聖印をきった。
前夜降った雪がきれいに取り除かれた決闘の場所に立つと、何人か、自分達のほかに気配を感じる。自分の紋章を背中にして、一足一足、歩いてくるエリオットを待ちながら、フィンはまったく違うことを考えていた。しかも、その気配が誰であるかも、わかってしまうのだ。この場所が見えるところに何人か、そして、見えない場所に一人。
まだ、どうするかを決めあぐねていた。しかし、決定を出す時間はなかった。
「よく逃げ出さなかったな、その心意気はほめてやる」
エリオットが、正対して言う。
「私には、まだ代理人を立てるほどの器量はありません」
フィンが答えて、剣を立て略式の礼をした。
「いつぞやの一件より、私をお忘れ下さらなかったこと、感謝の言葉もありません」
「ああ、忘れるもんか。悪いが、お前には踏み台になってもらうぞ、ハイラインへの凱旋と、ラケシスへの手土産にな」
「…御存分に」
フィンはそれだけしか言わなかった。立会いの官吏が何かの頃合いを見て、
「はじめられよ」
と声をあげた。
「あいつめ、やっぱりだな」
キュアンが唇の端でにやりとわらった。ベオウルフがそれに答える。
「案の定ですね、少年は」
命の取り合いでもない、ぬるい決闘は、教科書どおりの剣の形をまねるようにはじめられた。あるいは打ち、あるいは打たれはするが、鳴るのは盾に剣の当たる、鈍い音だけだ。
エスリンはよくわからないようだったが、ラーナ王妃も
「ええ、本当に、しょうのないほどお行儀のいい騎士だこと」
と言った。
「どういうことよ、二人とも」
エスリンが角口をすると、
「まあ、よく見ていてごらん」
キュアンが窓の外をさした。
「二人がそれぞれ攻撃をするときに踏み込む足の音を、よく聞くんだ。エリオット王子のほうが、重い」
「それがどうなの?」
「それだけ踏み込みが強いということだ。考えられる理由としては、鎧に負けているか、しっかり攻撃をしようとしているか、どちらかだろう。善意を持って後者の解釈をすると、攻撃をするに当たりフィンは全力で臨んでない」
「あらやだ、それじゃ」
「奴は負けるつもりかもしれない」
キュアンが淡々といった。
エリオットは文字通り、全力で戦っていた。鎧は重いが、動けなくなるほどではない。巡礼生活は意外に、彼の基礎体力を維持させていた。
「どうした、怖いか、いつまでもでくの坊のように突っ立ちおって、俺が疲れ果てるのを待つつもりか」
「滅相もない」
打ち込みあいながら、フィンが返す。
「いきなり全力をつかうと、冷静に相手を分析することができなくなります。一騎打ちは文字通り、己一人のみの判断力がたより、相手の力量を見極めず打ち込むことは、最悪ご自身のお命を無駄になさいます」
「ええい、講釈はいい、剣を使わんか!
お前だって、ラケシスがほしいなら、やられっぱなしではさまにならなかろう」
大上段で振り上げてきたエリオットの剣を、フィンは盾で受けた。体制を立て直すその一瞬のスキに、エリオットの肩に一発打ち込む。
「ぐうっ」
エリオットが肩を抑え、従者達が悲鳴をあげた。
「うるさいっ」
それを一蹴して、
「わかったぞ、それがお前の本気か、おもしろい!」
エリオットが盾を投げ捨てた。
剣を両手に持ち直し、遠慮会釈もなく打ち合い始める。打ち合う音に金属音が入り始め、なんとなく見ている分には決闘らしい様相にだいぶなってきた。しかしベオウルフは
「やっぱ、少しばかり無駄な動きが多いですね、二人とも」
と言った。
「まあ、名実はそれとして、二人の得意は本来槍だからな。
しかし、エリオット王子がここまでやるとは思っていなかった」
キュアンが感心した声を上げる。ベオウルフがそれを軽く切り返した。
「王子には目的があります、その点で分が回っているのでしょう。」
「さもありなん」
「少年のほうは、まだ遠慮が勝ってますね、入りが甘い」
「だな、王子の攻撃は結構響いていそうだな」
エスリンとラーナ王妃の顔色が少し変わっていた。冗談をたたくはずだった口も動かない。
「どうしたエスリン?」
と、キュアンが様子を伺う。
「なんでもないわ」
「本当に?」
「…変ね、エリオット王子がたくましく見えるわ」
「ほら、どうした、ちゃんと打ち込め、勝負にならないじゃないか!」
の言葉と一緒に、胴体に入ったエリオットの剣の衝撃は、フィンの片膝を崩すのに十分の効果を持っていた。
「立て、立つまで待つ」
エリオットが肩で息をする。しかしエリオットの全力は、多少のことではくじける様子はなさそうだった。
しかし、自分は。フィンは、自分の中の結論をまだ出せずにいた。その彼の視界に、ちらっと何かが動いた。
あれは! 思った瞬間、エリオットの剣が頭を掠めた。反射的に身をいなしたが、切っ先がチェインメイルをかすめ、護っていた頭の部分をあらわにした。深い青の光沢の髪が一瞬広がり、鎧が掠めた頬の辺りに、傷の熱さを感じた。
「運命の女神は、今はこの王子にお味方なさるか」
どこかで、ラケシスが飛び出して、仲裁してくれるのを待っている自分がいる。それが情けなかった。彼女を護って戦っていたはずが、彼女に護られて戦う高揚感もあるのだと感じて、ずっとそれを背中に浴びてきた。しかし、春先の冷たい風が、今彼の背中には建物の壁に翻弄され四方から吹きつけるだけだ。
二合、三合、エリオットの剣が立て続けに胴に入る。
「それでいいんだ」
今まで、自分が過分に幸せ過ぎただけなんだ。
ここで無様に負ければ、彼女の中での自分の存在もきっと消えてゆく。フィンは鎧を直さず、そのまま剣を打ち込んでゆく。
しかし、決心するまでに蓄積されたダメージは、確実に、二人の力量の差を狭くさせ、そしてこの一瞬、エリオットに運が味方した。
エリオットの剣が、待ち構えていたようにフィンの胸の辺りに入る。フィンは息を詰まらせて、背中から地に転がった。
「いつぞやの意趣返しだ、どうだ、今の気持ちは!」
身を起こそうとしたフィンの剣を、エリオットは自分の剣で払い、その上に馬乗りになる。その目は完全に血走り、生涯最初の完全勝利の興奮にみなぎっていた。
「決闘は、終わりだ!」
エリオットは、こともあろうに、切っ先をフィンの首に向かって、まっすぐにさしむけた。
「あのバカ」
キュアンとベオウルフが、同時に声を上げた。
「戻ってきたら、叙勲取り消しにしてやる」
「戻ってきたら、一発殴るか」
エスリンたちの顔色は、確実に変わっていた。
「ラ、ラーナ様、どういたしましょう」
「え、ええ、エスリン様、私そろそろ出たほうが」
ラーナ王妃は席を立とうとしたが、立ちくらんだようによろけた。それをエスリンがあわてて支える。
そこに。
「やめて!」
声がした。
「やめてやめてやめてぇっ!」
一同が、声のした外を見る。ラケシスのいた部屋は階が違っていたわけだが、彼女はあろうことにそのバルコニーから一足飛びに飛び降りて、決闘者たちの前に駆け寄ろうとしていた。
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