あらすじっぽいもの−−−−−サガとカノンは、同じ日に、同じ母の胎内から生まれ出ながら、天子と悪魔に評されるほどの性格の違いを持っていた。サガは黄金聖闘士としての資質を遺憾なく発揮し、その道をまっしぐらに進んでゆくのに対し、カノンはサガとはまったく正反対の言動ゆえに、次第に恐れられ、疎まるようになっていった。 あるとき起こした不祥事が元で、カノンは地中海にある二人の属する一族・クリュメノス家の別荘に軟禁されることになる。
こうして、カノンの存在が黙殺されるようになってから、いつしか、数年のときが過ぎていた。
<ねぶのくだり>
それからも時間はほどよくすぎ、金の小宇宙を納めた器は、その時間の分だけ成長する。
凛々しさと、賢さと、麗しさと。神々は、それぞれの司るところによる様々な贈り物を、幸い多い子供たちに授けてゆく。
カノンが、地中海にある一族ゆかりのとある島に幽閉されて数年、彼のことは、家族の間でも話題にすることはさけられ、サガ本人も、ともすれば不肖の弟のことなど忘れつつありながら少年から青年の入り口にさしかかろうとしていたのであった。
聖域は、ある種特殊な環境とも言える。いや、聖闘士と言うものが、想像以上に特殊な存在なのだと、言い換えるべきなのかもしれない。
一度聖衣を拝受した聖闘士は、その時どんなに幼くても、ほぼ成人と同様に扱われていた。 聖闘士の階級が基準である聖域なら、その方が自然であるのかもしれない。アテナを守護するという唯一最大の大義名分、それを大手を振ってかたれる者が聖域での高い社会的身分を得られる、そういうことであるのだろう。
だから、と言うわけでもないが、サガとアイオロスは、聖衣を得た時期に多少の差はあっても、来る聖戦の時にはきっと現役の黄金聖闘士として、聖域を引っ張ってゆくであろうと、周囲から強く嘱望されていた。
相変わらず、バシレウスとクリュメノスの確執は続いている。いやむしろ、同時代に黄金聖闘士を輩したと言うことで、屈折した勢力争いが、本来持つべき好敵手の関係に戻っていったといってもいい。サガとアイオロスは、その生まれた時期の近さ、立場の類似性、共通してあふれるその資質を、回りから比較されることも多くなり、自然と友達付き合いを始めるようになったのも、無理のある話ではない。黄金聖闘士は、複数いたとしても、互いに正体を現しあうこともないという。しかし、この二人に限っていえば、お互いがゆかりの黄金聖闘士になるだろうというその事情を察し合い、理解し合ってもいた。二人は老ゴルゴニオのもとで、聖域にいきるものとして必要欠くべからざる知識を与えられ、仁智勇を兼ね備える聖闘士となるべき心構えを、切々と説かれていた。
自分の中の、廃すべき悪意のこごったようなカノンの存在を否定してからのサガは、ますますその立ち居振る舞いに神経を砕くようになっていた。将来を約束された若い黄金聖闘士が、克己的博愛的に振る舞うのは、実に賢者然とし、それは彼の理想でもあったかもしれない。すべてをなげうって、女神アテナと彼女の庇護するものたちへの義務感に似たものが、彼の行動の原動力であるともいえる。来る聖戦の時に、教皇が後継も決定する。その場所に一番近いのはサガではないかという漠然な噂も聞こえていたが、彼はあくまで真摯に他意無く、教皇シオンの決定にすべてをゆだねようと思っていた。
しかし、これから語るのは、そんな彼の高尚な生活のことではない。
アイオロスと二人、ゴルゴニオの元でしかるべく教えを受け、帰ろうとしたその道。
「アイオロス、家はこっちだろう」
とサガが指す反対方向の道を、アイオロスは歩こうとしていた。
「母さんが呼んでくれているのに」
「ん、そうなんだけど …ごめん、今日はだめだ」
「どうして」
「んー、お前の母さん、少し苦手で」
「そうかな」
「それは、お前が慣れているからだよ。
それよりもさ、下に降りないか?」
下、と言うのは、聖域の外と言う意味でもある。
「僕は別に、下に用はないよ」
「いや、俺があるんだ…」
やがて夕暮れになろうという時間だった。アイオロスはややそわそわしているようにもみえる。アイオロスがこの時間にしばしば外出するのは、サガも知っていたが、それは特にとがめるつもりはなかった。
「急いでいるなら、君一人で行くがいい。僕は母さんに、君が来ないことを伝えてから後を…
…アイオロス?」
アイオロスが、なにかを発見したように指を差した。茂みの先はがけになり、聖域では珍しく池があるのを、サガも知っている。アイオロスは、茂みの中に隠れるようにしてある二三の人影に、
「なにやってんだ、お前ら?」
と声をかけた。
「うわあ」
後ろから突然誰何された若い雑兵たちは、そろって泡を食ったような声を出してから、その後お互いを見交わして「しいっ」と指を唇に当てる。
「こんなところで、油を売ってていいのか?」
とアイオロスが眉根を寄せると、
「それはそれとして、おふたりとも、どうぞどうぞ」
雑兵らは、茂みの向こうに二人の顔を押し込んだ。雑兵たちは、二人よりずいぶん年かさに見える。それでも、黄金聖闘士という少年二人には、自然と、その態度もへりくだったものになっていた。
とまれ二人は、
「声は立てちゃいけませんぜ」
と言われるままに、夕日がちらちらと反射する池を見ることになる。
人影があった。
「なかなか、かわいいでしょ?」
