そういう短い会話以上、その時のサガとサクミスには何もなかった。彼らなりに事態を咀嚼して、それが自分に本来与えられた本分にたいして障害にしかならないと思っていたからかもしれない。
ただ、サクミスに限れば、この感情が、活力の糧に還元できることを知っていた。彼から与えられる任務を処理することで、彼は信頼を傾けてくれる。聖域という場所にあっては、自分たちは仕事のパートナーであるほうがうまく行くのかもしれない。
そんなことを考えていたとき、往来でとある悶着が発生していた現場に遭遇したのだった。
往来の人だかりのすき間から見たものは、彼女を動転させるのに十分な光景だった。
雑兵同士の喧嘩にも見られたが、あたりに漂う気配は、雑兵のものとは思えないほどの気迫を持ってサクミスに迫ってくる。決着はもうついていたらしいが、地にふせた男は全く動く気配を見せない。もう一人雑兵が、腰が抜けそうになりながら人だかりに紛れようとしたところを、喧嘩相手らしき男はその首根っこをとらえて、無理やりというのも及ばないほどの勢いで我がもとに引き寄せた。
「これ以上俺にあれこれ指図するなと、あいつらにいっておけ」
いかにも憎々しげな声だった。輝くばかりの銀の髪を、所々朱に染め、端正であろうその表情を真っ黒な負の感情に染めた男は、雑兵を人だかりの中に投げつける。参謀風の風体の男達が二三人と、雑兵が数人、動かない仲間を回収して、我先にと離れてゆく。血のりが赤黒くその場に残り、観客の目にはどんな陰惨な光景が目に焼き付いているのか、誰も言葉を発しないし、動こうともしない。男は、囲まれているといった、その状況の中で、臆した顔をすることもなく、
「見せ物じゃねーぞ、さっきの二の舞いになりなくなけりゃ、そこを開けるんだな」
と、人だかりの一点を見ていった。歩き出すその方向で人の輪がきれ、やがて三々五々散ってゆく。
「悪魔が…」
そんなことが聞こえた。
サクミスは動けなくなっていた。それだけ、その男の姿は衝撃的だった。
サガのもとに帰ってきて、サクミスは安堵した。男の去った方向は、自分の来た場所とは正反対の方向だったし、そこにいたサガの服装も、あの男とは全く違った小奇麗なものである。何より、サガの方が表情が常に穏やかだ。
「どうしたんだ、サクミス? 何か、大変なことでもあったのか」
と聞いてくる。
「が、外出されていましたか?」
そう聞いてみるサクミスをそこはかとなくけげんな顔で見たサガは、
「僕は数時間、ここから離れてはいないけれども」
と返した。
「…ですよね」
サクミスがへたるように、そばのイスにかけたところで、サガが確認するように聞き返す。
「それがどうかしたの? どこかに僕でもいたの?」
とサガは言ったが、その表情にみるみる影が差す。
「まさか」
小声でそうつぶやいたあと、サガはやおら立ち上がって、小走りともいう勢いでサクミスに近寄ってきた。
「見てきたものを、いちから僕に話してくれるかい?」
と言う、その表情は真剣そのものだった。サクミスは、一部始終を語る。最後に、その悶着の中心にいたらしき男が、サガうり二つだったことも、隠すことなく話した。サガは、最後には、がっくりと隣のイスに身を預け
「なんてことだ…やっぱり帰ってきたのか、彼は」
と沈痛な面持ちで言った。
「彼?」
「サクミス、さっき君が見たものは、僕の双子の弟だ」
「弟、様?」
「同じ母から別れて生まれて来たというのに、彼と私とは対照的な性格をもっている。あまりに彼の気性が激しすぎて、聖域から離れさせていたのだ。
…多島海にある別宅で、使用人が変死したという連絡が入ったから、いやな予感はしていたんだ」
サガは頭を抱えた。笑顔を絶やさないその顔を、今は苦悶にゆがめ、憤るようなおびえるような、そんな気配が漂っていた。
「彼の存在は、私にも、隠れて、あの性格があるということを示唆しているんだ。
私は常に、カノンのように、自身の悪に染まるまいと努力をしてきた。そのために厳しく自分を制してきたつもりだ。
しかし、彼は、私の隠れた性格を具象化して私を苦しめる…」
サクミスは、泣く子供をなだめるような、そんな気配でサガの手を取り、なでていた。そして、彼の肩に手を添えて
「サガ様はサガ様です。サガ様は、ご自分を律する術をきちんと心得ておいでではありませんか」
といった。
「どうか、ご自分に自信を持ってくださいまし」
そしてサガの前にひざまずいた。
「私にできることなら、何でも致します。
