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 その声に反射するように、フィンは頭を動かしていた。エリオットが押し込もうとした剣のきっさきは、首筋の皮一枚隔てた地面に突き刺さった。
「悪運の…強いやつめ…」
エリオットがうなるように言った。
「聞こえたか、ラケシスが止めた。これ以上の勝負はナシだ」
従者の力を借りて、エリオットがやっと立ち上がる。
「殿下、おめでとうございます、これほどのご成長、信じてついてきた甲斐がございました」
従者達がエリオットをねぎらい、よよと泣き崩れるのを、
「ああ、心配はいらん、これで胸を張ってハイラインに帰れるぞ、ラケシスと一緒にな」
エリオットは、堂々とした態度でそれに対する。今度ばかりはいつもの空威張りも、芯が一本通ったように見えるのが不思議である。それだけのことを、確かに彼はしたのだから。

 エリオット達の喜びの声を右から左に聞き流しながら、フィンは倒れたまま、天を見上げていた。曇りがちの空に、かすかに青空が混ざり、迷いの果てに自分のすべきことを果たした、今の心境と同じに見えた。
「きれいな空だ」
柄になくつぶやいたとき、視界が何かに覆われた。
「フィンのバカっ」
その声に、夜明けの青の瞳が瞬かれる。
「ちゃんと、剣の教練しないから、こうなったのよっ
 自業自得だわっ」
白目を真っ赤にしたラケシスが、自分の顔を覗き込んでいた。
「王、女?」
「私には教練しろ教練しろっていっておきながら、こうなんだもの…
 人より先に自分の心配しなさいよ」
手を引かれるままに上半身だけが起こされる。後は自分で立とうと手をついた瞬間に、ラケシスが抱きついてきて、さらに目が白青する。
 そこに日差しがはいった。ちかっと彼の目に硬質的な輝きが入る。
「あ」
鎧にはばまれ、自由にならない指で、それに触れる。色水晶の耳飾りは、日差しの中、ラケシスの金色の髪と一緒に、きらきらと輝いていた。
「これは…」
フィンは言葉がなかった。
「怖かったんだから。心配したんだから。
 教練用の剣だって、突き刺せば怪我じゃすまないのに」
「もしかして、ずっと、つけてくださって」
「耳飾りのことなんて、今はどうでもいいのっ
 ほんとに、バカなんだからっ」

 ひとしきり勝利の快感に酔いしれたエリオットの前に、ラーナ王妃が立っていた。
「こ、これは」
エリオットが膝を折る。
「一部始終、拝見いたしました。王子殿下の名誉は、これで回復されました」
「か、格別のお計らいをいただきまして」
従者達が促すままに、エリオットが返答する。しかしラーナは、すぐ寂しそうな声をした。
「もう、ハイラインにお帰りになられるのですね、もう少しお世話して差し上げたかったですわ」
「いや、今は一国も早く、帰国すべきだと思っております。帰国して、二人でアグストリアを再興のときまでまもってゆこうと」
そうエリオットが言う。きっと、そのために練習した一下りなのだろう。
 それにこの宣告をするのは、正直ラーナはつらかった。つらかったが、何よりも、自分の抱いてきた「かわいらしいロマンス」の、非の打ち所のない完成がなされたことの方が、うれしかった。
「残念ですが、ハイラインにお帰りになるのは、王子お一人のようですね」
「は?」
声の裏返るエリオットの視線を、ラーナ王妃は手を差し伸べた方向に導いた。エリオットはその光景をしげしげと見、ガラガラとくずれおちた。

 エリオットは、そのままシレジア城で帰国の目処がつくことを待つことになりそうだった。従者達の話によると、燃え尽きた薪のような風情であるという。
「いや、酒場の吟遊詩人の歌の通りであれば、あの結末は、王子には申し訳ありませんがむべなき所でございます。幸運は、みずからそれと感じぬものにこそ微笑むもの。
 ご帰国までには、王子は多少はお元気を取り戻されると思います。
 立ち直りだけは早いお方ですから」
従者はそうとも言ったという。長年付き合ってきたカンというものだろうか、その様子は至って落ち着いていたという。
 フィンは、その場所にいたキュアンたちの前に戻ったとき、キュアンとベオウルフからそれぞれ笑いながらの一発ずつをくらった。げほげほと咳き込むフィンに
「結果を鑑みて、叙勲の取り消しは取り消しにしておいてやる。
 お前の任務は解除されてないぞ、自分の幸運に感謝するんだな」
キュアンはそうとも言った。
「まったくもう、ラケシス様が止めてくださらなかったら、あなた本当にあぶなかったのよ」
エスリンも、そもそも危ない目にあわせようとした過去を棚に上げて言う。主君達がそうやって、笑いながら怒る腹の中が読みきれず、変な顔をした。その腕の片方には、ラケシスが子供のようにはりついたままだ。
「まあ何だ、これからは仲良くするんだな」
ベオウルフだけは、まじめな顔でいった。
「でなきゃ、いつでも俺が乱入するぞ」

