BACK

<これまでのあらましっぽいもの>
 女神降誕にまつわる一連の事件…後世「サガの乱」とも呼ばれるらしいが…のあと、英雄と呼ばれたアイオロスは一転逆賊の汚名を着、その行方が知れずにいた。
 アイオロスという名前さえも禁句となった聖域、そして聖闘士の世界であった。しかし、存在をやみに葬られただけで、アイオロスは生きているという、当局にとってはあまり喜ばしくない主張が、ささやかれていた。
 アイオロスを神格化するように、その主張は全世界を流れる。ある一人の名前のもとに。
 しかし誰も、名前の正体を知らなかった。
 聖域は小さな火種を抱えつつ、事件から一年を迎える。そのころ世に出た一人の白銀聖闘士に、聖域の視線は集中した。
 アリアドネ。ほかならぬ、かの踊り子である。



わかくさ


 前の聖戦において封じられた邪悪の封印は、いつ失効してもおかしくないと、聖闘士の世界では前から言われていた。封印された場所も規模も、大小さまざまあり、五老峰の老師が監視しているのは、その中のもっとも大きなひとつに過ぎない。。
 小さな封印は、すでに失効し、その隙間から邪悪の欠片が迷い出ては、何も知らない住民を脅かしている。それをアテナの力をもって退け、再び封じるのが、聖闘士のもうひとつの仕事であった。失効した封印の規模により、どの階級が何人派遣されるのかは、参謀たちが決め、教皇からの指令という形で聖闘士が赴く。
 アリアドネはそこで実戦を身につけた。異形のものにひるまない胆力と、小宇宙の細かい扱い方を、である。
 神話からも忘れられた異形のものを、トレードマークになった長い髪のようにしなやかに、細く伸ばした小宇宙の刃で舞うように切り刻むその姿は、同輩や後輩の聖闘士から口々に伝わり、アリアドネに向けられる視線は、出身地も修行地もわからない好奇の目から、羨望と敬愛の目に変わってゆく。
 女聖闘士は仮面をつけ、その女を隠さねばならない。しかしアリアドネは、聖衣に覆われてもにじみ出るたおやかさを、無理に隠すことはしなかった。他人がそれをすれば、女聖闘士の本分を見失ったのかと、揶揄されることもあっただろう。しかし、アリアドネの持ってる小宇宙が、あるいは白銀の域を突き抜けようとする高まりを示すことを知っているものには、アリアドネの振る舞いも、実力に裏打ちされたこだわりに見えるのである。
 アリアドネが、聖闘士の世界にとけこみ、それなりの名声を得るのに、何年と時間はかからなかった。

