エスリンの頭の中では、いかにエリオットに一線を踏み込まれずに、望ましい状態に持ってゆけばよいものか、実行部隊としてさまざまに筋書きが動いているものと思われた。それはもうただの暇つぶしを超えて、ともすればリーフのことも、キュアンやメイドたちに任せっぱなしになることもしばしばだ。
「エスリンは一体どうしたんだ」
と、キュアンがいぶかしい声を上げる。
「エリオット王子を保護してからこの方、頻繁にラーナ殿にお目通りしているようだが」
「退屈の虫だましですよ」
とベオウルフは答えるよりない。キュアンにしゃべったら、フィンに筒抜けちゃうから、それだけはだめよ、と、エスリンは硬く口止めをしていた。
「夫の私にも教えてもらえないことか?」
と、キュアンが聞くと、
「これ以上は、契約上の守秘義務ですわ」
ベオウルフは飄々として返答した。
「なんにせよ、あまり熱中しないように、たまにはリーフと寝てあげてくれといってやってくれ。
昼はシグルドのグチにつきあい、夜はリーフの夜泣きにつきあい、私も大変なんだ」
キュアンがそういってのびをする。
「了解、そのように申し上げておきます」
「ベオウルフ」
「はい何でしょ」
「お前、傭兵としてはかなり毛色が変わってるが、できる奴だな」
「おや、ほめてくださるんですか」
「エルトシャンが信用したのもわかる」
「はは、そのことですか」
ベオウルフが後ろ頭をかいた。
「久しぶりに、奴の話が聞きたくなってきた。
よかったら、一杯付き合ってくれるか?」
「願ってもない」
その事件が起こるまでは、取り立てて何があったというわけではない。
ラケシスとエリオットは、館のあっちとこっちで顔も合わせないのに、ひとつ屋根の下で暮らし続けている。お互いがお互いの本当の事情を知らぬままに、である。何かの弾みで二人が顔をあわせたとしたら、有頂天かあるいは阿鼻叫喚か、いずれ大パニック間違いなしだろう。
あえて変化があったといえば、フィンの酒の上達振りだろう。そろそろワイン一本ぐらいなら、自力であけられそうになっていた。それ以外にやさぐれることはなかったが、たまの教練で実戦のような気迫を感じると、フュリーがこぼすのは知っていた。それはたぶん、気迫じゃないかもしれないよ、と、下品な冗談は、フュリー相手には通用しないから、ベオウルフはそれは言わなかった。彼の持つベクトルがわき目も振らない一方向なのは重々承知だが、エリオットは積極的に行っているらしきプライベートの息抜き加減までは知らない。
「次の手はずはどうなってるんですかい?」
ある日、ついせかすような言葉が出てしまうと、エスリンは、
「そうね、そろそろいいんじゃないかしら」
と言った。
「ラーナ様が、セイレーンに近い海賊警戒用のとりでを貸してくれるって仰ったわ。今あれは必要ないから、周りもそれとなく護らせるし、安全よって」
「へぇ」
「問題は、そこにどうやってラケシスさまを連れて行くか、ねぇ」
「いっそ俺が悪党にでもなりますか」
「だめだめ、あなたじゃすぐわかっちゃう」
間食のサブレをさくさくとやりながら、エスリンは手をはらはらと振った。
「なんか、こう、本物って感じがないわ」
「じゃあどうなさるんです」
「町で雇ってこようかしら」
そうしようっと。エスリンがかたり、と腰を上げた。
「おおお、奥様、いくらなんでもそりゃ無謀ってもんでは」
「大丈夫よ。もし何かあっても、ラケシス様なら大丈夫。マスターナイト様なのよ」
この根拠のない自信はどこから来るんですかまったく。言う言葉を探している間に、エスリンは、風のように、どこかに消えてしまった。
「しまったぁ!」
ラケシスも、新しい部屋の風景にだいぶ慣れてきた。セイレーンで使っていたメイドを呼び寄せたり、足りないものをとりに行かせたりして、彼女の周りは、だんだん「普通」になりつつある。
「さむ…」
窓の際は、冷気が降りて寒い。ラケシスは自分の体を抱くようにして、椅子につくねんと座った。
たしか、こんなおとぎばなしがあったな、と、ラケシスは手元の本をめくる。
ただ人の娘に恋した妖精が、その彼女を妻に迎えはしたが、妻は夫の妖精の姿が見えなくて、戸惑いながら暮らしている…そんな話だった。今の自分と同じだ。ラケシスはくす、と笑う。
まだ、ちゃんと神に誓ったわけではないから、本当の夫婦ではないけれど、たぶんそれはきっと、自分がいなくなったとき、未亡人にして次の結婚の障害にならないように配慮してくれているのだと、彼女はそう思うようにしていた。余計なことは何もいらない、ただ、私を迎えたその自慢話だけを最期の旅の土産に。
