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  <<開店休業>>
 
 

 「はい、できました」
と言いながら、オリエははさみと櫛を箱にしまって、
「いかがですか? お客様」
と、合わせ鏡で項を刈り上げた後ろ頭を悠司に見せた。彼はそれに
「オッケー」
と答え、首に掛けた布を外す。
「さっぱりしたでしょう?」
とオリエは言うとすく、と立ち上がる。
「それじゃ言ってくるわ」
そして戸口にたった瞬間、入ってくる江里佳と鉢合わせになった。
「おかえり」
部屋にいた二人は同時に言う。
「早かったな」
と悠司が加えると
「定時で上がっただけの話よ。…オリエさんは、学校?」
「ええ」
オリエは微笑んで
「お留守番お願いします。息子は全く当てになりませんから」
と笑いながらドアの外に消えた。
「一言多いぜ、あのオバサンは」
閉じたドアに向かって悠司がアクタレをつく。
「実際そうじゃない。生物の入った『ゆうパック』を不在郵便にして駄目にしたのはどこの誰でしたっけ」
まったくウドの大木なんだから、と江里佳は女房風を吹かせている。

 悠司は、英国人の母オリエと日本人の父との間に生れたハーフである。父は早くに二人の前から姿を消し、二十年以上もの間、母子二人でどうにか後ろ指差されない生活を営んできた。ところが高校を出てからも悠司は職に就こうともせず、ブラブラと過ごしている。生活は専ら、母の英会話講師の報酬と、彼とは高校からの付き合いで、卒業を機に転がり込んできたフリーター・江里佳の収入に頼っている。
「このプータロー」
と時々、戯れだったり心底からだったり、江里佳は言う。
「少しはさ、バイトでも捜して汗を流しているところを見てみたいものだわ」
今日もそう愚痴るが、悠司は聞く耳を持たないようで、寝転がっている顔の前に正座した江里佳の膝に絡みつく。
「やめてよ、帰ってきたばっかりで、そんなつもり全然ないんだから」
「いやよいやよも好きよのうちと言うじゃないか」
「やめてってば、このヘンタイ!!」
「から意地はるな。初めてというわけじゃなし」

 生憎、彼等の部屋はフローリングではなく、江里佳は背に畳の後が付くのをしきりに気にしている。
「夜になるまで待ってよ、せめて」
「顔が見えない」
悠司は江里佳の胸の谷間に顔を埋めて、言葉少なに返す。
「もう、いつもは全くのんびり屋なのに、こういう時に限ってせっかちになるんだから」
と彼女は顔を赤らめるが、心底嫌がってるようではない。やがて二人の会話は途切れ、西日も傾いた部屋には…

「今度、二人でどっか行くか」
と悠司が殊勝なことを言ったのは、一戦交えた後、もう残照の熱さも消えた部屋に下着姿の江里佳が電燈を付けた時だった。
「どっか?」
振り返って聞き返した彼女を、上半身裸の寝転がった悠司は首を伸ばして仰ぎ見る。
「近場で、一日遊べて、飽きない所」
「那須ハイランドパークとか、東武公…」
「俺の財布を見くびるな。ナンジャタウン行くぐらいの金はある」
「じゃTDLがいいな」
「それはよしてくれ。この年でディズニーと言うのは気恥ずかしい」
「そうね。ぴちぴちした子供にでれでれしてるあなたは見たくないし」
「あのなあ… 俺は実用性のない女は眼中にないんだが」「わかってるわよ。そんなむきにならないでよ」
江里佳はそう言って
「でもあなたがそんなことを言うなんて。なんて心境の変化かしら」
と笑った。

すると、
「どうして私も連れて行ってくれないの?」
と二人の計画を聞いたオリエが渋い顔をした。
「もう進んで遊ぶ年じゃないだろうに」
と悠司が言うと、更にオリエは
「いいえ、人間というものはいつまでも楽しみの追求というものをするものなんです。場所行程、全部御膳立てするから、私も連れて行ってえ」
としなを作る。結局、言い出しはしたものの何の案もなかった二人は、その話に乗ることにした。

