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   <窓 の 記 憶>
 

 人口はさして多くない、かえって過疎というべき小さな町。
 住む人はみな、どこかで顔を知っている。
 民子にとって、この小さな町が、彼女に考えられる全ての場所であった。
 哀愁に満ちた昔の記憶の中で、ぽっかりと、窓の開かれた時間がある。一度大きく放たれて、また閉じられた、これは不思議な、そして懐かしい窓の記憶。

 民子が、中学二年生だった冬の入り口の頃であった。
 町の高台にあったあるお大尽の別荘に、車が一台入ってきた。
 民子は、そのふもとの家に当時住んでいた。
 見慣れない車。こんな時期に、一体誰が来たのだろうか。民子は、別荘の庭先になる枯れ草の斜面を駆け登り、車が入っていくのを追った。
 母らしい人物に付き添われるようにして、車から出てきたその少女は、今まで民子が見聞きしたどの女性より足下に及ばないほど美しかった。一発でこのあたりの子供ではない、と判断した民子は、家に駆け戻り、夕飯を整える母親に、その少女の様子を話した。
「あの別荘には、持ち主のお大尽の妾が、娘を連れて戻って来たんだ」
しかし、買い物帰りの母の情報は早かった。
「なんでも、事情あって、町にいられなくなったんだとさ」「事情 」
しかし、母はその先を言うのを渋った。それでも、何を言うのかつぶらに見つめている娘の期待を裏切ることはできず、母親は
「娘が病気なんだとさ」
と言った。
「時間さえかければ直るから、ここで気楽に養生させたいらしいよ。
民子、明日学校が終わったら、畑の大根を少し掘っておくからあの家に持っていってやんな」
「うん」
普段は知らぬ人と交わるなとばかり言う母親が、今回ばかりはそんな気前がいいことを言うので、民子は少し調子に乗っていた。

 翌日、その大根を抱えて、早速民子は高台の別荘に向かった。
 呼び鈴を押して、出てきたのがまさしくその少女だった。
日本人形のように真っ黒で長い髪を真っ白で柔らかそうな頬に流して、黒いうらうらとした瞳で、大根を抱えた泥付き大根を不思議そうに見つめている。
「どなた 」
「あ、ここの下に住んでいる河合です。これ、大根、母がお近づきのしるしにと…」
どぎまぎして、母に教えられた口上を早口で繰り返して、大根を差し出す。
「わ、おいしそう」
少女は目を細めて大根を受け取る。
「ありがとう。母様を呼ぶわ」
少女と入れ違いに、母と言う人物ができた。
「河合さん、ておっしゃったわね」
「はい」
「…ここは、私の故郷なんだけど、河合さんて」
と、女性は父の名を言う。
「お父さんはお元気 」
「はい」
「まさか、あの人に、こんな大きい子がいるなんて。うちの子と同じなのねぇ」
「はぁ」
満足に返事一つできなかったが、内心ときめいていた。あの少女は同い年だったのか、ならば友人にならぬ法がない。「あの」
「何 」
「お子さん、病気なんですか 」
「病気 」
女性はきょとん、として、その後、
「そうなのよ。ひょっとして、あなたのお友達にはなれないかも知れないわ」
ささやかな笑みを唇の端にのぼらせた。しかし、言葉はにべもなく、民子を見透かしたことを言う。民子はその時は素直に引き下がったが、子供の論理に大人の壁はかなり歯が立たないことがある。大人が禁止しても、こっそり会えばいいことなのだった。

 あの少女の部屋が、母屋の東の端の、民子の家のすぐ上だと言うこともわかった。もう一度、彼女に会おうと思う。その部屋の窓は少し高かったが、伸び上がりノックすると、「誰 」
と、案の定少女の顔が出てきた。民子が愛想笑いをすると
「あ、この間の大根の」
と、少女は花のほころぶように笑った。
「あの大根、ブリ大根にして食べたの。おいしかったわ」
「本当  あれ、うちのお母さんの自慢の大根なんだよ」
民子は少女の反応に脈ありと思う。
「ね、あなた、どこから来たの 」
かなり直接で不躾な質問だったが、少女は嫌な顔もせず、民子には話にしか知ることのない大きな町を言い、
「ここは母様の故郷なんですって。素敵なところよね」
「えええ、何にもないところだよお」
民子は一応謙遜する。少女はそんなことはない、と微笑んだ。そこに、母屋の奥から、少女の母の呼ぶ声がした。
「あ」
少女は振り向いて返事をして、
「また来てね」
と言いながら、窓から消えた。

