気がつけば、あの事件から、二年三年という時間がたっていた。
外に出る任務のない間、サクミスは、上官だったサガが守っていた教皇の間近くを守っている。
事件と一緒にいなくなって、同じだけの時間がたっている。
「あの方は今頃…」
どうなさっているのかしら。「賊」を見つけ、討ち果たすまで、帰ってこないおつもりなのかしら。そう思いながらいると、後ろから、不思議と懐かしい気配が近づいてくる。
「うそ…」
振り返る。雑兵や、配下の下級聖闘士がいる手前、大げさな驚きはできなかった。しかし、同じように気配に気がついたのだろう、彼らはあわててその気配に膝を折る。
「あ」
サクミスもあわてて膝を追った。余計なことを考えていたから、ついその気配を勘違いしたのだろう。教皇がそこにいた。
「見回りご苦労」
彼は厳かに言う。
「はい、異状はございません」
サクミスはそう返答する。
「ならばよい。私のいる場所にまで危険が及ぶなら、聖域一代の危機であろうから」
「もっともにございます」
教皇は、サクミスを見下ろしていた。
「カシオペア星座の、サクミスと言ったな」
「はい」
「お前に任せるべき任務が参謀よりあがってきている。来るがよい」
「…わかりました」
サクミスは、配下たちに、見回りに手を抜かぬよう、よくよく言い置いた後、教皇の後についていくことになった。
教皇は老齢であると、サクミスは聞いている。しかも、例の事件で、後継となるべき若い黄金聖闘士を二人も失って、一時は何も手がつかぬほど、焦燥していたという。それももう収まったのだろうか。教皇は、正式な謁見を行う前の控えの部屋に、サクミスをいれ、近侍の衛兵を全員、外に去らせた。
こんな場所で、参謀からの任務指令を受けたことはなかった。サクミスは仮面の下の怪訝な顔で、去ってゆく衛兵たちを見る。
「どのような、ご命令でしょうか」
そう教皇に問うていた。教皇は
「場所から、参謀よりの指令としたが、実は、私個人から、お前への指令である」
と言い、そばまで寄らせた。
「これから、私の秘密を見せよう。お前はこの秘密を、私と共有せねばならぬ」
「…はい」
「この秘密が明かされたとき、聖域は動転するだろう。そのときは私もお前も、爾後生きること能わずと、覚悟をしてもらいたい」
「…わかりました」
サクミスは、教皇の前に膝をついた。
「教皇のお命をかけた秘密を共有すべしとは、身に余る光栄でございます。その使命、命にかけても、口外はいたしません。
サクミス、ここに誓います」
「いい返事だ」
教皇は満足そうにいった。
夜になろうとしていた。教皇は、手ずから、そばにあったランプの芯を上げ、部屋がぼんやりと明るくなる。そのランプの光を跳ね返して、髪が淡い金色に光った。
「では見せよう、私の秘密を」
そういいながら、教皇は、頭全体を覆う仮面を、ゆっくりと取った。
「!」
サクミスは、薄明かりに見えたその顔に、二、三歩後じさりする。
「驚いたろうね」
教皇は、つぶやくように言った。サクミスは、すぐには声が出ない。
「すべては、私の中の、制御できなかった邪悪がしたこと。
そして私は、こうして自らを欺かねばならない罰を延々と受けている。
邪悪は、今も、私を苦しめている。いつ、それがやってきて、私をさいなむのか、私にもそれがわからない」
ヘリオドーラ。教皇は椅子から離れ、腰が抜けたようなサクミスの手を取る。
「わがままだとは、わかっている。
しかし、君がいないと、私は邪悪に食い尽くされてしまう」
「…」
サクミスは、今になり、事件の真相をおぼろげながら理解する。一度暴走が始まったら、聖域と全世界の聖闘士、そして女神を欺くような事件を起こさせるような邪悪が、自分ひとりで御せるのだろうか。
「私でいいのですか」
「君でないと、だめなんだ」
手繰るように抱きすくめられて、サクミスは、あのときの懐かしい気配は、自分の間違いでなかったことを実感する。
事実の露見はいつかなること、その時間を少しでも延ばそうという、彼の精一杯の努力なのだ。秘密を共有することで、この人の不安が分散されるなら、喜んでその重荷も一緒に担ごう。
「わかりました」
サクミスも自らすがり返し、その精一杯に答える。
「私ならではできぬ使命と心得ました、だからもう…怖がらないでください。
サガさま、私は、いつまでもそばにいます…」
誰もが、教皇の間にいるのは、齢二百をゆうに越した、前聖戦の生き残りであり語り部のひとり、元黄金聖闘士のシオンだと思っている。
しかし、ふたを開ければ、それはシオンではなく、今の時間を若く生きるサガである。事件のころはまだ少年の域であった体躯も、時間のたった今は、その称号を受け止めるのに十分耐えうる逞しさを備えていた。同じように事件からの時間をへて、聖衣からあふれるみずみずしさをたたえたサクミスと、求め合うようにひとつになってゆくのも、ある意味当然といえた。二人に聖衣さえなければ、三年ぶりに再会できた恋人と言っても、何の不思議もないのである。
