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じゅうご・春宵一刻価千金のココロ

 某日。
 全てを封じ込めるように、雪が降っていた。
「つまんないっ」
バックギャモンの台から駒を全て払い落として、モイラは椅子の上で大の字になった。城の中に缶詰めにされて、一週間以上にもなろうとしていた。
「ナヴィユ、外に出られないの?」
「ここ二三日、城門が凍り付いて、出るにも入るにも難儀いたしますよ」
「それでもいい」
散らばった駒を拾いながら、ナヴィユが言う。
「使用人が二三人、外に出たまま、帰って来られなくなっております、それでもよろしければどうぞ」
そのいい口はたんたんとしていたが、内容は恐ろしい。モイラは震え上がって
「いい」
とかぶりを振った。かわりに、
「窓をあけてもいい?」
と窓をあけながら尋ねる。
 窓といっても、板戸である。部屋の保温のためには閉めておくしかないのだが、そのために冬の室内は昼でも夜のように灯りをともしている。その部屋に、寒風と共に、白い淡い光が差しこんだ。
「綺麗」
羽根枕を破って、中の羽毛をぶちまけたような、大粒の白い固まりが視界を閉ざすほどに降っている。本当なら眼前に広がるはずの針葉樹林も黒いかげすら見えない。
「まあまあまあ、姫様」
そこに侍女頭目が走りよってきて戸を閉めた。
「せっかく暖まったお部屋が、寒くなってしまったではありませんか。お風邪を召しますよ」
また薄暗くなった部屋の中でモイラは、ぶすっとふて腐れた顔でソファーに座った。
「ゲームにはおあきですか? ならば御本をおよみ遊ばし」
「全部読んじゃったもの」
「それは、姫様がきちんと心を込めて読んでいないせいです」
始まった侍女頭目の説教も右から左に、モイラは別の侍女に声をかける。
「クラウンを呼んで。オルトねえ様のお部屋にね」
「はあ」
侍女は、モイラが聞いていないとわかるや、口を閉ざして主人を睨み付ける頭目と、さっさと部屋を出ようとしているモイラとを代わる代わる見る。モイラはじっと頭目を見て、おもむろに「べっ」と舌を出した。
「!」
「ナヴィユぅ、一緒に来てね」
モイラはころころと笑いながら部屋を出る。ついていくナヴィユの背中に、頭目の、
「ナヴィユさん、またあなたが教えたのですか、そんなこと!」
という言葉が追い掛けてきた。

 「それで、飛び出して来ちゃったの?」
オルトは苦笑いをした。
「あかんべえなんて私は教えて差し上げたつもりはありませんが」
ナヴィユは当惑気味だ。
「たぶん、ベンヤミーノ副団長(団長代理)達、一部姫様にそば近い者達の影響なんでしょうが、いいです。私一人が悪者になっておきます。関係が悪化して、姫様の御前出入り禁止となると、いろいろ問題もありますので」
「たいへんね。二人には私からも言っておくから、落ち込まないでね」
「ありがとうございます」
「どうして、アグネス(侍女頭目)はあんなにうるさいのよう」
モイラが愚痴をついた。
「そりゃ、アレックス王から姫様をお預かりしている以上、王のお目がなくなったら姫様のお行儀が悪くなったとは言われたくないでしょう」
「そうなの?」
「どんなに遠くにおいででも、姫様の事になると王はお目の色を変えられるそうですから」
「そうよ、お兄様が、アグネスなんてどっか行っちゃえっておっしゃればいいのよ」
「まあそう腹を立てられずに」
クラウンが来ましたよ。ナヴィユが戸口を指した。リュートを持ったクラウンが一礼する。
「姫様には御機嫌も麗しく」
型どおりに挨拶するクラウンをモイラは近くに呼び寄せて、
「ねえねえ、なんかおはなしして」
とせっついた。
「どのようなものがお好みで」
