とにかく、筋書き通りに、数日後にはラケシスの荷物が簡単に片付けられ、急ぎの馬車がセイレーンを出る。
怒濤のようにその作業が完了されてから、エスリンは改まって、フィンを部屋に呼びつけた。筋書きの第一幕は、ここでいったん幕を閉じることになる。
「…そういうことだそうです。先様がことに望まれて、ラケシス様はすでに、先様がもとに行かれました。
キュアンがあなたに申し渡したラケシス様護衛の任務を、ここで解除します。
おつかれさま、フィン」
「…は」
主人の前に片膝をついたまま、フィンは微動だにしない。突然の話に疑問一つ提示するわけでもなく、彼は諾々と主人からの申し渡しを聞いている。部屋の隅に立っているベオウルフは、その彼の無表情な顔を、憮然そうに見ていた。
「少年お前、そんな簡単に姫様諦めちまうんかよ」
深夜の食堂。ベオウルフは、自主的にフィンの深酒につきあっていた。深酒といっても…ボトル一本のワインを飲み切らない内に、融けたように壁にもたれるばかりなのだが。「いやなことを忘れるには飲むに限る」というベオウルフの教えを、忠実に実行しようとしているのかもしれない。つまり、フィンにとっては、今回の「任務解除」はいやなこと、というわけだ。さもありなん、とベオウルフは事情を知っていても同情する。
「仕方ありませんよ、…時世に会わないうえに、申し開きもできないほどに公私混同をしてしまったのですから、こうなるのが遅かったぐらいです」
そういう、搾り出すような返答が帰ってくる。
「当面武力衝突もないでしょうから…私みたいな武張った護衛は、いるだけ邪魔というご判断なのでしょう」
「…お前、つくっづく、そのへんのキビってやつに疎いな」
「別に、敏感になろうとも思いません。
王女に対して失礼があり、その失礼ゆえに私が遠ざけられた。この話には、それ以上も、それ以下もありません」
「…初めて見るよ、お前がそんなに投げやりになってるところなんざ」
ベオウルフは、かちゃかちゃと、飲み残しをかき集めてすすった。エスリンはきっと、何かの救済策を考えているはずだ。でなければ、フィンの任務解除など言う声があったら、真っ向から反対するのが本当のエスリンだろう。
「まあ、コレも何かの勉強だと思うんだな。
運はお前にまた向いてくるよ、今の俺には、お前の酒に付き合ってやることしかできねぇ」
「すみませんね、いつまでもできの悪い生徒で」
「この道のことばかりは、期待してねぇよ。
なぁ少年、今お前はどんな気持ちだよ、姫さんについて」
「どんな気持ち?」
「お前さんの胸の中は、だ。愛か、騎士道か、それともただのリビドーか」
「そんなこと、急に言われてもわかりません。
ただ、騎士は、貴婦人に対しての無礼はご法度です。貴婦人として敬う対象にした方には、一切の欲をもって接してはならない、ただその方の名誉のために」
「じゃあ、姫さんに対しての騎士道については、お前は失格だな」
ベオウルフは言った。それは正論でもあった。ラケシスが彼にとって貴婦人なら、寝台に上がるなんてもってのほかだ。ソレぐらいのことは、ベオウルフだって知っている。
自分の気持ちが愛か恋かリビドーか。彼本人も、一度ならず通った道だ。
「…」
「その沈黙を答えとするぞ」
返事のないのにそう言って、ベオウルフはフィンの方を向いた。彼はすでに、グラス半分のワインを、もろもろの言いたいことと一緒にようよう飲み込んで、机に突っ伏して眠っていた。その顔が、去った日に親しくあった、二十四金色の髪をしたりりしい友に重なる。
「あいつに首実検してもらえば、太鼓判一発で終わったのにな」
ベオウルフは、彼の手からグラスを奪い取って、残りをぐいと飲んだ。
「姫さんよ、あんときあんたを護ってくれたウィグラフは、もうどこさがしたっていやしねぇんだぜ…」
エリオットも、ラケシスと時を前後して、件の屋敷に移っていた。ラーナ王妃は
「本当に小さい、こじんまりとしたお屋敷よ」
と言ったが、距離をもってしまえば、相手がいるのかどうかさえもわからない、そんな屋敷だ。そのひとつ屋根のあっちとこっちに住まわされたことなど、二人は思いも及んでいないようだった。
エスリンは、エリオットには世話人として、ラケシスには友人として接する。二人の間に立って、直接の対話をさせないのが、一段と事態を複雑にさせていた。
エリオットは、ラケシスが来ると前夜突然知らされたおかげでまったく眠らず過ごしたものと見受けられた。白目は赤く、まぶたがくすんで見える。しわのよった寝巻きは、新しいもののはずなのにくたびれた風情になり、輾転反側具合がよくわかる。エスリンは、寝台で客人に会うのは王子なら無礼でもなんでもないと、そういう説明をし、