教皇が、サクミスを近侍の衛兵のまとめ役に任じることに、誰も口はさしはまなかったが、生半可に教皇を知る向きは、若い女聖闘士を近侍に混ぜ込んで、いったい何が楽しいのだと、その冷や水を興味本位で語るものがあったのが、いたとかいないとか。
それとして。
アリアドネの根気強い弟子の「養育」は、当然ながら続いていた。
「まず養育を、ですか。聖域の外を知っている彼女らしい言葉ですね」
と、参謀エウゲニウスが感心したように言った。
「アリアドネの言うことにも一理ある。まず言葉がわからずしてどう小宇宙を論ぜよと。
だから、彼女のさせたいようにさせとるのさ。
魔鈴もいい子じゃよ。アリアドネの気持ちがわかっているのか、必死に後をついていこうとしておる。
むしろ師弟というより、アレは姉妹か親子じゃな」
ゴルゴニオはそうわらった。しかしエウゲニウスはあまり楽しそうな顔ではない。
「今日はその話を伺いに来たのではありません、ゴルゴニオ殿。
今日の参謀たちの決定の事ですよ」
「ああ…何じゃったかの」
「アイオリアさまへの聖衣の譲渡がまた延期になりました」
「何度目かのぉ」
「もう数えるのが面倒になりました。
なぜでしょう、もうすでに拝受して、任務さえこなしている方もいるというのに」
「坊がバシレウスの名前と、アイオロスの弟だという事実をしょっている限り、無理ではないか?」
ゴルゴニオの声は投げやりである。
「それでは、一生無理ということではありませんか」
「そうなるな」
「それではむごすぎます」
「そうかな。
むしろ、今の参謀たちの頭の中身を替えたほうがよくはないかエウゲニウス、お前も含めて」
「は?」
「家名をしょって聖闘士になるは、はや昔の話ということじゃよ。女神が現し身をもたれ、その女神の封印の完全失効が近いというこのときに当たって、なぜそんな些細なことで聖衣への道を絶とうとするか」
「では、教皇へお口添えいただけますか」
「いただけますもなにも、シオン殿が一喝あれば簡単に打ち止めになろう話が今まで後引くのがしんじられぬ」
「どうか、よろしくお願いいたします、どうか」
エウゲニウスは何度も頭を下げながら、もと来た道を戻ってゆく。ゴルゴニオは「やれやれ」とため息をついてから
「出てきてよいぞ、アリアドネ」
という。奥の、昔は自分の部屋だったあたりからひょこりと、アリアドネと魔鈴の顔が出る。
「エウゲニウスの顔は趣味じゃないかえ?」
冗談たっぷりにゴルゴニオが言う。
「聖闘士になる前の顔を知られてしまってますから、ちょっと」
「なるほど」
「おばば様は、これから教皇の所に?」
「うむ、ゆかねばならぬのう。
シオン殿が、参謀の言うままというのも少し気になる」
「途中まで、お供します」
アリアドネが出てくるが、
「ああ、よいよい、勝手知ったる道じゃ。魔鈴を一人にはしておけぬだろう」
ゴルゴニオはしわがちの手をはらはらと振って、外に出て行った。
「本当に、お元気だこと」
アリアドネはそう、何とはなしにつぶやいて、
「帰りましょうか、もう夕方だものね」
と魔鈴に言う。しかし魔鈴はアリアドネの服をつかんだまま、部屋の一点をじっと見ている。
「どうしたの?」
「しらないひと、いる」
アリアドネは魔鈴を後ろに回し、かばいながら
「誰かいるの?」
と、その方向に問うた。ややあって
「いるよ」
と聞こえて、積み重なった本の間から出てきた顔に、アリアドネは唖然とした。
「…アイオリアじゃない」
何かとゴルゴニオの家を出入りしている間に、いつの間にか彼とも聖闘士としての顔見知りになってしまっていた。今のところ、自分が踊り子だとは、彼は気がついていないようだが。
とにかく、本の山を崩しながら
「俺でびっくりした?」
と這い出るアイオリアに、ついアリアドネの言葉がトゲをもつ。
「びっくりしたわよ。
…さては、おばば様とエウゲニウスの話も、黙って聞いていたわね」
「聞いてたよ」
よいしょ。アイオリアがその本をのけて、出てこようとする。しかし不安定に詰まれた本はぐらりと大きく揺れ、
「きゃあっ!」
アリアドネが反射的にバリアを張ってかばっていなければ、小さい魔鈴をうずめてしまいそうなほどの山になった。
「昼寝場所は、もう少し考えることね」
怪我はない? 魔鈴の体を調べるアリアドネに、
「へえ、その子がアリアドネさんの弟子?」
とアイオリアは気軽に言った。アリアドネは魔鈴をその視線から避けるようにして
「そうよ。大切に預かっているの」
そう答えた。仮面をつけているから、子供の表情はよくわからない。しかしアイオリアはぐるぐると回りこんでしげしげと見た後、
「先生が怖かったら、俺に言いな。一発びしっと言ってやるから」