と、後ろで声がする。夕日が反射してよく見えないが、確かにそこには、鍛錬の後の汗を丁寧に流す娘の姿があった。
「きっと、ここにきて間もないヤツでしょう」
「ここは男のいる場所に近いから、好んでこんなことに使うのはまずいませんからね」
「いや」
サガは、つい怪訝な声を上げ、茂みから離れようとした。
「これ以上はまずい。女聖闘士の掟に」
「まあまあ」
しかし、雑兵らはサガをそのばに押しとどめようとする。
「そんな無粋なことをおっしゃられては元も子もありませんや、ここは黙って見て、帰って、そのあと思い出して悦にいる、それだけでいいんですよ」
「そんな」
とサガが当惑した声を上げる中、アイオロスはその雑兵の隙間をするっと抜けた。
「あ、アイオロス」
「ごめん、俺もう時間ないわ」
アイオロスはさらりと言って、外に通じる道を小走りに行ってしまう。
「アイオロス、僕も」
言い出したとき、
「誰っ?」
池の方から声がする。
「げっ」
雑兵らは、それは素早く茂みから離れていってしまった。サガも当然逃げようとした。しかし、その影の主に足をつかまれていたのには気がつかず、思い切り転倒する。
「ご、ごめん、悪気はないんだ、そそのかされて」
へどもどと、サガはいいわけをはじめる。もちろん、顔は覆って背けて、最大限の自助努力をしている。
「…サガさま?」
しかし、落ち着いてきけば、その声には聞き覚えがあった。安心して視界をひらくと、相手は一糸もまとわず、低木の枝に隠れるように、背を向けて座っている。サガはもう一度、同じように背中を向けて座った。
「…その声は、確か」
「はい、サクミスです」
先日、聖衣を得て部下としてやってきた女聖闘士だった。ならば、ここで油断を見せるのがどういうことか、わからないのも仕方ない。サクミスは、しばらく、黙っていた。そして
「どうして、こんなところに?」
と言った。サガはふ、とため息をつく。
「それは僕のセリフだ。ここでそんなことは危険すぎる」
「そのようですね、不届きな人がいたようですから」
「僕のこと?」
「まさか。サガ様はむしろ止めようとされておられたのでしょう?」
「それは…」
言いながら、自分の中のどこか言い表せない場所がどくどくと悶えるのを感じていた。光の関係でハッキリとは(もちろん、本人だって見たいと思ってみたわけでもない)見えなかったが、聖闘士になるべくの、血のにじむようにな修行の果てにもたらされるのは、聖闘士の栄誉ある称号とその聖衣だけではない。その素質に持ちあふれる人物を、特に「心技体に優れる」とたたえるが、かすんだように浮かび上がるさっきの映像は、サガの中では、地上に迷い降りた妖精のようなあえかさに変換されて刻み込まれていた。
「…もう、夕方だよ」
と、サガは、サクミスに背を向けたまま言う。
「はい」
サクミスは小さく返事して、かさ、と、茂みを出ようとしているようだ。
「そ、その格好で外に?」
「…服が離れているんです」
サクミスの声が通して、水にまた入る音がした。
「僕はもう行くよ、次から気をつけて」
言いながら、振り向く。やや遠めになって、その姿は判然としなかったが、確かに見つめられている気がした。
誰もいなくなって、夜のとばりがおりる。
明りのある場所から離れた場所では、文字通りの墨を流したような闇があたりを包んでいる。
その闇の中で、何かが微笑んだ。
翌日会ったサクミスは、昨日のことなどまるで覚えていないようにみえた。しかし、サガの方は、昨日のことが気味が悪くなるほど頭から離れない。
「情けないぞ、こんな様は」
一人になったとき、サガはそうひとりごちて、ぶるぶるとかぶりを振った。女神アテナの膝元で、自分はきたる聖戦を戦うために生きているのだ。今のこの、もやのような思いは、今持ってはいけないもののはずだ。それを、先日の雑兵たちの心がけの悪さは、アレでは聖闘士の志が半ばにしてついえるのももっともだ。
自分の処理できない感情を、べつの何かのせいにして、別の仕事を始めようと振り返ったとき、
「あの」
やんぬるかな、サクミスがいた。
「あ」
二人のほかには、その場所には誰もいない。二人の間には確実にわかる気まずさが漂い、しばらく二人は言葉にならなかった。それでもサガが、
「何か、用?」
と聞くと、サクミスは
「いえ、用と言うほどではなく…その…」
と言いよどんでから
「先日の私のことで…ご迷惑をおかけしたので…一言」
「ああ、そのことか」
「はい、あの…ご立腹のようでしたから」
そう言われてから、サガは、サクミスにはわからない角度でこっそり自嘲の表情をした。彼女の振る舞いから何も察させられなかったのみでなく、自分の意識が時々彼女に移っているのか、こうも簡単に悟られていたとは、精進が足りない。
「あちこちで、サガさまのすばらしいことをよく耳にするものですから…私、実はとんでもないことを…」
「そ、そんなことはないよ」
サガはすたすたすた、とサクミスの前を通り過ぎるように行き、
「悪い誘いを断れなかった僕も、反省するところはたくさんあるんだ。ごめん、その…君に恥ずかしい思いをさせた」
「…」
サクミスは、言葉を選んでいるのか、しばらく口をつぐんだ後、
「でも、サガ様は、ずっと私をごらんにならないようにしてくださいました」
と言った。
「それが、嬉しかったんです」
「…え?」
彼女の言葉にやっと返答できたとき、サクミスはもうそこにはいず、閉じきれなかった扉が、弱い風に開きかけているだけだった。