女子区の自宅に戻って、ヘリオドーラは半ベソをかきながら身辺の整理をすすめていた。この十年来の幸せだった時間を、美しい衣装ごと箱に封じてしまうのは辛い作業だった。
ふう、と溜め息をついた時、ゴルゴニオが入ってくる。
「なんでも、教皇出入りの参謀によれば、勅勘をこうむったという話だが」
と驚く声をあげるゴルゴニオに、それ以上質問もさせず、ましてや問いにも答えず、ヘリオドーラはそれまで小出しにしていたものをどっと放出してしまう。
ほろほろと涙するヘリオドーラに、ゴルゴニオは
「本当なのか?」と聞くが、ヘリオドーラはかぶりを降って、
「全て御存じのおばば様にこそお話いたします」
と、事情を話した。
「なるほどな」
ゴルゴニオは納得する。涙顔のままきょとんとしたヘリオドーラだったが、ゴルゴニオはさして驚いた顔をされる筋合いはない、という顔をした。
「いやなに、『どんな事情』があったにせよ、お前に対してああまで骨の抜かれておるあの坊やが、一体何の理由をもってお前にそんな仕打ちをしたのかと、思うてな」
ひとすじに仕えてきたのにのう、そういうゴルゴニオを、ヘリオドーラ…サクミスはもっと奥の部屋に押し込んで、親書のことも含めて、さらに込み入った事情を話す。
「お前に余計なとばっちりを食わせたくないから、追い出したことにして自分から遠ざける、か。なるほど、坊やらしいやり方じゃの。果報者よな、お前は」
「ありがとうございます」
「お前はもっと、サガ坊に添えたことに誇りを持ってよいのじゃ。『天使』と称されて誰にもいい顔をせざるを得なかった、その坊がたった一人と誓ったのがお前、まあ言いにくいことではあろう、だがしゃんと背筋を伸ばさねば」
ゴルゴニオの台詞は機嫌がいいらしいのか、いつになく建設的で暗示的ではなかった。そこに
「ああ、ここにいらっしゃったの、おばば様」
とアリアドネの声がして、窓には板戸を開けた彼女の顔がある。
「アリアドネ!」
サクミスは、自分がいつになくしおらしい顔をしているのが急に恥ずかしくなって、慌てて顔の火照りを煽ぐ。そういう態度にたいして、アリアドネも変な顔をしたところで、ゴルゴニオは
「自分の幸せを噛み締めておっただけさ、な」
と言い、アリアドネの用を聞き、去る。
「して教皇、御身はその、自らをアテナと称する小娘を聖域に招じられるおつもりか?」
数日後、「教皇」は、参謀や近侍の面々を集めて、沙織のことを持ちかけてみる。一人の質問に、彼は
「うむ」
と頷く。
「招じて奉じようとは思っておらぬ。いずれカタリよ」
ここにないことを言って、まずは左右を安心させる。
「だが、射手座の聖衣、『勝利の女神』共に先方の手にあり、例の造反者などは真の女神と心酔しているフシも見受けられる。それ以前にもあえて禁制の私闘に手を染めさせるなど、そのヒム住め、いささかここを知り過ぎているようだからな。
記憶操作でもして、聖闘士・聖域のことを全く忘れてさせてやろうかと思うのだ」
生温い、と言う顔をするものがあったはあったが、おおむね左右はそれでよいような様子だった。
「我々の使命を売名に使う困った小娘でしたな」
「そのうち人々の記憶も薄れましょう」
「そうだな」
教皇はほう、と大きな溜め息をついて、玉座にゆったりと座り直した。左右は彼が瞑想に入ろうとしているのを察して、静かに部屋を出ていく。最後の一人に言う。
「コトを荒立ててはいかん。造反した青銅の処理は、この件が片付くまで凍結させる」
「は、はい」
返事と一緒に扉がしまって、「教皇」…サガは一人残された。その時間は迫ってくる。
「たとえそれが自分の運命でなくても…」
自分の意志を反すうする。多くの人々の顔が思い浮かぶ、父母、聖衣を託してくれた先代の祖父、多くの友、そして、シオン教皇、アイオロス、ヘリオドーラ。スニオンに幽閉された跡にこつ然と行方を絶ったカノンのことさえも。
一度はめい目したまぶたをふたたび開け、サガが声をあげる。
「出てこい。ずっと様子を伺っていただろう」
すぐに、御座所のすみの、光の届かない空間に、若い女…ヘカテの顔が浮かび、サガと視線をからめて微笑んだ。闇が凝ったような黒い衣装から、白い腕と白い脚がするりと伸びて、玉座のサガの元まで歩み寄ってゆく。
『心憎いばかりの心意気だわ』
「…」