 もし民子が男だったら、少女にすっかり惚れ込んだと言うべきなのだろう。とにかく民子は、少女に関することを、彼女の口から一つ一つ得る度になんだかほのぼのしい顔になってくるのであった。
 民子が高台の別荘にちょくちょく顔を出していることに、民子の母はあまりいい顔をしなかったが、それは大人の事情でものを見ているからである。だからそれはそっち退けで、民子は穏やかな日には、少女を近くの川原に連れ出したりした。
 少女は自分の知らない民子ののどかな話に目を輝かせ、お礼に、と自分の住む都会の話をし、いつか連れていってあげるね、と指を切る。民子はその言葉を真に受けて、一人有頂天になるのであった。

 冬が終わり、春の香が、道端や野原にぼちぼち現れる頃。朝夕の冷えもさして厳しくなくなったと言うのに、少女はあの窓から外にでなくなった。
民子は、そんなに彼女の病気が悪いのかと、真剣に心配した。川土手で、籠一杯にツクシを摘んで、少女の窓に差し入れたこともある。
「病気、絶対に直るからね。がんばってね」
と、民子が自分のことのように思いつめた顔をしていると、少女は少し赤らんだ後、
「うん」
と小さく答えた。少女の顔色は少し冴えなかった。しかし、何か、民子の回りの同年代の少女達には見られないものがあった。それが都会故の清新さと民子が思っているまさにそのものだったら、少女にとって、どんなにか救いになっただろう。

 民子と少女の窓越しの「友情」は春を通り越して、梅雨の季節に入っていた。連日の雨のせいだろうか、少女の顔は前にもまして暗かった。民子は、少女の頬のやつれに心配しながらも、以前にも増した艶のようなものがあるのにやっと気がついた。
「前から聞きたかったの」
と民子は言う。
「好きな子、いるの 」
少女は一瞬目を見開いた。がすぐ、いつもの嫣然とした微笑みで
「ええ、いるわ。 …今は逢えないけれど」
と言い切った。民子は条件付きにしろその自信に満ちあふれた物言いに面食らう。民子達の場合、この手の話題は、回りがみな知るものだけに、すぐあどけないゴシップの種になりやすく、本当に限られた間で小声でするような話題だったのに。それをしゃっきりと顔を上げて意中の人の存在を告白するとは、この少女はなんと大胆で、そして強いのだろうか。民子が感心する前で、少女は彼について話すのであった。
 中学で知り合った同い年の陸上少年だった。大会にもよく応援に言ったりして、回りは誰もが認めていた仲だったらしいのだが、少女がここに来る少し前、家の都合でもっと都会の有名大学の付属中学に編入するために転校していったと言う。
「…あの子のお母さんが、有名な大学でもっとスポーツの勉強をさせて、世界大会とか、オリンピックとか、出したいんだっていってたわ…」
少女はそう言ってふと黙った。しばらく黙って、
「民子ちゃん、もうこれ以上話せない。ごめんなさい。今日は帰って」
と早口で言い、窓から消えていった。

 そして民子は忘れない。六月も半ばの、一日中雨の降っていたあの夕方。
 散々だった抜き打ちテストの結果を持って、民子はそれを話の種に、窓の外に立っていた。
 窓から顔だけ出ししている少女は、ほとんど完璧に国語を回答して、びっくりしている民子に
「寝てばっかりいると飽きるじゃない。母様に黙って起きて勉強したりしてるのよ」
とさらさら言っていた。が、ふと思いつめた顔になって、窓の向こうに消えた。
「どうしたの 」
民子が伸び上がって窓の中を見ようとする。
「どこか痛いの 」
が、少女は
「何でもない、朝からこうなの。ちょっと我慢すればすぐなんでもなくなるのよ」
と言うのだが、すぐ、壁越しに少女のへたり込む気配がした。民子はすぐそばの縁側に乗り上がって、
「おばさん  おばさん 」
と少女の母を呼んだ。
が、縁側のどん詰まりにあったドアの向こうから
「母様は夕方にならないと帰ってこないの」
と少女の声。その声もなんだか尋常でなかった。
「大丈夫  我慢できる 」
民子が聞く。返事もない。彼女は義侠心にそのドアを開けていた。少女が民子に背を向けて横になって丸まっていた。白い浴衣と黒い髪のコントラストが鶴の化身のように見えた。いや、そんなことはどうでもいい。民子はまったく気が動転して
「お母さんを呼んでくる 」
と少女に言い置いて、縁側から飛び出した。

 母は、民子が別荘の少女と交際していたことにはもはや諦めて、どうもなみなみならぬ民子の勢いに押されるままに、高台の別荘に向かった。
「大丈夫  苦しいの 」
と、縁側から少女の部屋に入った母の動きが止まる。
「民子 」
と顔を返し怒鳴る母の形相はえらかった。
「うちからばあちゃんと、川っ淵の種子婆さんを呼んできな 」
「え 」
「いいから行って来な  種子婆さんには高台のお屋敷でお産ですって言うんだよ 」
「…えっ 」

