もどる

浪漫掌編「花の波」




 古きよき時代、山のそのまた山の向こう。
 山のふもとの小さな港町の隅っこに、一見の揚げ屋がある。
 男と女の本音と建て前が二つながらに生きる場所。
 満天の星空。
「…いっそ、あたしと逃げて下さいな」
ぼんやりとした明かり、季節外れの桜の屏風。
真っ赤な蒲団、白い肌、黒い髪。
「あたしがいいとおっしゃってくだすったじゃないですか」
「仕事があるのさ、どうにもならん」
「そんな事言って、あければまたあのお大尽のところに」
「しがないゴロツキをここまでせ立ち直らせて大恩あるひとさ、裏切れんよ」
「…お嬢様と祝言あげるそうじゃない」
「金と仕事のためさ。心はお前のモンだ」
「まあ、心にもない事を」

 アキがこの揚げ屋に、山里の食い扶持を減らすために身売りされてきたからもうずいぶんになる。
 二十歳も一つ程過ぎたか。
「タケさん、雪よ」
憎い事を言う今夜の客に当てつけるように、窓をあける。風と一緒に白いものが吹き込んできて、明かりが寒そうに震えた。
「ね、タケさん」
客も起き上がって、キセルにタバコをつめる。明かりにキセルをかざして火をつけようとしたが、アキはそれを押しとどめた。
「タバコは止めて」
「どうして」
「部屋がけむくなるし、第一タケさんには似合わないわ。何か、御隠居みたいよ。あたしよりお若いのに」
「三つぐらい」
タケさんと呼ばれた客はそういいながら、アキをもう一度蒲団の中に抱き込んだ。
「タケさん、痛いわ」
アキはしばらく無邪気にタケさんの腕でもがいていたが、すぐ大人しくなる。
「…タケさん」
と囁く。
「あたしと逃げてくださいな。いくら心がないと言ったって、他の女と一緒にいるタケさんなんて見たくないわ」
「…」
タケさんは、今度はマッチを取り出して、キセルに火をつけた。苦い顔で一服する。
「じゃあ、春になったら旅に出ようか」
「たび?」
「この街を過ぎる桜の波と一緒に…北に…一月でも二月でも」
「うれしい」
アキはタケさんの腕の中で嬉しそうに身をくねらせる。タケさんが思い付いたように言う。
「タバコはとがめないのか」
「今は嬉しいからいいわ」
「なんだかねぇ」
タケさんはキセルの中を吸い果てると、伸び上がってから明かりを消し、アキを組み伏せる。
 夜はまだ、二人がしっぽり情けを交わすには十分すぎる程長かった。

 揚げ屋にいい身なりをした御婦人がやってきて、アキに用があるらしい。アキ以外の遊女達は、座敷のふすまを細く開けた前に鈴なりになって、中の様子を伺っている。こちらからは背を向けてみえるアキと差し向いの御婦人は三十絡みと言ったところで、化粧のおかげか少々派手な印象を受けた。
「ここまで私がわざわざやってきた理由はもう分かっていると思うけれども」
そういう御婦人の顔を、アキはぶ然と見ている。この御婦人は、タケさんが一緒になると言う、この港を仕切る船会社の娘の母親なのだ。正確には、この御婦人は後妻に入ったのだが、なさぬ仲の娘はこの御婦人によく懐いているらしい。
「タケさんと別れて下さる?」
「え?」
「娘の婿になるひとに、こんな女がいるとは、世間に大して申し訳ないですからね」
「あたしがいたら邪魔かい」
「邪魔じゃなかったら『わざわざ』こんな場所にまで来ません」
「別にかまわないじゃない。タケさんは仕事のためにいやいや娘さんといっしょになるんだし。その寂しい文はあたしが引き受けるさ」
「ま」
御婦人は顔を真っ白にして激高した。
「なんといおうとも、アナタとタケさんは別れていただきます。娘の一章の大事にこんな傷が残ったままでいい事なんてありませんからね!」
そして、バッグの中から、投げるように紙切れを出す。白紙の小切手らしい。
「好きなだけ金額を書き込みなさい。…もっとも、あなたに字が書けるなら」
「手切れ金なら受け取れないね」
「…たしかに渡しましたからね」
アキはそれを突っぱねようとしたが、御婦人はそれも見ずに荒々しく部屋を出ていく。
「…」
アキはその後ろ姿を黙って見送ったが、ふすまの向こう側でてん末を見ていた誰かが、
「なにさ。ひと向い前まではここで養われてたくせに」
「それが、あのお大尽に身請けされたら、あんな御婦人風ふかせて、まぁ」
とつぶやきながら去ってゆく。それも聞き流しながら、アキは小切手をくるくると丸めて、そばの火鉢に放り込んだ。炭にいぶされてふつふつと立つ煙りはとうとう小さな炎になって、薄暗い部屋を一瞬明るくした。