『でも、自分を賢く思っているヒトほど、私はその仮面を剥ぎ取ってあげたくなるのよねぇ』
ヘカテの顔は、その妖艶なほほえみは崩れていないながらも、必ずしも機嫌のいいものではない。
「お前のような輩に虚をつかれたとはいえ、精神力は聖域一という自負はある。
私を陥れようとしているのだろうが、いずれ無駄な努力だぞ」
『空意地もいいかげんになさい。私を相手に無駄な努力ですって? ちゃんちゃらおかしいったらないわ。
そうよ、あなたのそういうところ、できもしないことをさもできるように言うところ、あの子が一番嫌いだったわ』
「あの子?」
玉座のサガにかぶさる形のヘカテを上目に見るが、ヘカテは
『教えない』
と笑った。心浅いものなら、それだけで靡いていくような表情だ。だがすぐサガは、ヘカテから目を背ける。石造りの部屋は声が響く。
「まあいい、私にも、私を陥れるためには、異形とも手を結びかねない男には心当たりがある」
ヘカテは途端に
『まあ!』
と憤慨した声を上げた。
『ますます手加減する気がなくなったわ! 神をこともあろうに異形の者ですって?』
サガの顎についと指を引っ掛けて、唾でも吐きかけん勢いになる。サガは伏せていた面を無理矢理あげられた形になった。
「されば、オリンポスにあまたましますうちのいずれの女神が、この私の前に降りたまうたものか。
その広きお心を称えたくも、御名にとんと心当たりもなく」
『ふん』
ヘカテはサガの慇懃無礼じみた言葉にも機嫌の戻ろうはずもなく、勿体ぶる様子もなく
『ヘカテよ。知らないとは言わせないわ』
あっさりと自己紹介をする。
「…冥界の深き闇に親しきおん女神とは。
それでは、今ここに降りたまうておられるのは、この人間を、冥界の底コキュートスでの永遠の時すらも嘉されんがためか」
『言ってることがよくわからない。
とにかく、あなたを迎えに来たわけではないことは確かね。とりあえずあなたの寿命はまだ終わってないわ。モイラたちは私より年期が浅いから、私がちょっと口を出せば、どうなるかはわからないけれど』
「その私の寿命とは」
『教えられるわけないじゃない。知ればあなた、絶対自分でその糸を切ろうとするわ』
「神より見れば人間も虫けらもけがれた地上を這う同じ存在、ですがその虫けらにも、自らの引き際を考える誇りというものがございます」
『うふふ』
サガの神妙な言葉に、ヘカテは真面目に対するふうもなく笑っていた。
『あなた今そんなことを言ってる同じ唇で、侍っている小娘の口を塞いで、キュプリスの営みをはばかることなく、自分が奉じるアテナの神殿でやってきたのよ? ホコリが聞いて呆れるわ』
そして、するりと白い片脚を上げて、皮紐を膝まで編み上げたサンダルの足を玉座のサガの両足の間に突っ込んだ。
『あなたもっと、頭でなく、コレでものを考えた方がよくてよ』
ヘカテの言う「コレ」が、彼女の足とサガの体の間で鈍い悲鳴をあげる。サガの声には腹の底にかけた力が滲む。
「…自らの欲望に素直に進むことは、人間として賢い生き方ではありません。欲望に竿を刺してかえって不面目を被ろうとも、私はそれで満足でございます」
ヘカテの声が、サガの深層を探るような色を出す。
『欲望に流されれば、あなたはきっと、世界の王になれるわ。一人で、誰の力も借りずにね。
それなのにあなたは、自分を殺してまで、下僕なしにはなにも出来ない弱虫のアテナに肩入れするのね』
「それこそ、私の運命でございます。仮に私が世界を手にしても、女神により保たれた平和に及ぶものはとてもできません」
『本当? 本当にそう思う? やってみないことを最初から出来ないというのは悪いことよ。
あの子は自分の知恵と欲望とを全部投げ出して、世界を手に入れようとしているのよ? 昔あなたにされた仕打ちを、胸を張ってここまで返しに来るためにね』
ヘカテから漂う闇の気配が急に濃くなる。ヘカテは再び闇の中に浮かぶ顔と手だけになり、サガの瞳を見つめた。
「なにを、する」
サガはそこまでは、自分の意志で言った憶えがある。ヘカテの笑い声は急に遠離る。
御座所の入り口を護っていた雑兵は、背後にいきなり「教皇」の気配が襲ってきたのに、腰を抜かさんばかりだった。呼ばれるままに中に入り、やっと声の届く範囲に跪く。
「め、瞑想は、お済みですか?」
「うむ」
「教皇」は黒髪をややうるさそうに揺らした。
「矢座のトレミーを、ここに」