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「教皇シオンは我が師でありながら、弟子の私にも、心の隙間を決して見せない、そういうお方でした。
 あの事件がある直前、気になることがあるとスターヒルに登られてからのあの方の様子は、まだ幼かった私にも微妙な違いが感じられました。
 ご存じのとおり、スターヒルは、教皇以外登れぬという険しい場所。しかし、そこに行けば、現在の状況の発端につながる何かがあるかも知れません」
 勿論、魔鈴にこれを進めた時点で、彼は半分魔鈴に関してたかをくくっていた。いくら超エリートであったとしても白銀聖闘士、まして女の身で、あの場所には近づけぬ。しかし魔鈴は
「スターヒルか」
としばらくぶつぶつつぶやいていたが、
「どう行けばいいの?」
 と聞いて来た。正直彼は面食らった。
「正気ですか?」
 思わずこう返していた。
「こうしてジャミールにやって来られたのと同じくらい、あるいはもっと難しいことなのですよ?」
「やってみる価値はあるだろう」
 しかし、魔鈴は自信ありそうな返答をする。
 「アンタの今の言葉を裏返せば、こうしてここにやって来られたのだから、ひょっとしてスターヒルにも登れる。
そうじゃないのかい?」
 ムウは彼女を高にくくっていた分だけ返答に詰まった。単純ではあるが言われてみれば正論である。
「わかりました」
 とムウは立ち上がった。
 「貴女がそこまで思っていらっしゃるのなら、止めることはやめましょう。
いつぞやか日本で、私の無理な願いを聞き遂げてくださったお礼と、そのために聖域から狙われるようになったことへのせめてもの罪滅ぼしです」
「あれは」
 「貴女自身の意志もある、そうおっしゃりたいのでしょう? わかっています。ですが、不甲斐ない男が、勇気あるお嬢さんに対して、ささやかな面目を立てることを許してください」

「しばらくここに止まって、聖衣と一緒に、貴女の身体も万全の体制でスターヒルに臨むべきでしょう」
 と、最後に彼は言った。
「まずは貴女の仮面を直すことにしましょう。不便でしょうからね」