 その夜のセイレーン、東翼最上階のラケシスの部屋に、訪れた人影があった。
 セイレーンに戻るなり、フィンだけが顛末を聞かされた城の住民にもみくちゃにされ、模擬戦闘会は明日に迫っているのだから、覚悟して、寝坊などしないようにとさえ告げられた。
「ならば、少し早く伺っておこうかな」
ただでさえ疲労している今夜は、ラケシスにはご機嫌伺いだけにとどめておきたい。彼女だって出場したいだろうし、今夜は気を楽にしてちゃんと眠ってもらいだったからだ。
 でも、もし彼女がいつものつもりで待っていたとして、すぐ帰るといったらきっとまたご機嫌を損ねてしまうだろう。それだけは覚悟して、一応襟を正してから、部屋に一歩入る。
 取次ぎに出た部屋付きのメイドに、これこれと用向きを伝えると、
「姫様はただいまお湯を使っておられます」
メイドは、こらえきれないらしい笑いを唇の端に浮かべて答えた。
「それなら、お邪魔にならないうちに私はこれで失礼いたします」
「いえ、それが」
メイドが笑いを崩さずに言う。
「騎士様には、お部屋でお待ちになるようにと、絶対にお帰ししないようにと、厳におおせつかっておりますので」
「ですが、王女もお疲れだとおもいますし」
「だめよ」
へどもどと帰る口実をひねろうとしたフィンのはるか向こう側で、そういう声がした。
「帰っちゃだめだから」

 せがまれてもろ肌を脱いだフィンの体に、ところどころ黒々とあざが残るのを、
「その痛い分は、私がさびしかった分と同じだけとおもってね」
ラケシスはその一言で片付けた。そういうラケシスに、フィンは顔が上げられない。
「やっぱり、無理にでも帰るんだった」
普段自分を鈍感だの朴念仁だの言うラケシスが、その鈍感な朴念仁でも一目でそれでわかる態度でいるのがわかってしまうのは、彼女の気配が今夜に限りとりわけ強力なのか、久しぶりのこの部屋に入ってしまって、自分が必要以上に敏感になっているのか、フィンはもうそれがわからなくなっていた。何もかもがまぶしい。
 なりふりも構わなくなってしまいそうなところをすんでの所でとどまって、顔を見たらタガが外れてしまうと、背き加減にした背中に、ラケシスが張り付いた。
「帰っちゃだめ」
「!」
うわああああああ。口を覆ってしまわなければ、こんな叫びが出ていたかもしれない。伝わってくる体温が違う。背中でじかに味わうぷわりとした感覚に、離れていた間に積もり積もったものがぐつぐつと沸騰する。ともすれば、それは体外にも吹き上がりそうなのだが…それだけは悟られないように、彼は必死に取り繕っていた。
「王女…」
「何?」
「あまりおいたをなされては…困ります」
「困らせてるんだもの」
「私も一応男なんですよ」
「ええ、わかってるわよ」
しれっとしてラケシスが答えた。振り向くと、ラケシスはつと居住まいを正して、いたずらそうな上目遣いをしている。フィンは長いため息をついて、
「そんなことをなさると、」
二人で座っていた長いすに、こてん、とラケシスを押し倒した。
「きゃ」
その振る舞いに少し虚をつかれたのか、ラケシスが声を上げる。その上視線で射すくめられて、どきりと胸がなる。この目に弱いのだ。ラケシスの体の奥が、きゅん、と熱くときめいた。
「襲いますよ?」
傍らで、ぼこぼこん、とフィンのブーツが床に投げられる音がした。
「待って待って、ちゃんと向こうに連れて行って」
「待てません。どなたのせいだと思っておいでですか?」

 妖精を夫にもった娘の話は、実はさらに続いている。
 娘は、いなくなった夫を探し、つらい旅に出る。そして、与えられた試練をいくつも乗り越えて、その末に夫に出会うことができるのだ。それが彼女の真心を示す、たった一つの方法だったから。
 彼は改めて娘を妻とした。彼女も妖精となり、二人は永遠の幸せを手に入れるのだ。

 とにかくその夜は、昼の雲はすっかり消えて、月の冴え冴えした明かりだけがあった。
 そして満ちた月の下に、実りを約束する雪解けの水が、一滴、二滴と落とされた。

 その月の光が消え、朝の光が、部屋に入ってくる。その光はやがて、春の暖かさを運び… 恋人たちは、つかの間の深い眠りに落ちる。
 物語は、再び始まるのだ。

「しまった!」

おわり。
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