「でもよろしいですか殿下、姫様を驚かせてはいけませんから、お静かに、お静かにお話くださいね」
と釘をさす。エリオットは、がくがくと首を縦に振った。
エスリンは
「お風邪を召して、お声が出ないそうなの、私がお話をかわりに承ることになってるから」
そう口実をつけた上でラケシスをその部屋に招きいれ、ベオウルフに
「王子が何かなさらないように、ちゃんと見張ってね」
と耳打ちした。
「了解です、奥様」
と言うベオウルフの鼻には、香水の香りに混じって、なにかなじみのあるにおいがする。
「ケモノか、あのバカ王子は」
一晩寝てないのはそういうわけか。所詮無駄玉だろうに。
しかし、姫さんは綺麗になった。ベオウルフは、おとなしく椅子に座っているラケシスを目を細めてみた。背筋の自然な曲線に、結い上げた髪の後れ毛がちらちらと輝いて、等身大の人形がおいてあるようだ。
弱い日差しを精一杯取り込もうとして、部屋の窓は大きくとってあり、ガラスがはめてあった。その弱い日差しに、ちかっと彼女の耳元で何かが輝く。
「へぇ」
ベオウルフは感心した声を上げた。
まだ、こんなことになるなんて、思いもよらないとき、まだシレジアがこんな雪に閉ざされる前のことだ。
駆け足の秋の間、シレジアも実りの季節になる。退屈の虫の騒いだエスリンは、このときも、ベオウルフと一緒に飛びだして、城下町の収穫祭の中にいた。
「あんまり、一人であちこちおいでになっちゃ困りますよ」
一時エスリンを見失ったベオウルフがもう一度見つけ出してそういうと、
「し」
エスリンが指を唇に当てて、静かにするように言った。そして、街角の先を指で指す。
「なんかあるんですか」
と、一緒に角から顔を出すように見ると、広場に出ている小さな細工物の屋台に、件の二人の姿があった。
「おや、あんなところに」
「珍しいわね、フィンがこんなところにまでくるなんて」
「姫さんもどなたかと一緒で退屈の虫のお持ちの方だから、連れ出されてきたのと違いますか?」
「ご挨拶ね、でもそうかもね」
遠目から見ても、身なりは町の名士という風情でも、純金の輝きの髪と、深い青の光沢の髪の取り合わせはよく目立つ。事実、道行く人の何人かは、振り返るほどだった。その人の視線など知りもしない風情のラケシスは楽しそうな後姿で、何かを物色しているようだった。
「何もあんな粗末な屋台でなくっても、出入りの商人がいいものを持ってきなさるだろうに」
とベオウルフが言うと、エスリンがひじでつついた。
「ちがうわよ、問題はものの良し悪しじゃないのよ」
そういっている間に、ラケシスがこれと決めたのは、その後のしぐさからして耳飾りのようだった。
「どうせなら、指輪でも見繕ってあげればいいのに、おそろいの」
「それをしねぇのがあの少年でしょ」
屋台からはなれて、その場でくるりと一回転する。躍り上がるような軽い足取りに、壊れ物が転がるのを追いかけるように、フィンがついてゆく。
「ああ、有頂天だねぇ」
ベオウルフがつぶやいた。
「そうねぇ」
エスリンがそれにうなずいた。そこで、ラケシスが何かに気がついたような顔をした。
「エスリンさまー」
呼びかけながら駆け寄ってくるその耳に、やっぱり、耳飾りが輝いていた。
あのときの自分の記憶がたしかなら、とベオウルフは思い出す。あの時と同じものだ。磨いた色水晶の粒をつなげただけの耳飾りなのに、何を着ても似合うのだと、エスリンが不思議がっていた。今日おろしたというこのドレスでも、たぶん、似合っているのだろう。そういうキビは、残念ながら、この男にはない。
エリオットは、息が自然に上がってくるのを、口を押さえて抑えながら、天蓋の隙間から見えるラケシスを、えさをお預けにされた犬のような目で見ていた。
二年と言う時間と、彼女の周りにあるさまざまな不如意と苦労が、彼女にコレだけの色気をかもし出させるのだろう。はきはきぴきぴきとした角たったところはなりをひそめ、時々何にかにつく小さなため息の香りさえ、伝わってくるなら全部吸い込みたいぐらいだ。
「ううむ」
何より、ドレスの大きく開いた襟ぐりと、深く刻まれた谷間が仄見えて、いけない想像ばかりがふくらむ。自分が想像していた通りのぴちぴちぷりぷり具合が容赦なく迫ってくる。あの胸の大雪原には、すでに誰かが立ち入ったのか、いやいやアレは未開の雪原に違いない、それに最初に手を…じゃない、足を踏み入れるのは自分でなければならないと、エリオットは血走った目で、なめるように見ていた。