「何でもいいわよ」
「そうですねぇ」
クラウンはリュートを調律がてら弄び、何ごとか考えて、やおら語りを始める。
 よくありそうな冒険活劇を一曲歌い上げた後で、
「もう一曲いかがでしょうか、皆様がた? 御婦人には、とろけるようなロマンスもございますが」
「私達はいいけれど、モイラはどうかしら」
オルトが首をかしげた。ナヴィユは渋い顔をする。モイラは
「どういうお話なの?」
とクラウンに尋ねる。
「はて、どういう、とは。姫様もご存じでしょう。『その人の声を聞くだけで、失神しそうな、怒涛のォ』」
クラウンはさわりをつま弾きながら笑う。
「わからない」
「はぁ」
クラウンは目を点にして、モイラを見た。彼女のことは、この一月の間に、よく理解したつもりだった。幼な心のままであるゆえに、騎士達の心を奪いながら本人には全く自覚なしという、「残酷なる妖精」…
「では、私の歌をとくとお聞きあれ。その後にこそ、今宵誰をお召しになるかお考え遊ばせよ」
「良くわからないけれど、そうする」

 だが。
 いよいよ佳境に入って来た時に、オルトが停めた。
「クラウン、今日はもういいわ」
「さようですか?」
「また聞かせてね」
オルトは、静かに下がるように、クラウンに向かって、自分の指を口に当ててみせた。その肩にもたれるようにして、モイラがうたた寝をしている。
「モイラには少し難しかったようね」
「…いっそ、このまま団長に預けて、煮るなり焼くなりしてもらいましょうか」
とナヴィユが言った。そして、顔を見合わせる。二人とも、お互いが全く同じ事を思いついているのに気がつく。だが、にっと笑った後、大層なため息をつかざるを得なかった。そうさせたところで、「こういう所だけ勘がいい」彼が、そうそう簡単に踊らされるわけがない。薬の効かない、こじれた風邪のように、微熱を持ったまま一進一退のその有り様に、二人は、これは成りゆきを待つしかないのだろうかと肩をすくめる。

 明けない夜のないように、春の来ない冬もない。
 雪の降る日はだんだんと少なくなり、ディアドリーを包む針葉樹林も、一日ごとに、雪の白が消えてその緑の濃さをましてくる季節がやって来た。
 夜はまだまだ冷え込むが、少々の夜更かしもできない程ではない。
 そういう、春の夜長の宵の口、私室に下がっていたユークリッドのもとを、ナヴィユが尋ねて来た。
「姫様からお召しがありまして」
と事務的に言うナヴィユに、ユークリッドは怪訝そうな顔をした。
「特に俺に断わる必要はないと思うが」
「それが今回に限っては、団長も御一緒に、とのことでございまして」
「とはいえ、もうお休みの時間ではないか」
いつにない呼び出しに、首をかしげるユークリッドの様子に、ナヴィユは「鈍い」とやっと聞こえるような早口で言った。
「ん?」
「いえ。
 とにかく、できるだけ急いで、とのことですので」

 「このごろ、あまり姫様の所に顔を出していなかっただろ」
廊下の、誰もいないあたりで立ち止まり、ナヴィユが言った。
「…ひとつには、その理由を知りたいらしい」
「雪が融け出したからな。例の奴らが動きだしそうで、いろいろ、厄介も多くなった。…故意に避けていたわけでは…、ない」
「ならいいんだけど、ひょっとしたら、あの日に、何かあったのかなって」
ナヴィユは嫣然と微笑んだ。ユークリッドの表情は一瞬にして固くなる。あの日、と聞いてすぐ、隠れ鬼の一件を思い浮かべた。ナヴィユも、そこを聞こうとしているの違いなかった。
「何もない」
とはぐらかそうとはしたが、
「紅が移っていて何もなかったも何もあるかい」
と突っ込まれた。
「…君が想像している通りだ」
「ああそう。
 で、どっちが先だったのさ」
