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じゅうよん・本当のことは枕だけが知っている

 「王女が御不例?」
翌日、一両日の間のフィアナの団長代理ベンヤミーノ・ブラン・デア・モーナにそういう事を聞かされて、ユークリッドは思わずがば、と起き上がろうとした。
「あぐ」
「団長、慌てると頭に来ますよ」
「もう来てる。
 だいたい、なにか不行届きでもあったんじゃないのか? 雪だらけのまま放っておいたとか」
「そんなそんな」
ベンヤミーノ団長代理はめっそうもない、というそぶりをした。
「こう申し上げるのもなんですが、団長の事が気掛かりだったんでしょうねぇ、大変大人しくて、雪の降っている中をお一人で考え事をしていらしてる風だったり、とにかく我々は大助かりと言ったところでした」
「なおさらだ、外にお出でだったらどうして中に入れて差し上げない!
 風邪だったらどうする、フィアナの名前で見舞って来い!」
「り、了解」

 モイラの部屋では、頭目以下侍女達が文字通り右往左往していた。「あなたはすこしがさつでなにをするか分からないからそこにおいでなさい」と言われたナヴィユだけが、話し相手として枕元にいた。モイラはなにとはない人事不省に襲われて、けだるそうに横になっている。
「お熱があるわけでもないのに」
と頭目は首をかしげている。指を折りもして、毎月のつきものにつきものの体調変化でもないと、また首をかしげる。ナヴィユはそういう頭目が、モイラの寝室入口の端から端に現れ消えてゆくのを黙ってながめている。モイラはずっと寝台の天蓋を眺め、大きなため息をつく。
「いかがしました?」
ナヴィユが顔を近付ける。
「うん」
つぶやくように、モイラが答える。
「…ユークリッド、大丈夫かしら」
「その事をお考えでしたか」
「死んじゃったりしないわよね?」
「生きる時は生きる、死ぬ時は死ぬ、そういうもんです。彼はいろいろ悪運も強いですから、そうお気になさる事はありませんよ」
「あの人のこと考えていたら、眠れなくなっちゃった」
「さいですか」
ナヴィユはいいながら、居間と寝室を隔てる扉を閉めた。
「きっと、今日、調子が悪いと言うのも、寝不足でしょう。半日も眠ればなおりますよ」
「そうならいいけれど」
モイラのその答えようには、その解決方法が、はたして自分に有効か、それをいぶかしむ味がないではなかった。ナヴィユは振り返って、嫣然と、濃い緑の瞳を細めた。
「オルトねえ様は、私があのひとの薬よって、言ったの。
 たぶん、私、ユークリッドに元気をあげたから、こんなに元気じゃないのね。
 お兄様がお体を壊した時も、私ずっとそばにいてさしあげて、風邪をひいたりしたもの。
 私があげた元気であの人の調子が治るのなら、お兄様の時みたいにずっと側にいてあげてもいいなっておもったんだけど…
 でも…そういうこと考えていたら、身体に力が入らなくなっちゃって…」
「ええ」
「変にあついの」
「ええ」
「お腹のものすごい奥がだるくなって」
「ええ」
ナヴィユは、モイラの話を、笑みを絶やさずに、本当に楽しそうに聞いている。そして、ほんの短い時間のくすくす笑いの後、意外な事を言った。
「姫様、それは病気でも何でもないですよ」
「え?」
モイラは肘で支えるように、身をねじり起こした。
「じゃ、何?」
「それは」
ナヴィユはすこし言い淀んだ。やっぱり、自分達以外の、特に侍女頭目のような人物がいると、この手の話題は頭ごなしに遮断される事はうけあいだ。
 ただ、この姫様の変化は見過ごしてはいけない。彼女に「性欲」の発生した事、これも何かの進歩の兆しではないだろうか。この気持ちは大事にしていかないと、そう遠くない明日、モイラが立ち直った時に、歪みになって残るかも知れない。
 そういうもろもろの思惑を込めて、モイラにそっと耳打ちした。
「それはおそらく、姫様が団長をお気に召したからでしょう。