 二人の老婆を呼んでくるや民子は摘み出されて、門の前で少女の母を迎えろと言い渡された。
 ぼんやり傘を差しながら、しとしとしとと降る雨と、煙る往来を眺めている。
 落ち着いてみてやっと、少女の病気と、外に出たとき、彼女の服がいつも寸胴だったことと、意中の陸上少年と、産婆の種子婆さんの関係がわかってきた。そして、やっぱりあの子は都会の子だと溜め息を吐く。同じ事件がこの町の中で起こったとしたら、きっと町中は眉をひそめ、冷やかしもし、井戸端に咲く花の一輪として興味本位に話題にするだろう。しかも彼女はよそ者だ。臆面もなく、ふしだらと吊るし上げるのはたやすい。それを覚悟の上で、それでもやっぱり顔をしゃんと上げたままで、あの少女が何だか自分の手の届かない高みに昇っていくような感じがして、民子は少しだけ寂しかった。

 雲のグレーがだいぶ青くなった頃、往来を黄色に照らしながら走って来た車が一台、門の中に滑り込んできた。車を追って車庫に駆け込んで、出てきた少女の母に、民子は何の挨拶もなしに、
「今、家のお母さんとおばあちゃんと、お産婆の種子おばあちゃんが…」
と言う。母の顔はさっと一瞬青くなった。

 少女の母はどうにもかかりつけでもある大病院に彼女をつれていくと行ったらしい。しかし、もう動かせる状態ではないからこのまま決行すると主張した年の劫達の主張があり、結局そうなったらしい。民子はそのやりとりを、縁側に腰掛けて聞いていた。一枚障子の向こうで、人間のものではないような呻き声と、少女の母や老婆達の励ましの声が二つながらに聞こえてくる。
「一番仲が良かったのは私だったのに」
と呟いてはみるものの、彼女らは、とうとう民子にその障子の向こうを許さなかった。宝物を隠すでもなく、修羅場を隠すでもなく、ただ、民子の母や老婆達の、民子のような子供が踏みいる限りのことではないという信念が、障子に見えない鍵をかけていた。
 外が雨の音だけになってから、何も少女の状態を説明されることもなく、民子は無理矢理家に帰される。

 工場で働く父は今夜は夜勤で帰ってこない。
 母がいないと騒ぐ弟妹達をなだめながら、野菜の煮崩れて煮詰まった作りかけのカレーの鍋に水とルウを投げ込む。 本当に、見てはいけないものだったのかしら。
 民子の代わりに愚痴をこぼす鍋を眺めながら、彼女はうたた寝をする。

 それから一週間ぐらい、民子の母は別荘に出入りしていた。少女の安否を訪ねるが、母は「元気だよ」と言うだけで、少女の事情の本当のところをわざと避ける。民子には話しても理解できず、またさせなくても良いという心がありありだった。しかし、祖母は、若い母と赤ん坊について、あれ以上の美しい親子はいない、まるで赤子を抱いた観音様のようだと何の掛け値もないように言っていた。
 民子はいつか会いに行って見舞いの一言でも言おうと思ったが、模擬試験と期末試験に追われて、夏休みに入ってふと気がついた頃には、高台の別荘には、また誰もいなくなっていた。
 そんな頃、溜め息を吐くように、母が言った言葉が妙にわずらわしい重さだったのを、民子はその窓の記憶の締め括りとしてはっきりと覚えている。
「絶対にないと信じているけれど、お前、今のうちから変なこと覚えるんじゃないよ。
 …都会の子はいやだね。体ばっかり先に育って、躾のシの字もなっちゃいない。
 ま、母親からしてあんな感じだったけれどもね。だからお大尽のお妾になんかで遊んで暮らして平気な顔しているんだ…」

 今になっても民子は、あの頃彼女の世界にぽっかり開かれた窓の存在が思われてならない。
 時が過ぎて、あの頃は知らなくて良かった多くの虚実を見て、思ったほど都会もおもしろくないものだと言うことも知った。
 しかし、まだあの少女の踏み込んだ女としての境地など、あの少女のように導いてくれる男も見つからぬまま、あの町を出て、一人暮しの朝食のひととき、何気なく開いた新聞の経済欄に、あの少女がいた。
 いつか話してくれた陸上少年だろうか、写真には風格も堂々とした青年実業家が隣にあり、彼女もやはり若くして一時業を大成したと、記事には書かれている。
 
 
 

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