 アリアドネは、女子区の中に独立した住まいも持っていたが、まだゴルゴニオの家で過ごすことも多かった。
 あの家をゆりかごにして、巣立っていた女はたくさんいる。あるいは聖闘士となって、あるいは参謀となって、どちらの素質にも微笑まれなかった娘でも、ゴルゴニオから何がしかの能力や技術を与えられ、旅立ってゆくのだ。
 しかしこの日、アリアドネは女子区にある事務所に呼ばれていた。待たされている間、仕事場を、十歳にもならないだろう、小さい女の子が、駆け回るようにして遊んでいる。一人は銀色の髪で、よく見れば瞳が赤い。もう一人は、よくある金髪ではあったけれども、二人に同じく言えることは、同様にかわいらしい、ということだ。
「新しい養い子ですか?」
と、後から事務所に入ってきたゴルゴニオに尋ねると
「いや。わしが育てたのではなく、女子区全体で育てているのじゃ。この子たちには天賦の素質があっての、特別万一のないようにされておるのじゃ」
「天賦の素質? …おばば様みたいに、長生きなさるとか」
と返すアリアドネは、ゴルゴニオが何歳になるか知らない。前の聖戦を行きぬいたと彼女は言うが、それも信じられなかった。
「…説明しにくいのじゃがの。彼女らがその天賦の才を存分に発揮させるのはもっと後の話で若干ややこしい手順が必要で…」
ゴルゴニオはすこし難しい顔をした。
「つまるところ、あの二人は、『黄金の雨』の新しいしずくなんじゃ」
黄金の雨、という組織の名前は聞いていた。聖闘士の女子のしきたりを作り、厳重に管理しているということは知っていたが、それ以上のことは知らなかったが。
「聖闘士のように、代替わりがあるのですね」
「そういうことじゃな。もしかしたら、お前も将来お呼びがかかるやも知れぬぞ」
「そうなんですか?」
「知らん。わしゃ、たまたま人手の足りなんだから手伝うているだけで、資格そのものはないようじゃからの」
ゴルゴニオは混ぜ返すように言い、一緒入ってきた女雑兵に、
「クレアとニーナは、外で遊ばせてあげておくれ」
小さな女の子たちを外に出し、自分の机に座って、ゴルゴニオは一息つく。
「アリアドネ、お前に聖闘士養成の指令がきておる」
「私にですか?」
「参謀の間でも、お前の働きの目ざましいことはたいそうなうわさじゃ。
 むしろ、聖闘士となって長くもないのに養成を任されることは名誉に思わんとな」
「そういう、ものなんですか」
「弟子もすでに到着しているのじゃ、年季が云々と言うて、拒否はできぬぞ」
いれておあげ。外に向かいそういうと、さっき見た子供たちより、もっと小さい女の子がひとり、黒衣の人物と一緒に入ってくる。男性がやむを得ず女子区の中に入る場合は、一切の素性がわからないように、黒衣で身を包むのも、あの「黄金の雨」が決めたしきたりであった。
「この子じゃ」
黒衣の人物にすがるようにしている子を、ゴルゴニオは指す。そして、黒衣の人物に持たされた紙をぺらぺらとめくり、何かを探した後、手招きをしながら声をかける。黒衣の人物から手を離し、アリアドネの隣に立ったのを、ゴルゴニオはまた髪から何かを探して、笑いながら声をかける。
「さっきから何をご覧なのですかおばば様」
「この子の来た土地があまりに遠くて、言葉のわかるものがおらぬのじゃ。必要最低限の会話ができるように、こうして紙を送ってきたはきたがの」
「ではゴルゴニオどの、自分は失礼しますぞ」
黒衣の人物はそういって、それから連れてきた子に、何事かを言って、去っていった。しょんぼりとしたその顔を見て、アリアドネは、
「おばば様、ちょっとその紙見せてください」
と横から紙を見る。
「えーと、えーと」
こんな時にかけられる言葉はないのか、アリアドネは紙を見つめ、やっと
『こちらをむいて』
と言うことができた。言葉のとおりに振り向いたところを見ると、アリアドネの発した言葉は、何とか通じたようだ。
「えー、と…
『きょう、から、わたし、が、あなた、の、せんせい、です。なまえ、を、おしえて、ください』
お名前を教えてくれる?」
アリアドネはゴルゴニオに目配せをして許しを得ると、仮面をはずして、笑んだ顔を見せた。子供はアリアドネの目をじっとみて、
「まりん」
と答えた。
「いいお名前ね」
「そのうちそれらしく字を当ててやろうほどに」
ゴルゴニオは紙をつい、とアリアドネに押しやった。
「お前がせねばならぬことはたくさんあるぞ。下に降りてもおかしくないように、言葉も教えてやらねばならぬし、もちろん、聖闘士としての心技体を健やかに育てるのもお前の仕事じゃ」
「はい」
「さ、わしの仕事はここまでじゃ。
 期待されておるのだよ。その期待に見事こたえることができぬお前とはわしゃ思わん」
ゴルゴニオは、次の仕事がつかえているのだろう、さっさと事務所を出てゆく。行きながら
「ああそうじゃアリアドネ、仮面をわすれるでないぞ」
と付け足した。