 ともかく…今夜、お部屋に、侍女長様も近付けない程きつくお人払いをかけていただければ、そのお気持ちをどうなさればいいのか教えて差し上げます」
「どうしてそうしなくちゃならないの?」
「どうしてもです。で、わたしが教えた事は、誰にも言ってはいけません」
「どうして?」
「どうしてもです。その後なら、そのわけは自然と分かります」
ナヴィユは、自分のからだに原因不明の病気でも何でもない奇病の発生して、少しく不安そうなモイラを宥めるように笑んで、今はまず彼女を眠らせた。

 そして夜半過ぎ、ふたたびナヴィユが参上すると、モイラはまさに気息奄々と、ただ明かりだけは絶やさずに起きていた。細い身体の奥から隅々に溢れ出したのだろう微熱とだるさに声もない。
 それでも、一体なにを教えてくれるのかと、瞳の光だけは失わないモイラに、ナヴィユが手取り教えた事と言えば…

 「なにかいいことでもありまして?」
翌朝、モイラが機嫌よさそうに身支度されているのを見て、侍女頭目は訪ねた。
「何でもないわよ。元気になれたのが嬉しいだけよ」
モイラはさらりと言って、侍女達もそれ以上問うつもりもないらしい。この姫様が、侍女頭目が聞けば卒倒するような「禁じられた?遊び」を覚えたとは、まさか知るまい。彼女が、入り口を背に立っているナヴィユにウィンクしたが、誰も事情を知っていないのだから見つけるものもない。

 閑話休題。
 モイラのそういう進歩などつゆ知らず、ユークリッドが職務に復帰して来た時、団長代理ベンヤミーノがこんな事を言った。
「どうもおかしな動きがあるんです」
「おかしな動き?」
「兵舎の廊下を歩いていたらですね、王女をパラシオンに戻そうとか、そういう事が聞こえまして」
「あん?」
「エルンスト様のところに、パラシオンからお手紙が来まして」
 それはそれで変わったことではない。現在のパラシオンは、留守を預けられた家臣達と、革命分子首魁ら民衆の代表が会議の場を持つ事によって国の運営がなされている。とはいえ、モイラのような王・貴族の存在を否定しているわけではなく、他の小王国で行われていた彼らの独裁はふたたび許してはいけないという姿勢なのである。この体制に、欠点がないとは言わない。ただ、現在の所は、大きな確執もなく来ている。ただひとつ、アレックスの望んでいた平和で安定した情勢を保つことが、彼らの望みともなって彼らをつなげているのである。
 そういうアレックス至上主義に陥っていたパラシオン、ひいてはオーガスタにおいて、モイラは、ディアドリーにあっても、パラシオン国民と、他の小王国の中下層民にとっては、アレックスの遺志を継ぎうるおそらく唯一の人物と目されていた。モイラの現在の細かい状況は知らされていない。ただ、過労によって衰弱したのを、ゆっくり時間をかけて治療するためと知らしめてある。そのための費用はブランデル(最も正確にはエルンストのポケットマネー)から出費されているので、王女が長逗留になったところで、不平はない。
 ただ、いつかナヴィユの言っていたように、モイラがパラシオンに帰還することは、革命分子がふたたび旗揚げするための大義名分としては不可欠のことであった。彼女をディアドリーに移す事をエルンストが提案した時、家臣からは反対の声はなかったが、革命分子の中からには、存在だけでも十分に意義があるのだから、なんとかパラシオンで治療を続けられないだろうかと、食い下がって来たものも少なくなかった。そういう急進派と、アレックスにもっとも頻繁に接触できていた穏健派との間には、少しく溝が出来つつあったのを、王太子としてのエルンストも、憂慮していたのである。
 参上して、細かい事情の説明をユークリッドに求められたエルンストは、ざっとそういう事情を説明した後で、
「向こう暮しも長かったからな、そういう考えを持つものも出る事は出るだろう。だが、人の思想は制限できない。制限した挙げ句が今回の事だ。
 モイラの状態がまだ十分ではないことをよくよく説明して、まだ時期の至ってない事を納得させることしか、今の俺達にはできない」