私は女神の聖闘士ですが、女神様の下された縁でここにいるからには、サガ様のお役に立ちたいのです」
サクミスは、実に静かに言った。自分の中がここまで穏やかであることが信じられなかった。気がついたときには、伸び上がって、サガの体に手を回していた。彼の顔が、何やら、ふかりと柔らかく押し当てられる。
「さ、サクミス」
サガの困惑した声で、サクミスは一度我にかえる。われながら、自分を疑うような大胆差だった。しかし、感じるサガの気配に、おびえが無くなることを感じて、
「もうしばらく、このままでいさせてくださいまし」
と言った。
カノンは、不肖の弟は、今何処にいるのだろうか。
サガは、いそうな場所をざっと見て回ったが、気配は感じられなかった。素質は十分に備えているはずだから、気配を消してどこかに紛れるぐらいの芸当はできるだろう。用があれば、こちらにそのつもりがなくても接触を図ってくるだろう。サガは、カノンの居場所を突き止めることはやめることにした。
「それにしても」
うっかり取り乱しかけたが、その場所にサクミスしかいなくてよかった。そんなことを考えながら、彼は家路につくことにする。
すでに暗かった。木立の奥はもう完全な闇だった。その闇が、サガの前で切り離され、ぼんやりと、浮かぶ。サガは足を止めて、その禍々しい現象を見据えていた。
『あら、やっぱり聖闘士ともなると、私がどんな姿をしていても見えるものなのね』
そう微笑んでから、
『…明かりを落としてくれない? まぶしいわ』
と、うめくように言う声に、サガは、全く臆するということなしに問うた。
「誰だ」
『ほほ、誰とはご挨拶だこと』
声は、『いずれわかることよ』と言いながら、その闇の中からするりと抜けてくる。喪服のように真っ黒な、時代的なチュニックのすき間からのぞく脚は、さえるように白い。背は、サガよりやや高いように思われた。
『いつ会えるかと思っていたけれど、まさかこう早く簡単に会えるとは思わなかったわ」
抜け出た黒服の女は、サガのあごをついと指にかけて、のぞき込むように見た。
『きれいな顔をしていること。きっと、女達は放っておかないでしょうね』
「何の用だ」
『用? 自分がよほどの機会に恵まれていることを知りながら、なんの用と?』
女は、闇の中にこだまするよどの高い声でほほほほほ、と笑った。
『自分の胸にお聞き。何ならば、見せてあげようかしら?』
そう笑いながら、女はサガの胸に手を当てる。
(やめろ)
振り払おうとしたが、女から出る重圧が、体からいっさいの力を奪い去って、さながら木の杭のように、その場に立ち尽くしながら、女にされるままになっていた。
そのうち、サガの脳裏に、数日前の光景が浮かび上がっていた。唆されてかいま見た湖のほとり、努めて思慮の外に追いやっていたサクミスの体が、はっきりと見なかったその記憶のままに、ぼんやりと浮かんでいた。
『ほほ、かわいらしいこと。まだ子供と言ってもいいほどに。レズボスの趣を好む向きならば、さらいたくなりそうな』
女は、その記憶をこそ、サガの記憶からかすめて眺めているようだった。
「う…」
サガは、呪縛から解き放たれたくて、手足に力を入れた。しかし、その束縛は予想のほかに強い。聖闘士の自分が渾身の力を込めても解き放てないもの、それをあやつれるものがただ人であろうはずがないことを、確信するのに時間はかからなかった。
『この子を、どうしたいと思う?』
女が、やおら聞く。なまはんかな反応では束縛をほどかないだろうことは、女の唇のはしに上った笑みを見ればわかる。
「どうしたいも」
唇だけは動いた。女が単にどうしたいと聞くその意図は知らない。しかし、何か返答をしたら、その言葉をダシにして、サクミスに危害が及びそうなことはわかった。
「お前には、関係ないだろう」
『…あると言ったら?』
女が、真っ赤な唇をくっとゆがめて笑った。その笑みには、そこはかとなく、淫靡に濡れた感情があった。
『今のあなたは、目の前を隠されて歩く子供のようなもの。
さあ、目をお開けなさい。』
「かはっ」
束縛が解けたとき、黒い女の影はどこにも無かった。ランプの細い光が目に入ってきて、やっと、そこが歩いていた道の真ん中であることに気がつく。どれだけ時間が経ったのだろう。
「早く帰らないと…」
天を仰ぐと、星の輝きが降るように迫ってくる。
「…」
この星空を、サクミスも眺めているのだろうか。そんなことを考えながら、サガは家路を急いだ。