 「でもさあ」
しかし、悠司は当日貸切りバスの中でむくれていた。
「どうして英会話教室の親善旅行なんだよ。しかも熱海」
「文句言わないのよ。ただで連れてきてもらっているんだから」
「だって、旅行社の人が、最小興行人数が二十人なんてめちゃくちゃなこと言ったんだもの。希望者そんなにいないのに」
「…でも確かに、今時熱海なんて流行りじゃないしなあ」マイクロバスの中には、有閑マダムの錆びた嬌声が溢れている。彼女等の旅心地を邪魔するに忍びなくて、悠司はそれ以上は言わなかった。
「こんなんなら、ガキばっかりでも東武公の方がよかったな」
と頭の中で思いつつ。

 夕飯の宴会では、悠司達はマダムの恰好の遊び相手になった。ハーフなんて言う珍獣を目近にするのはなかなかないことだし、教室の若い子はそもそも熱海になどついてくるはずがないし、遊び道具がないのだから余計である。
 からが 宴会を抜け出して、明けた窓につんつるてんの浴衣の裾をなびかせている悠司の後ろに、オリエが立っていた。
「そうしていると、あの人にそっくりよ」
「は?」
悠司はきょとん、とする。
「誰のこと?」
「忘れたの?」
オリエはふと淋しい顔をした。
「あなたのお父さん。あなたがまだ小さい頃に、あてもない旅に出るって、それっきりよ。それまで目に入れても痛くないくらいかわいがってもらったのに」
オリエはもともと英国貿易商令嬢だった。が、たまたま英国で放浪していた父に出会い、炎のような大恋愛の末に彼の国に移住したのだった。
 ともかく悠司には父の面影などない。
「生憎小さ過ぎて、覚えてない…」
と、彼は淋しい項をかき上げる。
「今更知ったって、実感も沸かない」
「そうでしょうとも。あなたは私一人から生れたようなものだわ。
でもね」
オリエは改まる。
「家族も友達も、『行きずりの外国人に』って反対したけれど、私、あの人に会ったことを、一回として後悔したことはなかったわ。
生れた国しか知らないで終わるはずだった私に、波乱万丈の人生を教えてくれた。そしてあなたを与えてくれた。そして今私は、あの人の国で暮らしている。
これって凄いことよね?」
オリエは陶酔しながら、さざ波の小さく繰り返す窓の外を臨んだ。そして、くるりと悠司の方に向き直り、
「その髪型ね」
と無邪気に言った。
「出会った頃のあの人と同じなのよ。これで髪と目がもっと黒ければそのまんまだわ」
「はあ」
悠司はオリエのペースに巻き込まれて、言葉もない。

 しかし悠司には、母がいつもは全く口にしない父の話題を持ち出したり、そもそも誘われるふりをして実は子供も喜ばないはずの熱海旅行に誘ったオリエの真意を計りかねていた。一体この人は、何を企らんでいるのだろう。
 するとそのうち、オリエはふと真面目な顔になって、
「ところであなた、江里佳さんのこと、どうするつもりなの」
と言う。悠司ははた、として
「どうって」
と言葉を濁らせた。
「どうして、彼女が、大切な親御さんのもとを離れて私達と一緒に住んで、あなたに職を得てほしいかわかる?
彼女の気持ちは、私には良くわかるのよ。彼女はあなたとの生活が欲しいのよ。私は波乱を求め、彼女は安定を共に求めているという違いはあるけれども。」
 こういうことになると、悠司には、ぼつぼつと、江里佳の今までの振る舞いが気になってくるのだった。
高校にはいった夏に、突然彼女に告白されたこととか、彼女が自分たちの家に転がり込んできた当夜、眠るオリエの気配を憚りながら、知らぬ尽しの初体験に心身擦り減らしたこととか、そんないわゆる「思い当たるフシ」というものが無性に思い出されてくる。
「そうなのかなぁ」
「気がついていなかったのはあなただけよ、きっと。待たせては失礼というものではなくて?」

 悠司はその夜は江里佳が気になって、なかなか眠れなかった。彼女は旅疲れとアルコールで早々に眠ってしまったが、その顔すら見ていられない。
 寝不足は帰りのバスの中にまで持ち越されて、帰りのバスの中で、彼はシートをリクライニングさせて、休憩まで仮眠するつもりだった。隣の江里佳がそれを横目にして、端に掛かっていた上着を掛けてやると、悠司は片目を開けて彼女を見る。そして言う。
「解散したら本屋によってアルバイトニュースを買おう。それから、市役所にも行こうな」
「え?」
江里佳には、彼の言葉は直ぐには通じなかったようだったが、すぐに当を得た顔になり
「うん」
と笑った。
 

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