「オーガスタから帰って来た事で、自らの存在の必要性というものに目覚めた者達が多いのです。アレックス王の遺志の片鱗たりとも、間近に触れたと言う自負が、彼らにはあると思うのです」
「お前はどう思う」
「私ですか?」
「そうだ。
 オーガスタの王制だとか、合議制だとか、そういう大義名分なんていっさい入ってない、男としてモイラを託されたお前は、この動きをどう考える」
 ユークリッドははた、と考えた。
「殿下のおっしゃるように、私には、団員の物の考えを制限する権限はありません。
 王女を本当に向こうが望んでいるというのなら、王女にはもう一度向こうにお戻りいただくということも仕方がないのではないのでしょうか」
「それでいいのか?」
「は?」
「言ってみりゃ、おまえはモイラの保護者だ。本当なら、もう俺に頭を下げる事もなく、ここ(とエルンストは自分の執務室に当てられている現在の部屋を指した)で差向いで酒のんでいてもまったく問題のない身分なんだ。
 アレックスがあの時、わざわざ、お前を呼び上げた理由がわかってないみたいだな」
「それとこれにどういう関係が?」
「もうすこしよく考えろ。すくなくとも、ここディアドリーでは、お前の胸一つでモイラの去就が決まる。お前はそうは思っていないだろうが、そうなんだ」
おかげでこの二三日、どんなに苦労した事か。エルンストは腕を組んで唸るように言った。
「俺が、ここの侍女達とフィアナの面々との交際を禁止したのは、モイラの一番近いあたりでそういう誘惑が発生するのを抑えるためなんだ。オルトはどう言ったかしらんが、お前たちにおあづけくわせて楽しむためとか、そんなチンケな理由からじゃない。『つまみ食い』している場合じゃないってな。
 もっとも、男と女の間の事だから、隠れてどうこうされては察知できないが」
「それでは、私の方から、団員に釘を刺しておきましょうか」
「いまはそれぐらいしかできる事はないだろうな。ナヴィユにも気をつけてくれるよう、言っておいてくれ。
 今は対策を練る時だ。モイラをパラシオンに連れ戻すと言っても、どうせ雪が融けるまではなにもできやしないんだから」
「左様ですね、わかりました」
 ユークリッドは退室し、帰る足で兵舎に戻り、団員全員を召集して、モイラをパラシオンに返す事は時期尚早であることを説明した。
「俺達は所詮外様だから、パラシオンの事情に深入りする事はできない。横から、ブランデルがパラシオンを私物化しようとしているとの横やりが入ることが、今一番恐ろしい事だ。そして、完全に小王国同士の足並みが揃わないところで、侵略の食指を動かす他国によって、オーガスタをふたたび戦場にしないことが、ブランデルに託された今の重要な仕事だ」
 一部はなにを今さら、という顔をしていたが、もう一部は、ユークリッドの言い分に、明らかに不満の顔をしていた。もちろん、それを彼は知っていたわけではあるが、団長代理に、その面々に注意しておくように言った。はじめは両手で足りるだけの人数が、国からその存在を認められて以来人数も増えた「王太子特命隊長」として、もはや団員一人一人と膝突き合わせることも難しくなったのが、彼にはすこしだけ不満だった。
 「やっぱりね、そうきたか」
ナヴィユも、ユークリッドから説明を受けると、ひとつ頷いて言った。
「わかった。侍女達の方はあたしに任せて」
「…そうしてくれると助かる」
「当たり前だろ? あんたは団長、あたしは団員。まして、侍女逹にも近いのがあたし一人だけじゃ、頼られるのも覚悟だよ」
彼女ははは、と短く笑って、「そうだ」と改まった。
「姫様の御病気はもういいよ」
「それは良かった」
「いつぞやか、あんたに『元気』を吸い取られて少し参ってただけなんだけどね、例によって女達が大騒ぎしたのさ」
もうそろそろ、王女のお召しがある頃だよ、と言われて、ユークリッドは「そうだな」と襟を合わせた。本人にはわかっているまいが、その様子にだんだんと、いそいそとした雰囲気が混じって来ているのを、ナヴィユは少し気をつかせてあげようかとも考えたが、この場では言わぬが花かと、止める事にした。