 工房。
 ムウが、鷲星座の聖衣の、良く見てもわからない細かい傷を直しているその手元を見つめながら、魔鈴は言った。
「アンタの言葉に乗ってみようかと思ったのにも、ちゃんとした理由があるんだ」
「ほう、それはまたどういう訳で」
 とムウが目を聖衣に落としたまま尋ねるが、魔鈴はそう言ったまま口を開かない。「改まって聞かない方がいいですか?」
としばしの沈黙の後彼が尋ねると、
 「大丈夫、私が話したいから話すんだから、アンタの態度はどうでも構わない」
やっと魔鈴は返し、問わず語りを始めた。
 「星矢が心配だったのも勿論ある。
 おばば様や周りは大丈夫と言ってくれたけど、聖衣も取りたて、年さえもほとんど変わらない私が、6年前、現役の黄金聖闘士だとかベテランの白銀聖闘士だとか、そういう立派な人と取り交じって、持たされた初めての弟子を、私にしてみればろくな指導もできていない不完全なまま世に出したも同然で、彼がこの先どうなるか、過保護だと嘲られても見極める必要が私にはあると感じたんだ。
でも、同じくらい…いや、それ以上に、気にかかることがある」
「何です?」
 ムウがあいづちを打ってしまう。魔鈴は少し明るい口調で
「おかしい話なんだけど、先生なんだ」
「貴女の先生?」
「ここで相手がアンタだからこそ言えるけど、私の先生は『異端』なんだ。
 だけど私は、彼女から、『異端』たれと教えられたことはただの一度もなかった。当然、逆に教皇に心酔しろと教えられたこともない。
 自らの意志で善悪を見極め、これと思うものを信じるのがよい。
 先生は私にそう教える傍らで、自身はじっと、正しい裁断の日が下されるのを待っている。あの人には、口にすれば即、死につながる今であっても、あえて声を大にして言いたいことがある筈なんだ。
…ムウ、驚かないでおくれよ、私の先生は、ただの『異端』じゃないんだ」
 女で、何か特殊性をもつ「異端」ならば、彼にも心当たりがないでもなかった。彼は顔を上げ、
「『オルティア』?」
 と尋ねた。
「『オルティア』が、貴女の師匠?」
 魔鈴は頷く。
「私は、…いた場所が場所だけに…聖闘士になってからおばば様に教えられるまで、先生がどういうひとであるか以前の、私が訓練を受けている間にも往来を闊歩していたはずの『異端』の存在すらも知らなかった。
 勿論、彼女の持つこの『オルティア』は本名じゃない。
 先生の聖闘士としての名前…南冠星座のアリアドネ…も、どうやら本名じゃないらしい。
私には、そんなことどうでもいいことだけど」
「『盟主』アイオロスに最も親しき、彼を信ずるものを楽土へと導く、最上の美と智を兼ね備えた『正しき女』ね」
ムウはあいづちとも独り言ともつかぬ声でぶつぶつというが、自分の世界に籠りながら魔鈴は
「でも、私の知るあの『オルティア』に、救民思想なんてない」
と言い放つ。
「あるとすれば、13年前、あの事件が起こる前までの、純粋な『彼』との蜜月だけ…おばば様が言うにはね。
『オルティア』になったのも、他の『異端』が、目的を全うするための大義名分のためにかりだしたに過ぎないって」
「ほお」
「おばば様はこうも言った。
『今の「異端」の輩には、彼女が体で覚えた「彼」の存在がどんなものか知らない』。
先生は、アイオロスが最初のオトコだった余韻を捨て切っていないってわけ」
 そこに至って、ムウの顔が変わる。
「このテの話は好きじゃないかい」
と魔鈴が言うと、
「いや、嫌いと言ったら嘘にはなりますが」
 と彼は思わず本音を漏らしてしまった。魔鈴は続ける。
「とにかく…
 私は、おばば様の話に、先生が、私に教えてくれたとおり、自分の思うところをはばからず言えるようになればと思った。
 ここだけの話だけど、女神は生きているらしい…これもおばば様の受け売りだけどね。
 射手座の聖衣が日本にあるのだから、女神自身も遠くない場所にいる筈。
アンタから、聖域の枠から外れろと言われたとき、そうして、星矢を庇いながら、彼が日本の女神を見つけ出し、その御名のもとに聖域が13年前の状態に戻れば、先生は本当に『正しい』ひとになるんだ、それなら、アンタが誘ってくれたように、星矢に加担する形で聖域の枠を外れてもいいなって、そう思ったのさ」
「なるほど」
 ムウは修復の手を止めた。そして
 「私も、嘘をついてしまいました。
 お山の大将で何も外を知らない言い方をしていましたが、本当は違います。
 五老峰の老師の元にちょくちょく出入りしていましてね、聖域の情勢は一通りわかっています。
 私が星矢達の肩を持つことにしたのは、そもそも私が、例の事件に直面したにあたり、他ならぬアイオロスから言葉を託されましたからですよ。
『τα παιδια ηρθαν εδο αφηνοτην Αθηνα σε σενα』
 私がこのジャミールに移って来たのは、子供心に聖域に失望したこともありますが、聖域を離れた場所で、あわよくば彼の意志にそう者を見付け出し、この言葉を伝えようと思ったわけです。
いつか私が彼等を気にかかると言ったのも、その者が星矢達ではないか、そんな気がしてならなかったからなんですよ」

 そういうわけで、しばらくジャミールにやっかいになった魔鈴は、身体も聖衣も万全の状態になったのを期して、一路スターヒルへと向かった。
ムウは貴鬼と一緒に、彼女を聖衣の墓場を過ぎた辺りまで送ったが、先を行く彼女の後ろ姿に
 「全く大したじゃじゃ馬娘だ。…馴らすのには相当の覚悟がいるな」
とつぶやき、に、と笑った。






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