 タケさんはそれからしばらくこなくなった。港では、荷物の積み出しが忙しい。近くの大きい港が、冬の嵐で壊れてしまったのだそうだ。タケさんがいるあの船会社は、かわりに、あらゆるものの積み出しを請け負ったらしい。きっと、忙殺されながらも笑いは止まらないのだろう。
 その忙しさの合間を縫うようにして、タケさんの結婚の知らせもはいってきた。馬車を雇って、街中をはでに練り歩いたらしい。もっとも、籠の鳥のアキには、見る事すら許されなったが。
「いやあ、あれは今までにない立派な祝言だった」
今夜の客はそう唸ったが、そんな客をアキはどことなくつれなくあしらっていた。
「タケさん、あたしのとの約束、覚えているかしら」

 タケさんがまたやってくるようになったのは、この祝言の日から半月も立たない時のことだった。
 増えた資金を有利に活用しようと、船会社の社長が危険な取り引きに手を出して、危惧通りに失敗をしたのだ。資金は増えるどころか、増えるだろう資金を当てにして起こした新事業も波に乗らず、その借金を相殺するために田畑まで処分したらしい。
「旦那はもう半死人なんだよ。社員と奥様だけで何とかもっているようなものさ」
タケさんはため息を付いた。
「でも、何が会っても、お前との約束だけは守るから」
「うれしいわ」
アキはその言葉に素直に喜んだ。この家に入ったのが一昔前、彼女はそれから揚げ屋の外に出た事すらなかったのだ。
 いい夢を見た。桜色の中に、自分とタケさんがただよっていた。

 「ね、タケさん」
夜中、目をさます。タケさんが、隣の気配に身じろぐ。可愛い寝顔だ。
「あたしと奥様と、どっちが可愛い?」
しかし、彼の意識はもうろうとしたままで答えなかった。

 しかしとうとう、ある日、タケさんは悲鳴をあげるようにいった。
「奥様はなんて無茶を為さったんだ…!」
御婦人は自分なりに、傾いた会社を何とかしようとしたらしい。だが、千人面して近付いてきた高利貸を信用してしまったがために、いまはその取り立てにおわれているらしい。社長は、ちょっとした風邪を医者に見せてあげられないままになくなったらしい。葬式が余りにも質素で、話を聞かないと、町のだれにも分からなかったそうだ。
「おれは奥様を守らなきゃいけないんだ」
「でしょうね」
タケさんは、長い事頭を抱えていた。

 そして、アキと揚げ屋の主人の前に、どん、と、札束が置かれた。
「これでどうか」
と、タケさんは頭を下げた。
「…」
出された二人は答えようがなく、やっと、アキが、
「奥様は?」
と口を開いた。
「あるものを全てうって、借金を何とかして、そして残ったのがこの金だ。
 奥様にはもう愛想が尽きた。もう、あの人のそばにはいたくない」
タケさんは言い切って、
「アキ」
と顔をあげた。
「隣の街に、桜が来た」

 港には、小さな客船が、アキ達を今や遅しと待っている。
 荷物はふろしき包みだけ、あとは手に手をとって雪もほとんどなくなった港への道を歩く。
 そして、若い女性がひとり、人買いらしい、人相にかげりのある男につれられていくのとすれちがう。
 タケさんはそれに一瞥を暮れるだけだったが、アキには、直感的に、それが彼の奥さんだと悟られた。振り向くと、その二人は、今アキが出てきたばかりの揚げ屋の中に入っていった。
 そういえば、とアキは思い出していた。確か自分がここに来た時も、今日みたいな春のかけ出しの頃で、やっぱり、揚げ屋から出てくる、こういこう人とすれ違ったのだ。
 そう。あれは、あの御婦人だったのかも知れない。
 

     19950127第一校
     19950223推敲
     19990828第二校

をはり。



もどる