 アリアドネと子供だけが残される。その後、紙ごしの会話で、彼女が五歳であること、そして、あわせて送られた書類で、彼女の出身が日本ということを知った。
 酒場に張られていた世界地図を、アリアドネはなんとなく思い出す。ギリシアから遠く東にあって、大陸の端にひっかかるように、海に浮かんでいる小さな国の名前だった。それを一緒に眺めていた面影さえ思い出されて、
「ずいぶん遠いところから来たのね」
とアリアドネがしんみりと言う。子供はきょとんとして、アリアドネの顔を見上げていた。やがて、彼女の紙を見て、その一点を指す。
『名前を問う』
というところの一文をさしていた。
「私の名前?」
アリアドネが自分を指して言うと、子供はうなずく。
「私は、アリアドネ。わかる?」
「ア…リ?」
「ア・リ・ア・ド・ネ」
「ア、リ、ア、ド、ネ」
「そう」
よく言えたと、ほめる代わりに、アリアドネは子供を軽く抱きしめ、頭をなでた。
「私の家を、あなたが住めるようにしないとね」
アリアドネは紙を見た。しかし、すぐにそれを書類の中にしまった。手を引けば、それが自分をどこかに連れてゆくしぐさだと、わかるはずだ。アリアドネは、扉を開けて、子供を外に誘った。

 アリアドネの、女子区の中の家は、こんな小さな子供と一緒に住むようにはできていない。でも工夫すれば、何とかなるだろう。それに、彼女専用のものもそろえないといけない。
「五歳、か」
自分が五歳のときに、どれだけのことがわかっただろう。踊り子にと声のかかる前で、町に下りるたびに、どこかから流れてくる音楽に、体をを揺らしていただけだった。
 そう思うと、人から聞く、獅子がわが子を谷に突き落とすような修行は、まだ彼女には早いと思った。
 まだ修行服姿ではない彼女に合わせて、アリアドネも外出の準備をする。座って、その様子を見ていたこどもが、つとかけより
「アリアドネ」
と服を引いた。それを見て
「大丈夫、置いていかないから。一緒に行きましょう」

 当分は、この子と一緒に眠ることになるだろう。アリアドネはそんなことを思いながら、子供の寝顔を見ていた、そこに
「どれどれ、うまくやってるかね」
と、ゴルゴニオが入ってきた。
「ええ、なんとか…まだ、一日もたっていませんけど」
「よいよい。こんなに小さいうちに聖域に来たためしは、わしは自分の養い子以外には知らぬから、正直、首尾よく聖闘士になれようか、そんなことを思っていた」
「やってみないと、わかりません」
アリアドネはそう答える。ゴルゴニオは、子供の顔に一瞥をくれて、
「大丈夫、お前の指導がたとえ失敗であったとしても、この子が聖闘士にならぬということはない」
という。そして、
 …お前に負担にならぬよう、いい控えていたが」
と改まった。
「当局がお前にかけている期待は、たいていのものではない」
「どういうことですか?」
「お前に託されたのは、新しい鷲星座の聖闘士の養成なのじゃよ」
「鷲星座」
女聖闘士の武勇伝には、鷲座の聖闘士の称号がよく出てくる。聖衣が人を選ぶと半分冗談のように言い継がれてきた、女聖闘士の中でも、最高の実力と器量を求められる星だ。
「運も実力のうちよ。この子は、親には恵まれなんだが、女神が最高の幸いを傾けたもうた。
 玉に瑕のできぬよう、万全を期せと、参謀のみながみな、わしからよくよく伝えてくれという。養成中に万一があれば、次は何百年後になるかわからぬと」
「言葉もわからないところに急に送られてきて、…私はわかりませんけれども、きつい修行をさせなければならないのですか」
「お前がそうするべきと思うならな」
「今彼女に必要なのは、修行じゃないと思ってます。…今のうちだけで、いずれは必要になるとは思いますが」
「お前がそう思うなら、そのようにすればよい。一切を任されているのだから」
ゴルゴニオは言った。そして、よいしょ、と立ち上がる。
「お前は正当な手段を経て聖闘士になったわけではないから、普通の育て方など知るまい。
 そして血を流す修行が、お前たちに似合うか、それもわからん。
 すべては誠意じゃ。二人の間に信頼関係ができれば、天の助けるところもあろうて」
「…はい」
夜道を、女雑兵に先導されて帰ってゆくゴルゴニオを見送って、アリアドネは戸を閉めた。眠ろうとして、寝台に入ると、子供は手を伸ばして、抱きつくようにしてくる。
『おかあさん…』
涙の乾いたあとがあった。彼女が何を思っているか、容易に推し量れる。ここにくるまでに、いくつ夜を越えてきたのか。そして、何度彼女は、こうして、涙ながらに眠ったのか。
「お母さんはいないけれど、私がここにいるから…今は、お母さんの代わりになるから」
アリアドネもついほろりともらい涙を落として、子供の髪をなでながら、眠りについた。