「面白い人」
顔も名前も知らない夫に、ラケシスはほんの少しだけ、愛着を覚えていた。そのうち、馬車の用意ができたと知らせがあり、
「すぐいきます」
本をぱたりととじた。
ラケシスが突然移り住んだ理由は、周囲にはただの気分転換ぐらいにしか言っていなかった。見えない夫に望まれた話は誰も知ることはなく、そのかわり羽根枕をひとつ盛大に壊した話のほうが城では有名だったから、しょうがないよね、という言葉が大概だった。
そのセイレーンにたびたび戻って、友達たちと話すことはまだ続いているが、いつまでも、そうしていてはいけないのじゃないかしら、そう思って、馬車にゆられる。後ろから、別の馬車が見える。
「あの方もお出かけなのだわ、気がつかなかった」
きっと、ラーナ王妃のご機嫌伺いに、シレジアの城にゆくのだろう。
しかし。その様子がかわった。
「あ!」
道端から飛び出した一団が、馬車を開けて、中の人を担ぎ上げた、身あてでもくれたのか、かつぎあげられた人はピクリともしていない。
「いけない!」
ラケシスは手元の剣をとり、馬車から飛び降りた。しかし。
「おや、姫様から飛びだしてきた、話がわかるねぇ」
と言うだみだみとした声がきこえた。
「お退きなさい。あの馬車の方をどこにつれて行くの」
「さぁねぇ」
山賊まがいの男たちが、総出で、ラケシスの手足を取った。
「きゃ」
「さて、少しばかり、おとなしくしてもらうぜ」
どすっ。
首に、重くて鈍い痛みが走って、ラケシスはそのまま倒れこんだ。消えそうな意識のなか、
「おいおい、首はまずいよ、あざになるじゃねぇか」
「腹にはいれられねぇよ、コルセットは硬いんだぜ?」
と言う声はしたが、その先はおぼえていない。
とにかく目を覚ましたとき、自分は、寒々として、がらんと広いだけの部屋で、毛皮の敷物と毛布にくるまれていた。
「ここ…どこ?」
そして。
「いててててて」
男ども二人は、一緒くたになって隣に放り込まれる。先に目をさましたのがベオウルフだったのは、ひとえに日ごろの心がけと鍛え方の違いというものだろう。
「何で俺まで襲われるんだ…いてて」
後ろ頭が痛い。おそらくここをしたたかに打たれ、そのままここに放り込まれたというのがオチなのだろう。振り向くと、エリオットはまだ目を覚ましたような気配はなく、投げ出されたままぐったりしている。まさか死んではいないだろうな。頭を殴られたためだろう、おぼつかなくなっている手足を動かして、にじるように近づき、
「おい、王子さん、起きろ」
と、頬をたたいたり、耳を引っ張ったり、そうしている間に、
「んが」
と王子の目も覚める。
「…どこだ、ここは。これは一体なんのつもりだ、ラケシスはどこだ」
目が覚めるや矢継ぎ早に訊いてくるエリオットの口をふさぎ、
「まあまあおちつけ」
といってみる。
「まあ、驚かんできいてくれや王子さん。
どうも、俺ら丸ごと何かに巻き込まれたかもしらん」
「何!?」
「だから。大きな声だすなっつうの。今から説明するから」
ベオウルフは、自分が知っている限りの今回の筋書きを話し出す。ラケシスは、エリオットがシレジアにいることなど、まったく知らないこと、あの屋敷に一緒にすんでいることさえしらないこと、今ここに投げ込まれているのも、ちょっと手荒な方法だが筋書きのうちだということ、など。
「ただ、ひょっとしたら、この後は筋書きとずれるかも知れないけどな」
その後の説明は、今必要なかった。特に、エスリンが描いた壮大な何かの筋書きの目的はもはなせるものではないと思った。自分は単なる当て馬だと教えたとして、この狭い牢替わりの部屋で暴れられようものなら、自分もどうなるかわからない。
とまれ、かくかくと説明を受けたあと、エリオットは
「すると何か、俺はあの侍女殿のお遊びに巻き込まれたということか」
「まあ…そんなようなものだな。そういう意味では、姫さんも俺もあんたも、みんな被害者だ」
「…」
エリオットは虚を突かれたというか、毒気を抜かれたというか、へなっと腰を抜かした。
「そうか、俺にはラケシスは見えてても、ラケシスに俺は見えてなかったんだ」
「まあそういうわけだ。
だがな王子さん、これからいかんで、それがひっくりかえるぜ」
そう励まそうとしたが、エリオットは彼の頭ではにわかに処理しきれない、複雑な事情というものになのだろう、ぽかんと口を開けたまま、冷たい石の床にへたり込んでいる。ベオウルフは無理にエリオットに話し掛けないことにした。
ベオウルフは成り行き上、二人分の状況把握をしなければならなかった。
