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 代々教皇が占星に使うこの場所には、視界に入る限りの高い建造物も山も、文明の吐き出すよどみさえも排除され、清浄な天球だけが、その頭上にはあった。
 夜が明けようとしていた。魔鈴がその場所に立とうとしたとき、スターヒルの天球は満天の星空から昼の青空に、その様相を変えようとしていた。
 決して、広い空間ではない。しかし、空気は非常にすんで、不純物のかけらを感じなかった。魔鈴はこの場所に、数時間以上かけて登ってきたが、黄金聖闘士から選ばれる教皇であれば、昇降する手段などなくても上るだろう。

「そういえば魔鈴、あなたは、教皇が聖衣修復をするというのを、聞いたことがありますか」
ジャミールの工房で、自分の聖衣に手を加えながら、ムウがそうつぶやいたのを思い出していた。
「いや、そんな話は知らない」
と答えると、
「おかしい話ですね。教皇になっても、私に与えられたと同じ、いえそれ以上の、聖衣修繕のわざを見せていても、少しもおかしくないのに」
と、自分はいかにも訳知り顔に言った。
「聖衣の修繕といえば、あんたの専売特許だろう、教皇がそんなことを」
「教皇シオンは、私の師のはずですよ。それを聞いていない貴女ではないはずだ」
「それは、そうだけども」
「女神光臨を境にして、教皇は過去のことをまったく話さなくなった。仮死の法をうけても、解呪されるそのときまでの表面上の一時的な老化は避けられない、その老化を理由にして、聖衣の修繕にも手を出さなくなった。
 それなのに、教皇の間の私室に、女性を通すことはする」
「…で?」
「だから、その理由を、私の目となってスターヒルに見てきてほしいのですよ」
ムウは薄く笑んだ。
「そんなこと言って…あんた、何から何まで知ってるね」
「貴女のお師匠ほどには知りませんよ」
魔鈴がいぶかしい顔をしたのを、ムウはさらりと混ぜ返して、聖衣の最後のパーツをはめなおした。
「さて、これで当分は大丈夫でしょう。
 さすが、女性の聖闘士の中では最強級と謳われる鷲星座の聖衣。息のある間に見せてもらって、眼福の至りでした」
そして、工房の隅でうずくまりながら眠ってしまった貴鬼を抱え、別室に運んでいった。

 魔鈴は、スターヒルの頂上になる観測所に立った。すっかり日の上がってしまった今は、ただの高い山の上だ。教皇が変貌した、その理由がここにあるといわれても、教皇本人にあったことの少ない魔鈴には、何をどう探せばいいのか、要領すらわからない。
「妙だな」
それでも、強い気配が、この場所には漂っていた。教皇本人がそこにただずんでいるような、そんな気配である。
「誰かいるの?」
問うてみても、返事はない。魔鈴は、気配の濃いほうへと、ゆっくりと足を進めた。
 建物のような跡があった。その前に立ってみて、魔鈴は「!」と一瞬あとずさった。
「な、何、これ」
スターヒルの空気に乾ききった人間の死骸があった。戦闘での死人なら何度か見たことのある魔鈴だが、こんな形の死骸には抵抗がある。ゆっくり近づいては見たものの、身元をあらわすものは何もない。だ、この場所がスターヒルであること、そして、スターヒルに上れるのは普通教皇だけだとという通例だけが、彼の身元をあらわしていた。
 この死骸が、ムウが言ったことを咀嚼したうえで、彼の師でもあるシオンだというのなら、変調した今の「教皇」は、何者かがここでシオンを倒し、成り代わったものだといえる。しかし、そんなだそれたことを考えるものがいたのだろうか。魔鈴は、シオンの死骸であろうものを見下ろしながら、そんなことを考えていた。