「待て、今は見るだけだ、時間はある」
そう小声で言い始めたのは、布団で隠れたところで何かあったに違いない。エスリンは、あきれて目頭を覆ってから、
「殿下、姫様は今お風邪を召して、お聞き苦しい声を出したくないと仰っていますから、私がお取次ぎをいたしますね」
と言うだけいい、ベオウルフに目くばせをした。ベオウルフはそれに、親指を上げて答える。
シナリオ第二幕は、そうやっておろされた。
寝台の帳の中では、エスリンがその貴族と、何ごとか話し合っている気配がする。エスリンの話によれば、その貴族は早くに先妻を亡くし、また自分も病がちでいつまで生きられるか分からない。アグストリアの至宝といわれた自分を世話したことで、そう遠いことではない冥土の土産話にしようと、そう言うことらしいのだ。話から想像すれば、年も決して若くはないだろう。
「ねえベオウルフ」
「なんでしょ姫様」
ベオウルフの気配に気がついたのか、ラケシスはすこしだけ視線をずらす。ちらりと耳飾りが光った。
「不思議な方ね、なぜ今私なのかしら」
「さあ、やんごとない辺りのお考えは、一介の傭兵風情にはとてもとても」
ベオウルフは何とはなしにそう返答したが、その言い方がカンに触ったらしく、ラケシスの気配はとたんに硬質化する。
「そういう言い方やめて」
「はいはい。でも、ほんとに俺にだってわかりませんぜ」
「そうよね、当事者の私がわからないのだもの」
そう自分でまとめて、また黙るラケシスに、ベオウルフがついはなしかけた。
「ほんとにいいんか、姫様? このまま、シレジアに骨うずめるのかい?」
「それもいいかもね」
ラケシスはそれだけ言った。心配の方向を悟って、突っぱねたのだ。ベオウルフは肩をすくめた。
エリオットは、意外な言葉を、エスリンを通じて聞き取っていた。現在の境遇から抜け出し、アグストリア復興のために身をエリオットの元に寄せられるのは、同郷のよしみをもこえた感謝をしている、と聞いた。
「私のためにそこまでのお心づかい、感謝いたします」
感謝の言葉は自分で言いたい。そういって、ラケシスが細い声で言った。
「お話がまとまり、落ち着いた暁には、…レンスターに…」
そして、自分の繰る言葉の中で引っ掛かるものを奥歯で噛むように首をかしげつつ
「…落ち延びた、義姉と甥を保護しなければなりません」
という。その仕種が、エリオットには、自分の言葉に感涙を禁じ得ないものかと見えた。
「…美しい」
ついあげた声は大きかった。ラケシスは顔をあげる。始めて相手の声を聞いたことで、一瞬からだがこわばる。まさかこんなところにいるとは思わないから、その声ははっきりしていても、エリオットのものだというところまでは思い至りそうではなかった。
「そんなこと」
ラケシスはガラになく赤らんだ。エスリンに視線でとがめられて口を手で覆ったエリオットだが、よくもそのはにかむという思わせぶりな仕種を覚えたものよと、エリオットは寝台の中で物言わず七転八倒した。こんな表情をずっと見ていられるなら、このまま病人になってしまってもいいとさえ思った。
寝台の中から激しい布のこすれる音がする。
「あ」
ラケシスが思わず立ち上がった。
「どうされまして? お苦しいのですか?」
「わぁぁぁ」
ベオウルフが思わず声を上げた。
「何よ、変な声を出して」
それに彼女が振り向いたスキに、エスリンが
「ええ、どうも、今までお咳を堪えておられたみたいで」
と取り繕いをはじめた。
「看病なら、私が」
と言い出すラケシスを
「いえいえいえ、うつすといけないから」
エスリンは
「それより、このお屋敷、お庭が綺麗なのよ、見に行きましょう」
ラケシスを押し出すようにして、
「後はお願い」
と、扉を閉めた。
「バカ王子、もう少しで何もかもだめにするとこだったんだぞ。
寝ねぇで一人遊びにいそしんでも、まだ足りねぇか」
ラケシスをエスリンにまかせて、ベオウルフがエリオットの相手をする。
「もちっとこらえ性があると思ったがな」
「バカ言うな、あんなお預け状態にされて、おとなしくしていろってのが無理だ」
「その無理も我慢してもらわなきゃ、姫さんつれて御凱旋なんて、夢のまた夢だぞ
獅子の後に収まりたきゃ、まあ狼とはいわねぇが、猟犬ぐらいにゃ最低なってもらわんとな」
「うう」
ぴしゃりといわれて、エリオットがへこむ。
「さて、病人ごっこは終わりだ、着替えな王子さん。
少し剣の稽古をつけてやらぁ。そのままじゃ、決闘本番で恥かくぜ」
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