ナヴィユが腕を組む。ユークリッドは顔を背けたが、先方は黙秘権を認めてくれないようだ。
「俺だ」
我ながら、自信の搾りかすのような、蚊の鳴く声だった。
「ふうん」
ナヴィユは、値踏みするような声を出した。それから改まって、
「実は、今日こそ、あんたには覚悟を固めてもらうことになるかもしれない」
と言った。
「覚悟?」
「こんな時間に、姫様が、あんたをお部屋にお召しになる。そういう事でさ、察してよ」
ユークリッドはさらに怪訝そうな顔をしたが、すぐに、事情を知った顔になって、ナヴィユにつかみかかろうとする。
「まさか、また」
「そこを誤解してほしくない。あたしはただ、あんたを連れて部屋に来てくれと姫様に言われただけだ」
「本当か?」
「確かに、姫様にいろいろ入れ知恵した過去は認めるよ。あたしの御先祖様に誓ってもいい」
そういうナヴィユの態度は実に堂々としたものである。
「…姫様の心の回復…というか、成長が、あたし達が考えていた以上に速くて確実だったって事かな」
とにかく、今度のことはモイラ本人の思い立ちだから、誰の作為でもない。ナヴィユはそんなことを言いながらふたたび歩き始めた。
「あともう少し遅かったら、オルト様とも打ち合わせて、薬で眠らせてでも姫様の所に放り込むつもりだったけどね。あるいはその逆…」
そのナヴィユの言葉に言い返す余裕は、なんだかないように思えた。ユークリッドもふたたび黙って、ナヴィユの後をついていった。慣れたはずのモイラの部屋までの道が、今夜に限って、雲を踏むようで、ユークリッドは物珍しそうに、ほとんど初めての夜の道のりを歩いていた。

 「姫様」
扉の前で、ナヴィユが名乗る。
「団長を連れてまいりました」
「はいって」
モイラの声が帰って来て、ユークリッドは反射的に身体を固くした。ナヴィユにすすめられて、彼女の開けた扉の中に入る。ほの暗い明かりは暖炉の炎だろうか。扉の向こうに続いている寝室に、ナヴィユはするりと滑り込む。小さく会話が聞こえる。
「ナヴィユもここにいて」
そんな声が聞こえた。ナヴィユの返答は、よく聞こえなかったが、いつになく不安そうなモイラを慰め励ましている感じだ。そのナヴィユが戻って来て言うには
「お辛い夢でも見ていたようだね」
あたしは火を見ているから。ナヴィユのこぶしが、ユークリッドの脇腹を、寝室の方にぐいと押しやった。

 寝台の帳は降りていて、明かりがほのかに中をすかして、帳の外に顔を出そうと近付いてくるモイラの動きが良くわかった。いましがたまで涙していたような、目もとが染まっていた。
「来てくれてありがと」
いつにない舌足らずの返答が返って来て、モイラは帳を開けて、寝台の、布団の乱れてないあたりを指した。
「座って」
「はあ」
遠慮するようなことは、彼女の機嫌のためには今はしない方がいい。ユークリッドはそう咄嗟に思って、いわれたように腰をかけた。
「ナヴィユが、夢を御覧になっていたといっておりましたが」
「お兄様の夢を見たの」
「兄王様の」
「ひどくお顔の色が悪くて、寂しそうなの。私が呼んでも、気がついて下さらないの」
「?」
ユークリッドははた、として、モイラを改めて見た。
 アレックスが彼女の夢まくらにでも立ったのだろうか。彼女のいう言葉をそのままにすれば、青ざめた、寂しそうな顔…命を失った、魂の顔で。
「ユークリッド、お兄様はお元気かしら」
モイラは、寝台の枕にもたれ、投げ出した足にかけられた羽根布団の端を弄ぶ。
「お手紙も来ないし、心配だわ」