 そしてアリアドネは、自分の思ったように、預かった将来の聖闘士…魔鈴を育てていくことに決めた。
 言葉から、丁寧に教えてゆく。聖域で使われている昔からの言葉と、下の世界で使う言葉とを、単語から教えてゆく。魔鈴と一緒に来た日本語の簡単な手引きは、たくさんの書き込みと二人の手の跡で、すぐにぼろぼろになった。そのついでに、紙にある限りの日本語も、アリアドネは覚えてしまった。その上で、魔鈴にも日本語も忘れないでほしいと思うのは、少しわがままだろうか。
 仮面をつけることは、とても大切なことで、しきたりでもあったが、ゴルゴニオに会いに行く時以外は、つけることを強制しなかった。あの「黄金の雨」のしずくと呼ばれた少女たちとも遊ばせることで、魔鈴の言葉は、飛躍的に上達してゆく。
 アリアドネのその養育の方法は、実に奇妙に見えたのだろう。
「ちゃんと聖闘士にするつもりがあるの?」
とサクミスが尋ねた。彼女には弟子はないが、魔鈴より上の年頃の女子を大勢集めて、いずれそこから聖闘士の素質がある者を見つけ、各地に送り出すことはしている。
「まず言葉からわからないことにはねぇ。五歳の子供に原子を砕けって、どう説明できる?」
と、アリアドネは軽く答えた。
「仮面をつけさせないで遊ばせているとも聞いているけれど?」
「つけるのは嫌みたい。それでも、つける意味はわからないけど、つける場合はなんとなく、覚えてきたようよ」
「しきたりにふれたりしなければいいがね。間違いがあったらお前の責任になる」
「間違いなんて、起こさせないわよ。あの子もちゃんと、どこかに仮面を持っていて、すぐつけられるようにしているのだし」
仮面にこめられた深い意味を、知らないアリアドネではなかった。
「でもやっぱり、言葉で説明をしなければならないところはどうしてもあるから、言語能力が上がってくれないことには…ねぇ」
「鷲座の聖闘士に運命付けられていると察知されたのはいいが…当局もずいぶんな青田刈りだ」
サクミスは腕を組む。
「むしろ、どこかで見出されて聖衣だけ受けに聖域に乗り込まれるよりは、聖域の中で純粋培養したいのよ。師匠が聖域に必ずも従順なものとは限らないでしょう?
 そんな話を聞くわよ」
「『奴ら』か。ただ騒いでいるだけならいいけど」
二人の声がすうっと低くなる
「せんせい」
と、二人の後ろで声がした。
「おわったの」
栗色の瞳が、きょとん、とサクミスを見ていた。
「もっていらっしゃい、見てあげる」
魔鈴が紙を持ってくる。書き取りの確認をするアリアドネの横で、サクミスが、
「客が私でよかったね、客が男だったら、仮面はどうすればいいんだろう?」
と、魔鈴に尋ねる。魔鈴はさっきの部屋に駆け込んで、今度は仮面を持ってきて、自分の顔につける。
「そうだ。ここは女ばかりだからいいが、ここから外に出るときは、必ずつけなければいけない。
 わかってるね」
「はい」
「いい子でしょう?」
一度紙を置いて、アリアドネが言った。
「聞くことは、もうほとんどわかるのよ。あとは、書くことと、しゃべること」
そして魔鈴を手招き、
「ここと、ここがお手本と違うわ。今度は気をつけて、もう一度書いていらっしゃい」
「はい」
魔鈴はたたん、と床を飛ぶように走って、隣の部屋に入ってゆく。
「あのかわいい顔を、見たいとか、見せたいとか、そんな話も、いつかはすることになるのかもね」
アリアドネが言うと、サクミスははは、と短く笑った。
「気が遠い話だね」
アリアドネは部屋の向こうを、目を細めてみた。気の遠くなるような後の話でもない。彼女と聖衣とが、立派につりあう年頃になれば、自然とそんな話も持ち上がってくるだろうと、アリアドネは漠然と思っていた。


NEXT