聖闘士は、聖域では成人の扱いをされるということはあっても、それは社会的なことであって、年の割には老成した思考を持つ聖闘士本人たちは、年相応の少年たちと同様、人のうわさもすれば、それに思い悩むこともあった。
そのころのサガとサクミスが、ちょうどそんな様子だったといえただろう、二人のそぶりから、二人の間には何かありそうだという憶測は何かあるという根拠のない確証にかわり、えてしてそういう噂話にもまれた当人たちは、否定すればするほど、自ら底なし沼にはまったような思いをするものだ。
サクミスのことは、サガの家では比較的好意的にとらえられていた。もっともそれは、若い棟梁の心身の成長を喜ぶものではなく、聖域に長く門跡をとどめる「名家」ゆえの屈折した向上心がそうしていただけのことである。
聖闘士同士の間に生まれたものは、聖闘士として素質豊かに生まれてくる。もちろん、実際に調べたものがいるわけではないから、確証をと言われても困ることだったが、とにかく、聖域で名家と呼ばれる、過去の聖戦においてその時々の女神に供奉したという聖闘士をタイミングよく配することのできた家系は、聖闘士同士の婚姻が、その幸運をわが家の上にとどめおく方法のひとつだと思っている。
「バシレウスの息子は近頃は聖域の外に関心があるとか、それに引き換えあなたは、なんて聖域の未来を見据えたことを」
サガの母リムノレイアはすっかり目じりの退った顔をしていた。自分が聖闘士でなく、また夫(サガの父)も、下級の聖闘士であったことを引け目に感じていたという。だがらいっそう、黄金聖闘士に成長した自分の息子が、白銀聖闘士とうわさになるのは喜ばしいことなのだと。
母をはじめとして、クリュメノスの家では、もうサクミスを嫁にとったつもりでいる。しかし、当然のことだろう、サガはそんなことなどまだ思いもよらなかった。聖闘士となっても、自分の能力を維持するための厳しい修行は継続的に勧められている。その妨げになりはしないかと、サガはそのことを心配した。
宵闇が部屋に迫る。明かりをつけるのも忘れていたサガの部屋の、ほとんど落ちきった日の光の届かない部屋の隅に、ふわりと、白いものが浮かび上がった。
ほどなく、サガはその気配に気がつき、とびすさり、身構える。
<あらあら、そんなおいたなど、私にはとんと役に立たないことよ、あきらめるのね>
闇から溶け出てきた、白い肌に黒い衣装の女は、拳をいつでも繰り出せるように握られたサガの手を、ほほ、と一笑にふした。
<ずいぶんお悩みじゃない>
「…何をだ」
<ほほ、私に隠し事などできないことは、この間からわかっていることでしょうに>
女はサガの額を、からかうようにつつく。その瞬間、サクミスの映像が彼の頭を奔流のようにかき乱した。
<あら、まだあの娘に指一本も出していないのね、オクテなこと>
「…」
<あなたの体は、あの娘を求めているのに>
「嘘だ!」
サガは、ためにためていた正拳を女にたたきつけた。しかし、女は、いよいよ濃くなった闇の中にふわりと溶け、胴を狙ったはずのその拳が空を切る。勢い、倒れそうになったサガの体に、びきっ、と、電撃のような衝撃が走った。
<おやおや、いい度胸をしていること。ここまで私がただ人ならぬところを見せているのに、まだあなたは私に手を上げようとする。
いいわ、教えてあげましょうか>
サガは、床にのめり、手足を力なく投げ出して倒れていた。立ち上がろうとしても、そのための力が手にも足にも入らなかった。
<あなたの野生が、どういうものかを>
女が、のめったままのサガを冷ややかに見下ろした。そして、冷ややかな瞳のまま、にやりと笑った。
「うっ」
サガは声を上げた。強大なプレッシャーに押しつぶされそうな感覚がした後、体が熱くなってくる。
「ぐうっ」
サガは歯をくいしばった。目の奥に、泉で出会ったサクミスの、陰になったからだが浮かび上がる。そのサクミスが、自分を見つめて、諸手をさし伸ばしてきた。
体が熱い。サガは全身にびっしりと汗をかく。忘れてしまわなければいけないはずのサクミスの体が、床でのた打ち回っている自分の体をいたわるようにからみついてくる。
「はあっ…はあっ」
意識的に呼吸することで、サガは正気を保とうとしていた。幻のサクミスに誘われるまま、自分の一部も抜け出してしまいそうだった。
目の前が、暗くなってくる。途切れかけた意識の中で、振り切るように体を抜け出した自分は、サクミスを、これでもかというほどに抱きしめた。