モイラが、ここについてから何度か、アレックスにあてて手紙を書いていたということは、エルンスト達はもちろん、彼女にそば近いものなら良く知っていることである。他愛のない内容だったが、その手紙を読む主はもういない。ユークリッドはつい口を開きかけた。だが、喉元まで込み上げたそれは出せなかった。言葉もなくして、うなだれるモイラを見つめている格好になってしまう。結われていない金色の髪がほおのあたりに落ちて、言い様もない陰を作る。もう一度モイラが顔をあげて、今度は蝋燭の明かりはふわりと彼女を照らした。
「ナヴィユはね、お兄様の夢は、私がお兄様を思っているからだっていうの。なんだか変な話ね。お兄様が私を思って下さる、その気持ちがここまで届くのではないの?」
「不勉強ですので、そういう事は、私にはにわかにはわかりかねます」
ユークリッドは、紙でくるんだような言い方しかできないのがもどかしかった。
「ですが、どんなに遠く離れていらっしゃっても、ごきょうだいである事にかわりはないではないですか。どちらがどちらをより多く思っていらっしゃるかという事は考えるまでもないと思います」
モイラがうまく言い包められる事を祈るよりなかった。そして案の定、言い包められてもらえた。
「お兄様はお忙しいから、きっと、ここになかなかお出でになれないのが寂しいのね。わたしが、もっともっとお兄様を思って、私がお兄様の夢に出ていけばいいのだわ」
「さようですね」
「…」
会話が途切れる。だが、退出するきっかけがつかめず、ユークリッドは腰掛けたまま自分の手指を弄んでいる。モイラもしばらく、会話の余韻でしんみりとしていた。そしてふたたび話し出す。
「このごろ、ユークリッドが遊んでくれなくて、私も寂しかったのよ」
「さよう、ですか。それは、ありがとうございます」
ユークリッドもはたと顔をあげて、自分の膝を抱えているモイラを見る。のどもとまででかかった重たい言葉はふたたび心の深淵に融けた。そのかわりに、モイラが深夜に自分を召したという事がどういうことを指しているのかという事が今になって押し迫って来て、普段にもまして、気のきいた言葉など出て来ようもない。
「仕方ないわよね、ユークリッドは忙しいのだもの」
冷汗でじっとりと背中が冷たくなる。そんな自分との戦いのさ中にあるのも知らずに、モイラは鷹揚にわかったようなことを言う。
「この頃は特に忙しかったみたいね」
「…はい」
まだ仕事の話題の方が、ユークリッドには気が楽だった。もちろん、オーガスタの動静は、アレックスに直結すると考えられているので、モイラの前では御法度の話題である。
「もうすこし暖かくなって、王宮との行き来が頻繁に行なえる頃には、殿下のお仕事上の節目が多くなりますから」
まんざら嘘でもない。
「春になるのよね」
「そうですね」
答えるユークリッドのその調子が、集中していないことを悟っているのか、モイラのほほえみが、どことなく、心のないものに見える。彼女の笑みが自らを突き放すように感じられた。
「パラシオンのお城の中庭にね、綺麗な花が咲く木がいっぱい植えてあるの。春になると、庭が朱鷺色になるのよ。お兄様と、ディートリヒ様、エルンスト様と、オルトねえ様と、みんなで、花の下でお茶するの」
「そうですか」
それを、ユークリッドも見たことがある。オーガスタにはない珍しい植物だそうだ。もっとも、パラシオンでそれを見ていた時は、それを堪能する余裕なんて全くなかったが。アレックス不在のパラシオンは、その程度の彩りでは覆えない程の、黒い重たいものが、そこかしこに淀んでいたのだ。ナヴィユだけは、故郷で見なれていた花だと大喜びしていたが。
「何日も何日も待って、咲いたと思ったら、風ですぐに散っていってしまうの。でもそれが綺麗なの」
違う。このモイラのほほえみは、心無いものではない。ユークリッドは、凝視しながら、モイラの全身から、なにか、自分には抗いがたいものが迸るのを悟った。あたかも、彼女の語るその花が、散り急ぐ直前に咲き急ぐ時の、瞬間の内に込めたものが解放されるような。