 かつて、ナヴィユが言った事がある。「魚心あれば水心」。どちらが魚で、どちらが水だか、それはよくはわからない。魚は水がなくてはいけないが、水は特に魚がいなくてもいけなくはない。
 某日。
 雪の掃除された中庭に、モイラと、侍女達、フィアナの面々の姿があった。つれづれに耐えきれず、モイラが召集をかけたのだ。する事と言えばもちろん、モイラお得意の隠れ鬼である。侍女頭目は、「そんなお年でもないでしょうに」とぼやきながら、「またお風邪でも召したらいかがなさいます」と、主人の扱いに困り果てている。
 鬼が決められ、子が散らばってゆく。
「百数えてね! ゆっくりよ!」
とモイラの声がした。ユークリッドも駆け出そうとしたが、一足違いで、めぼしい隠れ場所は全て先をこされてしまった。決まりとしては、中庭より別の場所に入ってはいけない事になっており、見つかったら必ず鬼になるのである。
 あそこには誰が、誰が、と右往左往しながら、まさか自分が率先して違反するわけにも行くまい、と考えていると、
「ユークリッド!」
と声がする。
「王女?」
モイラは中に続く回廊の入り口当たりで、手招いている。
「部屋の中は駄目だとおっしゃっていたのは王女ではありませんか」
鬼に聞かれないように小さく言っても、モイラは「うふふ」と笑い、
「だって、それじゃすぐ見つかっちゃうじゃない」
と言って、手を引きながらそばの部屋の中に入ってしまう。
「あああの」
「ダメよ、声出しちゃ。見つかっちゃうから」
目を白黒させているユークリッドを見ているのかいないのか、モイラは早くも閉じた扉をうかがいながら、鬼に見つけられるまでのささやかなスリルを楽しんでいる。中庭に面した窓から鬼の姿がちらりと見えて、ユークリッドも反射的に身をすくめる。確かに、物陰と言う物陰に注意しながら歩き回るのだから、ましてやこういういかさまはにわかには気付かれまい。モイラが床の絨毯に座り込んでまた手招きをするので、ユークリッドも座った。
「王女、本当によろしいのですか?」
「だってあなた困っていたもの。大丈夫よ。一緒に怒られてあげる」
自分から誘っておいて一緒に怒られてあげるも何もないが、モイラなりに心配してくれたのだろう。
「ありがとうございます」
ここで説教まがいの事をして機嫌を損ねてもらいたくなかったので、彼はそう答えておく事にした。心の内の一割ぐらいは、こう言う状況をほくそ笑みもしたかも知れない。彼が気がついていれば。
 それにしても、誰も使わず、今日のような雪間の太陽もなかなかささない部屋は寒かった。息が白い。
「寒かったわね」
モイラがふと言った。外では子がどんどんと見つかって、にぎわしくなってくる。鬼がモイラではなかったので、みんな本気を出したようだ。それでも全員は見つかっていないらしい。首をのび上げて外をそううかがうユークリッドの手が、暖かくなった。
「冷たーい」
モイラが細い嬌声をあげる。彼の手はひたりとモイラの首筋に当てられている。
「でもね、手の冷たい人は心が暖かいんですってよ。ナヴィユが言ってたわ」
しっくりと、自分の体温を伝えながら、モイラが少し顔を上げて、ユークリッドを見た。
「ユークリッドは心が暖かい人なのね」
言葉に合わせて、濡れたような唇が、あるいは扇情的に、うごめく。彼はしかるべく、それに吸い寄せられた。自制するとは、その一瞬、全く考えもつかなかった。モイラは大人しく、唇を吸われていた。そればかりか、目を閉じ、肩に手をからめ、背中を床に預ける。勢い、ユークリッドはそれにかぶさる形になり、呼吸のために離れる他は、磁石のようにと言うべきか、紅い唇の上と下とを交互に責めた。羞恥心や、恐れ多さなどというものは、不思議に起こらなかった。今まで、どう言葉にしようかと思いあぐねていた、融けた金属のように自分の中に流れていた思いが、唇伝いにモイラに流れ込んでいくように感じた。
