![]()
|
漢津。 船がいくつも並び、民を乗せては渡し、戻る作業が続けられている。 港とはいえ要衝である。小さな城郭があり、維紫はその一番上にあがり、じっとそれを待っていた。ふと上を仰ぐと、「竜胆」の穂先が、月光に淡く光った。 さらに上を仰ぐと、満点の星。天帝の治める国だという。維紫は天文のことはよくわからない。しかし、夜にしか見えない国は、昼間起こっている戦など、きっと知ることもないのだろう。 少し視線を動かすと、維紫もよく知る星の並びが上がってきた。 「…北斗」 維紫は、決して夜の空気からではない。薄ら寒さを覚えた。この星のつかさどるところは、命の終焉。 「…北斗様」 維紫は手をあわせていた。 「どうかそちらに、あの方をお招きしないよう…」 それから維紫は意識的に北斗から視線をそらした。 そこに。 白くぼんやりとしたものが向かってくる。 「…!」 維紫は出す言葉をなくした。白馬が月光に際立ち、そして趙雲の鎧も、月光の白に際立って見えるのだ。 へた、と維紫はその場に腰を抜かす。ややあって、見張りに上がっていたほかの兵士が、趙雲の帰還を告げ、漢津はどよ、と沸いたのだ。 民の移動が最優先、将兵はその後と決められ、劉備は趙雲が探し出した一子に、 「そなた一人がために、私は忠義の臣を一人失うところであったぞ」 と憤慨したとかどうとか。 維紫は、とにかく、預かった「竜胆」を返そうと、部屋を暖め、じっと待った。 やがてくたびれた様子で入ってきた趙雲は、部屋に維紫しかいないことを確認すると、「竜胆」と一緒に、維紫の体を抱きすくめた。 「お前も、無事だったか」 「はい…お預かりしていた『竜胆』と一緒に、ご無事であること、願ってました」 最後のほうは言葉にならない。涙で顔がくしゃくしゃになってしまう維紫を、そのまま膝の上にして、趙雲は火の前に座る。 「任務を全うせぬことは、将にとって致命的な失態だ。混乱があったにせよ、お守りしていたお車がそのまま恐慌状態に飲み込まれ、姿を消したときには、私はそれだけの将かと思った」 趙雲は、その間にあったことをつぶさに話す。任務を全うした高揚感がそうさせているのかもしれない。維紫は黙ってそれを全部聞いた。 「漢津に向かいながら」 一息置いて、趙雲が続ける。 「なぜかお前の顔が浮かんだ。無事であればよし、さもなくば、と。 育てた将を失うということ以前に、行く先にお前がいないときは、私はどうなってしまうのか、この方寸はいかに壊れようかと」 「…維紫はここにいます」 「だから私の方寸は保たれた。気づかされた。私は、お前なしでは立てぬ」 趙雲は、維紫の結い髪の中に、唇をうずめるように言った。 「…雷姫と呼ばせて欲しい」 最初、維紫が 「字は雷姫といいます。父上がつけてくださいました」 と言ったとき、 趙雲はいささか拍子抜けした顔で、 「お前の父上はケレン味がきついか、よほどの…なんというか、変わり者だな」 と言った。 「そうでしょうか」 「そうでもないかも知れませんよ」 以前受けた傷を癒しに、諸葛亮と月英の家にいた頃だ。諸葛亮が 「雷はその勢いの轟き伝わる様をさし、意は電に通じます。 電は維紫の名と会い紫電となり、ひいては雷に通じる… 立身して名を轟かせたいと思い立った維紫に、ちょうどいい字ではないですか」 そういう。 「そして雷電は雲より生ず」 小さくいったのは二人には聞こえず、ただ月英だけが笑んだだけだった。 とにかく、そんなケレン味の利きすぎた字も、今は雰囲気を高める要素にしかならず。 雷姫、とぽつりぽつりその呼びかけが繰り返されて、言葉を返せない維紫は精一杯に、体を摺り寄せる。 どれだけたったろうか。呼びかけがなくなり、手の力が緩む。ぐらっと維紫の視界が真横になり、維紫は一瞬何が起こったのかわからなかった。 とにかく、今現在、彼女は趙雲の上に乗ってしまっている。 「すみません、すぐ降りま…」 といって、維紫の顔がほんやらと緩んだ。ほぼ一日を緊張の中で過ごして、今その糸が切れたのだ。 維紫は、脇にのけてあった外套をかけ、転がっている「竜胆」を立てかけた。 「どれだけ渡り終えたかしら」 維紫は外を見、そう呟いた。外のざわめきは静まりつつある。不意に戸が叩かれ、 「将兵、準備整い次第乗り込むようと、指示が出ております」 維紫は少し後ろを振り返った。