 寂し気な…いや、妖艶な潤みを込めた瞳が、乾いた大地に水がしみ込むように、見つめ返してくる。それにユークリッドは如何ともしがたくなってくる。血の気がいつもとは違う場所を走る感覚が襲う。
「でもね、寂しかったけど、ちょっとだけ嬉しかったの。
 私ね、お仕事で一所懸命なユークリッド好きよ」
「…」
「ユークリッド?」
「…」
「ゆ」
「…」
「…」
ユークリッドはそれ以上を言わせなかった。信じられない程勝手を知ったように体が動いた。
 寝台に膝をつき、靴を脱ぎおとし、モイラの魔法をかけてくるような紅い唇を自分の唇で責めながら、着ていた服の襟をぱくりとはずした。

 「ねえこれどうやってはずすの?…これでいいの?…あ、リボン引いて、肩の所はずすとね、…全部とれちゃうの…灯り消さないで…真っ暗だめなの…」

 瞑目していたナヴィユは、侍女頭目の息を呑んだ気配で目を開いた。彼女が、あわあわと指すほうを見た。
「あ、あ、そんなこと」
体の芯をつつかれるようなモイラの体の花と開きゆく声がただよっている。寝台から半分投げ出されたモイラの脚のつま先が震えるのが何となく見えた。
 侍女頭目は声が出ない。目を白黒させている。心の準備がないところにマトモに見たのだから羞恥心に後頭部を殴られたような思いでいるのだろう。当然、まだ事態の把握はしていないはずだ。
「…」
ナヴィユは半分腰を抜かした侍女頭目を寝室の外に引きずり出した。音をたてないように寝室のトビラを閉めて、頭目に水を飲ませて、彼女の正気の戻るのをまった。
「あ、あ、あれは一体、」
と、それでも言葉のおぼつかない侍女頭目は、案の定、つかみかからん勢いだった。
「ナヴィユさん!」
「やっぱり来た」
ナヴィユはたんたんと彼女に臨んだ。侍女頭目が言葉を選んでいる間、
「…そ、そこはね、…息、できない…」
壁の向こうからは悩ましい声が透けてくる。モイラの呼吸は急に乱れてくる。息を吐いて力が抜けると、そのままどこかに持ってかれそうになるのを堪えているといった風情か。異様にその言葉が響いて、侍女頭目は一度は言いたかった言葉をまた失った。
「ナヴィユさん…」
「意欲は本能技出は学習ときいたことがありますが、まんざら団長もその方法を知らないわけじゃないみたいですね。とんだ花盗人ですこと」
「ナヴィユさん!」
「御安心下さい、お相手は、侍女長様もお作法では太鼓判を押したユークリッド団長ですから」
「そんな悠長な事を言っている場合ですか!」
「姫様のお邪魔ですからお静かに」
「…いかに、王太子殿下から絶対の御信頼を得ているとは言え、…こういうのもなんでしょうが、騎士風情が」
「その団長が、アレックス王より姫様に関して一切の後事を託されたというお噂は信じられない、と」
「当たり前です。どうしてアレックス様は姫様にこれぞという御縁を残して下さらなかったのか恨まれます!」
「その姫様が、どんなお心づもりであれ団長をお選びになったと言うのは?」
「え?」
侍女頭目ははたとして椅子に腰を落とした。ナヴィユはそれを淡々と見る。
「今まで、団長はただのお遊び相手とお思いでしたか?」
侍女頭目は言葉をなくして額を抱えた。
「ともかく、侍女長様が頷いて下されば、こんな夜ばいまがいの事をせずに団長をここまで案内することができるのですが」
「…ちょっとまって」
侍女頭目は口元を引き締めた。年令がら目立ち始めたしわが少し濃くなる。
「もしもの事があったらどうするの?」
「もしもの事?」
「…」
だが侍女頭目はその先を言い淀んだ。それをナヴィユは受け取って