ここはどこで、今どういうことになっていて、そして自分らはこの事態を打開するには何をすべきか… そんなことを考えながら、明かりとりの窓の向こうをのぞこうとしたとき、
「そこに誰かいるの?」
と、聞きなれた声がして、我に返させる。エリオットも、その声に、うなだれた顔を上げた。
よくみると、一部の壁はレンガになっていて、そのレンガがくずれて、ぽこりとおしだされてきた。その向こう側から、白い指がひらひらと、二人を招くように動く。二人はすべからくそれに吸い寄せられる。覗き込むと、穴というにはいささか大きいそこから、見慣れたはしばみ色の瞳がのぞいていた。
「姫さんか?」
「ああ、よかった、隣同士なのね」
「姫さんこそ、けがとかないかい」
「ええ、怖そうな人たちにここに連れ込まれただけよ。そこは、あなた一人?」
「んー、まあ」
ものをいいたそうだが声にならないエリオットの口を押さえて、押しやりながら
「そんなよなものだ」
「あの方はご無事?」
ラケシスは単純に質問をしたつもりだった。あの馬車には件の貴族がいるということを、ラケシスは信じている。しかし、ここは話を合わせなければならない。実はエリオットだなどとここで言ったら、この姫さんも何をしでかすかわからん。
「だといいな。まあ、ご身分の有る方だ、悪いようにゃあされてないだろうがな」
「それならいいわ…お歳を召してらっしゃるうえにご病気がちというお話ですもの、こんな寒いところに長くいらっしゃったら、ほんとに」
たしかに、石作りの部屋は寒かった。うずくまるエリオットはいささか歯の根も合わない風情にも見える。しかし、ラケシスの心配は、そのエリオットの上っ面を滑り抜けた、空気の上に注がれているように見えた。気の毒に思いながら、ベオウルフは、側に有った、麻で出来た何か穀物の空の袋を、その上に投げてやる。そして、尋ねる。
「なあ、姫さん、ここはどこか、わかるかい? 窓とか有るなら、身軽なところで覗いちゃくれないか」
「いいわよ」
ラケシスの姿が消えた。たるが転がるような重い音の後、頭の上のほうから降るように、彼女の声がした。
「…オーガヒルが見えるわ。
向こうから見て、あれがシレジアの土地ですって、フュリーが教えてくれたとき、砦が有ったような気がしたの。その辺りかもしれない」
「さすが賢い姫さん、それだけわかれば御の字だ」
ベオウルフはレンガの穴から手を出して、親指を立てた。場所だけは、エスリンが計画していたのと同じ場所だ。これも何かの運だろう。
「でも、それがどうしたの?」
ラケシスの目がまた穴からみえて、聞いてくる。
「どうしたも何も、セイレーンに助けを呼ぶんじゃないか。件のお貴族様を、いつまでもこんな寒いところにおいときゃいられんだろうが」
「そうね」
「それに、あんた自身も誰かに迎えに来てもらう必要が有るだろう」
ベオウルフは、わざと彼女に余計なことを連想させるような言い方をした。案の定、かえってくるラケシスの声は、気丈そうながらいささか曇ってもいた。
「私への迎えよりも、あの方が無事もどれるためにも、セイレーンへ行って」
「もちろんだ。ただな、俺にとっちゃ、雇い主があるとはいえ、姫さんが最優先事項だってことをわすれてもらっちゃこまる。
まだまだ、金貨一枚の範囲ってヤツだぜ」
「そんなこといって、私を笑わそうっていうの?」
声が震えてきてるのは、寒さのせいだろうか。ベオウルフは、エリオットが寒さで我を失っている間をうかがうように、
「なあ、姫さんよ、そろそろ、おかんむりもおしまいにしねぇか。このしばらく、あんたほんとよく我慢したよ」
「…」
横を向いたとき、窓からの光を受けたか、何かが耳元できら、と光る。見慣れた光だ。つくづくとベオウルフはため息をつくようにいう。
「その耳飾り、ずいぶんお気に召してるようじゃないか」
「…」
ややあって
「なんであなたは、そういうことにすぐ気がつくの?」
と小さな返答。
「もらってからずっとつけてるのに、…気がつかないのよ。
鈍感で、朴念仁。それがいいところなんだと思ってた私がバカみたいだわ」
ベオウルフは「あー、もう」と、自分の頭をぐしゃっとやり、
「とにかく姫さん、そこでおとなしく待ってろ。今にセイレーン詰めの部隊まるごと持ってきて助けてやるから、な。誰が迎えに来ても文句言うなよ」
それからころがってるエリオットに、ぼきゅ、とヒザでケリをいれる。
「ほら立てバカ王子、運動で体あっためるんだ」
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