 モイラは、背中に一瞬何か走ったような気がして、この頃取り寄せてもらった小説にあるような事になってしまったな、と漠然と考え、そして、「一体これで何の魔法がとけるのだろう」と真面目にそう思っていた。小説のまねをして、唇の離れた隙に「好き」と囁いて、彼の目を見つめてみた。直後ふたたび襲って来た接吻に、「遊びたくなる」熱いけだるさが身体にたまっていくのがわかる。かぶさる影の重さが不思議に心地よい。

 その静けさをやぶったのが、外のざわめきだった。
「団長がずるしたぞ!」
と言う声が近付いてくるのに、モイラが敏感に反応して、部屋を飛び出した。
「姫様?」
「ねえねえ、私一番?」
「駄目です。部屋の中はなしってお決めになったのは姫様でしょう」
団長がそそのかしたんですか? 団員に睨まれて、おくれて出て来たユークリッドは、頭を掻いた。彼の仏頂面は今こそ役に立つ。
「いや、忘れてた」
「団長が次鬼ですよ」
「仕方ない」
中庭に戻って、数を数えようと、壁に向かおうとしたユークリッドと、ナヴィユがすれ違った。彼女は一瞬彼の顔を見た。それから嫣然と笑んで、
「紅は取っておきな、今のうちに」
と言った。
「さあ、百数えようね、団長」

 水面下の動きはあったが、モイラが知り得る限りの表は全く安穏のうちに日々が過ぎてゆく。
 ナヴィユは、先日のモイラの「病気」が、確実に「進歩」であると、だれにも言わないが悟っていた。
 彼女がよくよく言い含めたのが効いたのか、モイラは自分の「独り遊び」のことは、ナヴィユ本人にも、余り話そうとしない。何もなかったわけがない(とナヴィユは鋭い邪推をしていた)隠れ鬼の一件も、自分の胸におさめるつもりのようだ。侍女頭目が、侍女が部屋の中に宿直するのをこの頃いやがると愚痴をこぼしていたが、
「それでいいのですよ」
とナヴィユは言った。
「さもなければ、自分で自分を安売りしているようなものですからね」
モイラは、その台詞を完全には理解しきれなかったらしい。少し眉をひそめ、首をかしげた。
「お兄様は、人間に値段をつけて売るような事は、絶対しちゃいけないっておっしゃったわ」
「つまり、あまり隠し事が無さ過ぎると言う事は、例えば、姫様本人が、巷の浮かれ女のように、自分の裸の似せ絵を作らせて配るような事です」
「そんなことしたらお兄様も恥ずかしいわ」
モイラがつい勢い良くテーブルに手をついた時、オルトがやって来た。
「ふたりして何のお話?」
そして、二人の他に誰もいないのに、怪訝そうな顔をして左右を見回した。
「誰もいないの?」
「私が誰もこないでって言ったの」
モイラが言う。
「どうして?」
「ナヴィユが、『独り遊び』の話をする時にはそうしなさい、って言うから」
「え?」
オルトがナヴィユに何か言うように視線で言うと、ナヴィユはさして大層な事でも無いと言いたげに、茶を啜った。
「そもそも侍女長は少し勘違いをお持ちのようです。四六時中必ず誰か伺候する、そういうお年でもないでしょう。それに殿下から、パラシオン急進派に迎合した連中のお話も、お聞き及びだと思います」
「確かに、それは聞いているし、一人でいるのも必要な事だけど、『独り遊び』って…」
そうオルトが眉をひそめたのを、ナヴィユが真顔で混ぜ返す。
「妃殿下には、当座お入り用の無いことでございますね」
「そうじゃなくて、ナヴィユ、もうすこしわかるように説明してちょうだいよ」
「さようですか」
ナヴィユは、モイラにそれを教授するまでの事情を説明した。オルトは案の定変な顔をする。
「…モイラの性欲?」
「手っ取り早い話、姫様は以前一段抜かしで登って来た階段を、もう一度、今度はアレックス王のいない環境で、一段一段踏みしめて登り直している途中なのでございますよ」
モイラは、オルトが持ってきたロマンス小説を、時々難解な表現にぶち当たるのだろう、しかめ面を見せながらためつすがめつしていたが、やがてそれにも飽きたらしく、
「オルトねえ様、これ返す」