 そのときである。視界の端でちらりと輝いたものを見つけ、魔鈴はそのほうを見やった。
「あれは…?」
見下ろした方向には、アテナ神殿と、それを守護する黄金聖闘士の十二宮がある。その十二宮から、ひしひしと押し付けるような気配がした。その十二宮を見下ろすように立てられた塔に、火がともされていた。あれを火時計をゴルゴニオが読んでいた理由が、なんとなくわかった。十二宮をあしらった十二の火が、一時間ごとに消され、合計十二時間を計る。アテナ神殿に立ち向かう邪悪を排斥するために、本来は用いられた仕掛けのはずだ。それが今なぜ。魔鈴は思ったが、十二宮に関することに決定を出せるのは、今の聖域には教皇だけだ。
 いやな予感がする。魔鈴はもと来た道を戻ろうとしていた。
 もどるといっても、道のひとつもないスターヒルのがけに張り付き、降りてゆくだけのことなのだが。

 火時計は、十二宮はもとより、聖域の全体から見上げることができた。
 加えて、黄金聖闘士が結集したその荘厳な圧力が、聖域全体を多い、誰ともなく騒ぎ始める。
「最悪の事態になったのぉ」
苦い顔でアリアドネがそれを見上げる傍らで、ゴルゴニオが言った。
「そうですね…ただ、見ていることしかできないのがもどかしいですけど」
「何、星矢たちは、これまでの戦いの中で、ここを出て行ったときより遥かに大きくなっておるわい。
 魔鈴自らおせっかいを焼いているようだしの」
「そのようですね、大丈夫でしょうか、あの子」
「 命は失っておらぬから、まあ安心しておくがよかろう。
さてアリアドネよ、わしはわしですることがある。今回のことは、わしらは見ておるよりないよ」
ゴルゴニオは、少し忙しそうだったか、嬉しそうでもあった。
「あ、私も」
「いかんアリアドネ、お前はここにおれ。おって、サクミスのそばにいてやれ」
ついていこうとしたアリアドネの足元を、杖でこつんと打ったあと、ゴルゴニオは、心配そうに火時計を見上げるサクミスをさした。
 そういえば、あの件いらい、サクミスとは話し込むほど長い時間顔をあわせたこともない。お互いがそうしようと思ったわけでもなく、疎遠になってしまっていた。
「ずっとここで、立ってみているつもり?」
祈るように手を合わせたままのサクミスに、アリアドネはわざと気を引くように大きめに声をかけた
「あ」
サクミスがふりかえる。
「アリアドネ」
「寒いから、おばばさまの所にでもいかない?」
「…そうしようか」
サクミスは、一度肩をすくめて、アリアドネの後についた。

 ゴルゴニオは、女子区の集会場のそばにある仕事場にいた。ここには、女参謀や女雑兵が常時つめて、あれこれと女子区の雑事を処理するところだったが、今はゴルゴニオとクレアと、あと二三人の女性しかいない。
「こんな状態じゃ何もできんだろうから、今日はみんな好きにさせておるよ」
ゴルゴニオは、自宅から持ってきた茶器で簡単に茶を淹れ、二人にふるまう。彼女にしては奇特な行動に、アリアドネとサクミスとは、互いに顔を見合わせた。二人の微妙な関係を、知らぬゴルゴニオでもあるまいに、急に改まったそぶりになるのが不思議でたまらなかった。
「どうしたんですか、おばばさま、あらたまって」
と、アリアドネが言う。
「いまさら二人並べて何の言うことがあるというのじゃろ」
とゴルゴニオが切り返してきて、一言も二言も余計な口のアリアドネもその先をいえない。
「何もないよ」
しかし、ゴルゴニオがあっさり言うので、二人はぶ然とそれを受けた。
「だが、13年間定まってたはずの、サガとアイオロスの評価が、この12時間で完全に逆転してしまうというのは、わしにもようわかる」
しかも、二人の口にしにくいことを、さらりと言ってしまう。
「しかし、そんなことは、聖戦の前には瑣末なことにすぎん。
 聖戦への降りることのできない階段を、わしらはもう上りはじめておる」
「…」
「何かに踊らされた白銀聖闘士と、この十二宮の戦いで、星矢たちのセブンセンシズを試すために試金石になり行く黄金聖闘士のいくたりずつかの犠牲によって、聖域は浄化され、われわれは来るそのときに備えねばならない」
ふたりは、はくはくとナニを返していいかわからない顔をした。
「とまれ、半日は何もできぬのじゃから、あまり気を張らずにおるがいいよ」
ゴルゴニオがそういって、席を立った。その後をサクミスが、
「あの、おばばさま」
と追いかける。
「このたたかいが終わったら、サガさまはどうなりますか」
「女神のお胸ひとつじゃろうのぅ」
ゴルゴニオの言葉には飄々とした説得力があった。
「女神が彼を許すなら、彼はただの黄金聖闘士として、改めて女神の元に伺候しよう。おそらく女神は許されるじゃろうが… サガの本質はどうであったか、お前が一番知っているはずじゃ、サクミス」
サクミスがぺたりと腰を下ろしなおした。
「まあ、そう気を落とすものではない」
ゴルゴニオは、アリアドネに目配せした。
「二人とも、どうせ何もせぬならしばらくそこに座っておれ」