今眠り始めた趙雲は、しばらくは起きなかろう。 「将軍は一番最後にと仰っておられました。最後の船になったら呼んでください」 兵士は 「は」 とうなずいて、次の部屋に同じことを伝えにいくようだった。 維紫の書簡が月英のところに届いたのは、長坂を経由して、漢津から、劉備に誼を通じている劉gのいる夏口に落ち着いて程なくのことだった。 「あら」 その文面にいぶかしい声を月英はあげる。漢津から出る最後の船に乗ってきた維紫は、くうくうと、子供のような顔をして趙雲の膝枕で眠っていたのに。 諸葛亮に維紫の書簡のことを話すと、 「奇遇ですね月英、私も趙雲殿から」 と書簡を手に取る。書き方こそ違え、その内容は、ほとんどかわらなった。 「媒酌ならまだわかるのですが、義兄妹ですか」 月英が言うと、諸葛亮は 「おや、月英は維紫の花嫁姿でも見たかったのですか」 と少々からかいをこめた声で笑った。そうではありませんが、と口をつぐむ月英に 「私も、維紫には言うべきことがあったのです。 二人誘われたならなお都合がいい。立会いとして臨もうではないですか、その結拝の場に」 維紫も、長坂の戦いで、主将である趙雲がいなくなった後の隊をよく指揮し動揺を抑え、また民を鼓舞し犠牲を少なくすることに功績を認められ、論功行賞の席で少し階級が上がり、軍議の席に出られるようになった。 将軍などと呼ばれるにはまだまだだが、その有能なところは諸将も認めるところである。 「私のカンに曇りはなかった、あなたに預けたことはやはり正解だったようですね」 諸葛亮がそう言うと、趙雲は 「私だけではなく、雷姫もほめていただきたい。今の彼女は、彼女自身がそうありたいと思い、努力した結果の姿」 そう言い、月英につれられて出てきた、おろしたての朝服の維紫を、少しまぶしそうに見た。 「維紫殿、やはりあなたは我らに瑞兆を与えるために、現れたのですね」 諸葛亮が言う。 「我らは今、天を見上げ、頭をもたげた龍。それが天を駆け極める昇龍となるか、それは我らの盛り立て次第」 「はい」 「わが殿は先んじて胆力並々ならぬ龍を得られ、さらにかたじけなくも惰眠をむさぼっていた龍にも目を覚ます機会をお授けくださった。 龍は、雲を駆り天をゆくもの。その雲があなたの名で瑞兆の色に染まることは、我らの行く先を天が嘉したまうていると、私はそう考えます」 「…はい」 自分の名の持つ意味に、疑問を持たなかった、何も知らない維紫ではない。紫雲。瑞兆の勢いに乗る龍を、維紫は見守れと、そういわれたのだと感じる。 「孔明様」 月英が諸葛亮の後ろで、小さく何かを促す。諸葛亮は 「面白くない話はここまでにしましょう」 と言い、すう、と二三歩さがった。 「雷姫」 「はい」 「先日の私の申し出を受けてくれてありがたく思う」 「これほどの信頼を寄せていただけて、私こそ、何とお礼申し上げていいか」 「お前に授けたいものがある」 趙雲は言って、何かをしっかりと、維紫の手に握らせる。 「…これは」 「『竜胆』だ」 維紫がきょとん、とする。 「将軍、ご自分はどうされるのです?」 「私のはここにある」 趙雲は自分の手にも、同じものを持っている。つまり、「竜胆」は二本になったのだ。 「この槍で、ともに戦場を駆けよう」 「…はい」 「趙子龍、この『竜胆』に誓う」 彼の竜胆の穂先が高く掲げられ、日に鋭く輝いた。 「この日のこの誓いにより、維雷姫をわが義妹とし、天の定め給うたそのときまで、ともにあらんことを」 お前もだ。促され、維紫も、真新しい「竜胆」の輝きを重ねる。 「維雷姫、この『竜胆』に誓います。 この日のこの誓いにより、趙子龍をわが義兄とし、天の定め給うたそのときまで、ともにあらんことを」 維紫、字雷姫。生没年未詳。 乱世に身を立てんと志し、趙雲の下で戦う道を選ぶと、戦場にて目覚しい活躍を見せ、趙雲の右腕と呼ばれるようになった。 武芸にたけ、戦場では磨きぬいた武技を振るうことを専らとして、その力は古今に例を見ないほどであった。 維紫は趙雲をよく支え、共に武にて戦場を切り開いた。趙雲も維紫に一目置き、ゆくゆくは名将になるだろうと周囲に漏らしていたという。 武の技を磨き、自軍の勝利に向かって全力で邁進した維紫は、武に生きる者として評された。 しかしその活躍も、世の動きと共に歴史に埋もれ、今その功績を語るものはない。 |
![]() |