と彼女の前にほうり出してどこかに駈けていった。おそらくフィアナの面々を捕まえて遊び相手をさせるつもりだろう。

 モイラの後ろ姿の消えるのを見届けてから、オルトは肩を竦めた。
「騙されてるような話ね」
「おそらく、一度めは、アレックス王の存在が、余りに大きくて、自覚する暇が無かったのでしょう。逆に言えば、姫様にそれを悟らせなかった王のお心づもりがかえって私には恐ろしゅうございます」
「それって、アレックス様が…?」
オルトが一瞬息を飲んだ。アレックスの愛情が一般的な倫理から外れた場所にあるとは、考えても見なかった。いや逆に、親しくしていたからこそ、彼の巧言令色に丸め込まれてしまっていたのか。ナヴィユとアレックスに直接の面識はない。だからこそ、それを見抜けたのか?
「公になれば、御本人の人格、そして王として存続できるかという問題にまでなった事でしょう。王は、ほんとうにお上手に、姫様への想いをお隠しになりながら逝ってしまわれました。
 御政道に懸命でいらっしゃった王のお姿は、ともすれば道を踏み外しになりかねなかった御自身を精一杯になだめすかしたお姿ではなかったのでしょうか」
「それとあの子のそれと、今一つ繋がらないんだけど」
オルトの当惑した顔に、ナヴィユは眉を上げて言葉をついだ。
「王にとっては『たまたま実の妹』、そういうことです。かえってそういう考えを少しでも姫様に気付かせたくなく装って、何も教えられることがなかったため、あるいは御本の中で営まれていることは、思いあう二人の行為であるならば、姫様と兄上様の間にもあってもいいのではないかと、姫様は勘違いされていた向きもあるようです。
 ともあれ、姫様の一度めの『性欲』は、アレックス王の御受難に関わる一連のできごともあり、感じることもないうちに、姫様の心はそれ以前に戻されてしまいました。
 問題は、もう一度、同じ段階にまで登って来た時、いや応もなく感じてくる性欲をどう処理するかなんです。兄上のように、民草へ還元なさるといっても、それは今はまだ無理でしょう。結局、お一人でどうにかなさることを教えて差し上げるだけしか出来ませんでした」
それ以上はさすがに、姫様の精神健康上よろしくないと思いましたので。ナヴィユはそう締めてもう一度茶を啜った。オルトはナヴィユの言葉に激しい衝撃を受けて、しばらく何も言えなくなってしまった。
「思うのですが」
またナヴィユが言った。
「以外とこういう事が、王女が立ち直られる原動力になるんじゃないでしょうか」
「そういうものかしら」
やっと声が出る。
「アレックス王が、団長に姫様をお託しになられたのも、一番奥底ではおそらくそういうことです。
 モイラ姫を、パラシオン王妹モイラ・ルシア・パラシアにするのは、御自分でない第三の男でなければならない」
「第三の男ねぇ」
それがユークリッド。オルトは納得したのだかしていないのだか、そんな声で呟いた。
「そこの所まだ今一つ団長は自覚されてないらしくてね」
「こっちでお膳立てして、踊らされたのがバレたら、どんな顔するでしょうね。兄様みたいに、結婚には幻想的にも見えるし」
「そういうところに限ってカンが鋭い」
二人ははた、と顔を見合い、そして笑ってしまった。だがすぐナヴィユは顔を戻す。
「ですが、そういうこちらの心配はすでに杞憂です」
「え?」
「むしろ、私達がこれから気にすべきなのは、いつ、姫様が団長と夜明けの珈琲を召し上がるかというところでしょうか」
ナヴィユのおどけた固い物言いにごまかされて、オルトはまた眉をしかめた。
「え?」
「魚心あれば水心、そういう事です。あるいは、私達はそれを強制する立場にはないと思いますよ。現に、時間が、二人をそこまで近付けて来たのですから」
「私達には見守る事しかできないのね」
「御意」
二人がそう納得したところで、エルンストがやってくる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、いきなりいなくなるなよ」
「寂しかった?」
「ここで言わせるのか?