という。しかし魔鈴は自分からアリアドネの後ろに回りこんで、
「せんせい、こわくない」
と言った。
「ですってよ。
さ、アイオリア、黙って入ってきいたなら、おばば様が帰ってこない間に、家に戻ることね。本は私が片付けておくから」
本をもう一度積み上げながら、アリアドネが言う。するとアイオリアは実に神妙そうに
「家には帰りたくない」
といった。
「じゃあ、宮でもいいじゃない。称号はもう持っているのだし、従者がいるでしょう」
「もっといやだ。あいつら、腹の中で、何考えてるかわからない」
「…そんなものかしら」
アリアドネは本を積み上げる手を止めた。
「そうじゃなきゃ、俺に聖衣がこないはずがない」
その手を引き継ぐように、アイオリアが本を積み始める。
「アリアドネさん」
「何?」
「兄貴が生きているうわさがあるって、本当?」
「…そういう人も、いるみたいね。私は、事件のときは聖域にいなかったから、詳しくは知らないけれど」
「アリアドネさんはどっちだと思う?」
アリアドネは、あえて口をつぐんで、積み重ねきれない本を、本棚に戻しに行く。
「事実を見ないと、私はこれだといえない性分なの」
そういいながら。
「生きてると思ってるんだ」
「証拠がないとね」
「それとも、死んでる?」
「証拠がないとね」
アリアドネはふう、とため息をついた。
「おばば様が、何のために今この家を出られたのか、さっきの話を聞いてわからなかったの?」
「わかってるよ。俺に聖衣を渡してやってくれって言う話だろ? 教皇様と対等に話できるのは、五老峰の老師とおばば様だけみたいだから」
「わかっているじゃない」
アリアドネがまた、本棚に戻す本をとりに戻ってくる。
「あなたのお兄様が生きているか死んでいるかは、これからのあなたの振る舞いが決めるのよ」
「どういうこと?」
「あなたがどちらかを思っているようにふるまえば、それがそのまま信じられてゆくのよ」
「…よくわかんないや」
「難しいわよ」
あらかた本を片付け終えて、今度はアリアドネは奥の方に入ってゆく、魔鈴に
「いらっしゃい」
とこえをかけると、魔鈴はとと、とその後を追ってゆく。
「ついでだわ、あなたの服をここからすこしもっていきましょ…」
そんな呟きが聞こえる扉を、アリオリアは
「アリアドネさん、俺本当にどうすればいいんだよ」
といいながら開ける、と、
「きゃあっ」
と声が上がる。アリアドネが昔自分の着ていた服を、魔鈴に合わせていた途中だったのだ。文字通り、アイオリアは部屋から蹴り出される。
「どうするかなんて、自分で考えなさい。あなたの頭の中は空気や筋肉が詰まっているのではないのでしょう?」
扉の中からそういう声が聞こえて、アイオリアは
「考え方そのものがわからないんだよ」
と返した。その辺にあった古びたトランクに、選んだ服と小物とを投げ込みながら、
「じゃあ何も考えずにいなさい。
あなたはじきに聖衣を拝受するでしょうから、そうしたら、聖域から出される任務を、ただ黙ってこなすことね。そうしていれば、自然とわかってゆくわ」
アリアドネは実に投げやりにいい、トランクを片手に、魔鈴の手を片手に、部屋を出てくる。
「私がしてきた方法よ、間違いはないわ」
そして最後に、アイオリアにちらりと見た。
「血縁を切る方法はないの。
あなたへの風当たりはいつまでも強いわ。でも、私は、あなたがそれをできないとは思っていない」
「…」
アイオリアは何か言いたいのに言葉が出ないのか、唇を引き結んだ。そこに
「なんじゃアリアドネ、まだおったのか」
と、ゴルゴニオが帰ってくる。
「おばばさま様も、お早くて」
「すぐ近くまで近侍の衛兵が背負ってくれての。ああ、楽じゃった」
ゴルゴニオはほほほ、と笑う。そして、アリアドネの傍らにアイオリアが立っているのを怪訝そうに見る。
「何でお前がここにおる?」
「ちょっとね。
おばば、俺の聖衣は?」
「まだお前の聖衣ではない。
しかし、一両日中にも、獅子座の聖衣はお前のもとに来るだろう」
「やった!」
アイオリアはひとつたん、と床を蹴った。
「しかし慢心はいかんぞ、お前がなぜ今まで聖衣を拝受できなんだか、その理由をよくよく考えて、聖域からの指令にはこれを神妙に受けることじゃ」
「わかってる!」
彼はゴルゴニオの話を最後まで聞いていたのか、気がついたら、いなくなっていた。
「やれやれ、すばしこさだけは人並み以上になりよって」
ゴルゴニオがためいきをつく。
「アイオロスは同じ年でも、もう少し落ち着きがあったように思ったがの」
と言ってから、
「いかんいかん、比べてはいかん」
ふるふると頭を振った。それからアリアドネに
「何でアイオリアがここにおった?」
と尋ねた。アリアドネは本の積みあがり具合が少し変わってしまった場所をちらりと見ながら
「言いにくいのですが…」
と説明した。