「そりゃ、それがいわゆる自然の摂理と言うものでしょう。そうなったら殿下に何とでも箔をつけていただいて、団長を配偶に為さればよろしい。それだけの器量は持ち合わせていますよ、あの人は」
「…」
侍女頭目はしばらく唸っていた。だが、ぷつんと吹っ切れた顔をした。私も女の端くれです。ヤケクソぎみに笑った。
「…私は何も知りません、今夜の事はきっと夢でしょう。
 このごろ姫様は何かと夜の宿直をおいやがりでしたから、それはもうなしになったとあなたから申し上げて下さい」
そして
「あと一週間も遅くこんなことになっていれば、私は断固殿下に申し上げて御家来衆を出入り禁止にするところでしたわ」
ぶつぶつこぼした。ナヴィユはそれを黙って聞いている。姫様の体の調子は大体自分も分かっている。でなければ、本当はただの話し相手で呼んだはずの姫様と呼び出されたはずの男に深い詮索をさせて焚き付けたりするものか。とにかく侍女頭目はさらに
「こうなったら私も侍女頭目としてきちんと結末を確認すべきでしょう」
と、いたって真面目腐った顔で言い、タンブラーを壁に当てて耳で中をうかがっていた。

 そういう間にも。
 ちらちらと揺れるロウソクの光に、二人の陰は継ぎ目もないくらい融けていた。
 それまでには想像もしていなかったあんなことやこんなことをしてされて、モイラは体の中身が熱く融けて流れ出る感覚を覚えた。独り遊びに耽っている自分の姿を見られているようで、彼の顔を見ることができなかった。そのユークリッドの指が慇懃に触れてきて、モイラははからずも震えてしまった。その指を払おうとして、こつ、と何かに触れた。その形を確認するように撫でてしまう。男の顔にさっと赤味が走る。
「お、王女、そのように、されたら」
「これ、ユークリッドの…?」
答えを待つ暇もなく彼はモイラの上半身を動けない程に抱き締めた。
「あん、苦しい」
「王女」
何か言われた気がした。動けない間に、足が押さえられて、重みがずんとかかってきて、苦しくなった。
 モイラはしばらく、涙を浮かべて体を固くしていた。可愛らしい膝小僧がユークリッドの脇腹を締めてくる。腕は投げ出して、モイラはずっと目を閉じていた。だが、足に力をいれ過ぎて、ごつん、とヘッドボードに頭をぶつけてしまった時は、つい目を開けて二人して笑ってしまった。
 「ちゃんと、捕まえてて」とモイラが縋ってきて、それからは淡々とした作業が続く。
「私、お兄様も好きなのよ」
そのうち、彼女が言った。
「でも、…ユークリッドも好き。
でも、その…『好き』って、お兄様とは、ちょっと…違うみたいなの」
時々、融け残った雪を枝が跳ね上げる音が、波のように聞こえる。部屋は虚空に浮かんだように、寝台の中で身じろぎする音だけがはっきり聞こえる。
 そろそろ、ロウソクが消えるのか、少しだけ明かりが強くなった。モイラがうっすらと瞳を開き、ほんの一瞬だけ、眉根を寄せた。喜怒哀楽の、いずれの表情もその顔にはなく、数えきれない程の接吻で紅がはがれたりずれたりして、それでもかえって地の方が紅いような、そんな唇を淡く開いた。
「あ」
その声に誘われて、寝台の軋みはやや高くなる。ユークリッドは、モイラが、この音の支配下に有るのが、まだ、半ば信じられなかった。だが現実として、寝台のきしみと、モイラの細い声は、文字どおり、打てば響くように関わっている。
「なに、かしら、ドキドキ…する」
恐い。意外な言葉があって、モイラはユークリッドの肩にすがった。どういう理屈なのか、自分にはとんと見当もつかないが、男の動きとこの不思議な感覚は気味が悪い程に繋がっているような気がしてならないのだ。「遊び」と違って、この気持ちは自分で制御できない。その先がわからないのだ。