 それより、俺をカヤの外にしておいて、二人してまたぞろ何の悪戯の相談だ?」
「悪戯じゃないわよ」
「じゃあ俺にも一口乗らせろ」
エルンストは、今までモイラが座っていた椅子を引き寄せ、背もたれを抱えるように座る。ナヴィユは「結局お二人ともかき回すのがお好きな人たちだ」という顔をした。そしてモイラの心は子供でも、体はこれ以上はない程完璧に成熟しつつあると言うことを、当たり障りない表現で説明した。
「女性の性欲をふしだらと片付けてはいけませんよ、とくに姫様にはきっと大切なことで、錠前と錠の関係のとっかかりかもしれませんから。
 そのココロは、とりあえずどの錠でもあける事は出来ます。別なものでこじ開ける事も出来ますが、紆余曲折を経て見つかる自分に最も合った錠がもっとも具合のいい事はいうまでもありません。物理的でなく精神的に。となると、いずれ魚心水心、団長の持っている錠でないと具合の悪いという事になります。姫様がそれとお心に決めておられるのならば」
比喩表現が余りにも現物を連想させたので、エルンストは飲みかけた茶を盛大に吹き出した。オルトが慌ててそれを拭う。
「露骨だなあ」
「恐れ入ります。ですが、アレックス王は、御自分が、姫様の運命の錠になれない、いえ、なってはいけない事をご存じだったからこそ、団長に後事をお託しになったのではないでしょうか。団長のパラシオン騎士叙勲に関する噂が本当ならば」
エルンストは、ナヴィユがけっこう大層な事をさらりと言ってしまったのを、聞き流してしまったのか、それとも知っていた上であえてそのへんを突っ込まなかったのか、新しく出されて来た茶をふたたび啜りながら、
「だが、その、二人がする事をして、本当にモイラのためになるのか?」
と言った。そして、それにたいするナヴィユの返答は、とうとうたらりとうたらりとやっておきながら、それほど楽観的でもなかった。
「そこはバクチですね。姫様のお眼鏡が違って、団長が運命の錠でないという可能性は全く否定できませんし。ただ、そういう能書きを抜きにしても、さしあたって、今の姫様には、なんらかの対策を講じないとならないということですよ。男のように簡単に、と言うわけにもいきませんし」
「凄い話になって来たな」
「一口乗らせろとおっしゃったのは殿下じゃありませんか」
「いや、やっぱり止めるよ。俺はこの話は聞かなかった事にしておこう。ここまで外野がうるさくて、ユークリッドの頼る瀬がなくなったら可哀相だからな」
茶を飲み干して、エルンストはもうたくさんだ、と言いたげに手を振った。

 そんな頃である。
 ディアドリーを抜けて、もっと北に行く予定だった吟遊詩人が、降り込められて半ば居候となっていた。限られた人間の間で世間の風聞にも疎くなっているところで、こう言う人間の存在は有り難い。
 もう一月近くこの城にいるが、だれも彼の素性はわからない。名前も、クラウンという芸名だけだ。
 どこで拾ってくるのか、あるいは作っているのか、二度として同じ物語がその口に登ることはない。
 モイラも彼をずいぶんと可愛がっていた。この名前はのちのちのために覚えておくべきであろう。


次に