 「アリアドネ、ひとつ聞きたいことが」
手をつけない茶が冷め行くままに、サクミスがたずねた
「何?」
「もし…もしもよ、アイオロス様が聖闘士でなかったらと、考えたことはある?」
「あなたは、サガ様がそうであればよかったと思っているわけ?」
アリアドネが切り返すと、サクミスは
「いや…私たちは、二人とも聖闘士にならなければ、出会え得なかったと思ってる。でも、こうなるとわかっているなら…」
ひざの上で握られた手をさらに硬く握った。
「それが運命だと思うなら、そういう仮定はしないものね。
 ちなみに、さっきの返答なら、」
アリアドネが、そのさめた茶を熱いものに淹れなおす。
「アイオロスがいなくなったころはそれだけを考えていた。私はまだ自分が聖闘士になるともわからなかったから、ただの踊り子でいられたら、あるいは、私はもっと幸福にこのときを待てたかもしれない」
でも、私が聖闘士になったのは私が決めた道だから。アリアドネはそう付け加える。
「あなたは、サガ様と真実を共有し、その暴露を恐れ続けたあの人を支えて、うまくやってきたと思うわ。
 そうでなければ、あの人はあなた以外の人を欺き続けながら、今までやってこられなかったと思うの。
 あなたは、それをむくわれていいはずよ」
「ありがとう」
サクミスは、そう返答した。
「でも私には、サガ様の事実を暴露する勇気を導いてあげられなかった罪がある。
 もし何かがこれから私に下されるとしたら、きっとそれに対する罰なんだわ」

 火時計の、遠めに見る輝きは、だんだん弱くなってくる。いつの間にか、太陽は沈み、夕闇が周りを包み始めていた。
 アリアドネとサクミスは、どちらから誘うともなく外に出る。外では、女たちが三々五々集まり、火時計の行方を見守っていた。
 十二宮からのプレッシャーは、少しずつ弱くなってくる。というのは、とりもなおさず、星矢たちは続々と上に進んでいるということだ。そのころには、十二宮のふもとで、女神と思しき少女が「教皇」の企みによって瀕死であることも伝えられている。
「サガ様の中の邪悪は、植えつけられたものか、あるいは自ら飼っていたものか」
アリアドネは誰が返答するでなしに、そうつぶやいた。
「どっちだと思う?」
サクミスはかぶりをふった。
「わからない。ただあの方は、ご自分がご自分の欲望のままになされるのを恥じておられた」
「あなたのいないところで、サガ様がどう変化したか、ね。
 おばば様が仰っていたように、あなたがサガさまの変化に対して抑制する存在だったとしたら、悪化していることも覚悟したほうがいいわ。
 …矯正できないところまでいっていたら、女神でも助けられない。そう考えていたほうがいいかもね。
 これは、友人としての忠告よ。私はあなたに死んでもらいたくないわ」
「ありがとう、アリアドネ」
サクミスはうつろに笑っていた。


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