「こわい、止まらない、止まら、ない、ああ!」
ユークリッドは僅かに体を離して、モイラの顔を見た。モイラは小さく開けた唇から、短く浅い呼吸をくり返す。半眼は潤んでいる。頬から胸元にかけて、…あの花のような…桜色が広がっている。呼吸に合わせて、胸のまろみがもうすこし触っていてもらいたいように震えている。
 重みが去って、モイラが目を開こうとする。
「ユークリッド、どこにいるの?」
「ご心配なく、王女、私はここに」
差し伸べられてくる手を取りながら、言葉に答えながら、きし、と寝台が音を立てて、モイラがまた声をあげた。
「あ、あは」
その声がさらに高かった。「んん」と喉を閉じ、指をかむ。「大きい声が出そうになったらそうしなさい」と、ナヴィユが教えてくれた通りだ。ふたたび、前面どうしを密着させて、モイラは、髪の短く整えられたユークリッドの後頭と肩とを抱き締めた。ユークリッドは自分の今すべき事にいよいよ没頭していく。持っていかれそうなのはどっちも同じなのだ。…ただ無性に、モイラを「最後」まで眺め尽くしてから気を失いたかった。できることなら。
 一つの場所を共有して、そこから身体中に溢れてくる五つめの感情が、モイラを苛む。波のように襲って来て、去る度に、その感情が慕わしくなる。信じられない筋力で、モイラの背がそる。体に似合わず豊かな乳房が大儀そうに揺れる。
「!」
「!」
 ユークリッドは奥歯を思いきり噛んだ。
 モイラの足指がぎゅっとシーツを捕らえた。
 ロウソクの火が、消えた。

 クラウンは、
「とかくロマンスとは、凹なるものに凸なるものを合わせるまでの手練手管、真っ最中を懇切丁寧に歌い上げればこれほどに滑稽なこともまたなく、ですがそれを滑稽と切ってしまえばこれほど味のないことも然り、詰まるところ草木も眠る刻限のことは二人だけの知ることと、夢の翼の羽ばたきはそれとして後は翌朝の珈琲の香りを歌い上げることが吟遊詩人としての礼儀というものでございます」
とわかるようなわからないようなことを言っているが、さすれば、自分は、その滑稽の名残りを見ているのだ。
 部屋の主がつくねんと寝台の縁に腰をかける、その向こう側に見なれぬ物体が転がっているだけで、それほどいつもの朝と変わった光景ではない。モイラは夜の衣装のほんの前をかき合わせただけで、換気のために開けた窓から入ってくる冷たい空気で桜色に上気した肌が透けて見えるようだ。
 ナヴィユは、モイラの返事がないので部屋の前で心配そうな顔をしている、朝の身支度を用意して来た侍女を一度、追い返してから、すぐと部屋の中に滑り込む。モイラは先に述べたような状態で、ナヴィユを見るなり、いつになく高揚した雰囲気で、
「ナヴィユ、こういうこと知ってた?」
と、朝の話題にしては少々毒気の強い話をしてくれる。もとより、ナヴィユも大体どんな状況だったのかは把握しているのだが。それでも、
「姫様、そういうことは心意気のよろしくない女のすることですよ」
と言って、やっとモイラは黙った。それでも夜の間の記憶を反芻しているのか、顔を輝かせて微笑んでいるモイラに、ナヴィユは返す言葉が見つからない。一体どうやって姫様をここまで御満悦にしたものだか、その向こう側のユークリッドは、手足を縮こめてまだ眠っている。少し笑みのさした、かすれた紅も残った彼の顔は、これまでにたててきた数々の武勇伝などまるで似つかわしくない、まだまだ天使のようだ。だだをこねたあげく何かいいものを手に入れたときの子供のような顔とも見えた。
 とはいえ、この男も、そろそろたたき起こす必要があるはずだ。フィアナの有象無象は、団長たるこの男がいないと扉の開け方一つテンで駄目なのだ。


次に