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趙雲はまず、傷の具合を問うた。維紫が 「傷は残るかもしれませんが、ちゃんと治ります」 と答える。そして、一間おいて、 「なぜ助けを求めなかった?」 と尋ねられて、維紫はぼんやりと、答えにくい質問だ、と思った。しかし、彼には、言っておかねばならないと思った。 「助けを呼ぼうとして…一番最初に思い出したのが、将軍でした。…でも、私があそこで将軍に助けを求めたら、将軍のお名に、傷がつくと…」 「私の名前に傷がつくことを恐れて、お前は消えない傷をむざむざとつけさせたのか」 趙雲はそう中っ腹な声をあげた。 「練兵の後、いつもならすぐ飛び込んでくるはずのお前がなかなか来ないので、部屋に行っても見えず、諸葛亮殿の書架から兵法書でも読んでいるのかと思ったがそうでもなく、そのうち練兵場の方向で騒ぐ気配があったらあれだ」 わかっているのか、と彼は言う。 「お前はこの趙子龍が預かる未来の将だ。あんなところで己を壊し、去られては今までの苦労が…」 そこまで言って、趙雲の声に急に勢いがなくなる。 「…私も、止めに入るべきか迷っていた。そこに月英殿が来られて、代わりに止められた。 私は、お前の師として、何もしていない。…私も噂に惑わされた。 だが、これだけはわかってくれ」 趙雲が、維紫の手をとり、己が胸に当てさせた。 「お前が兵卒に辱められたと気がついたとき、私の方寸に、ヒビの入るような痛みを覚えた。それは確かだ。 何よりそれが来たのか、私にはわからない」 当てられた手に触れる胸は、本当に血が通った温かみがあった。ぼんやりと中空を見る維紫に注がれる視線にも、汚れたところは何もない。 「助けてあげられなんだ。すまない」 趙雲は、心底からの、きしんだような声をあげた。そのまま、維紫の上に倒れこんで、額同士がぶつかる。維紫は自由になる手で、半分かぶさるその背中を抱きしめようとした。 「お気持ちだけで十分です。しかられると思いました。私がおごって、油断して起きたことですから」 「お前は悪くない」 趙雲は紫維の背がうきあがるほどにすくいあげ、背中にある維紫の手に答える。 よほど頼るものがなかったら頼れ。維紫はその言葉を思い出していた。 「…何もできなくて、されるままにしかなれなくて、本当に怖かった…」 「思い出すな、考えるな。今は傷を治すことだけを考えろ」 そう言葉が返ってきた。抱きしめる手にいっそうの力が入って、それは維紫が「痛い」と声をあげるまで止まらなかった。 体を離して、すこし緩んだ衣のあわせを直す維紫は、今まで見てきた彼女とは、まるで違って見えた。頬を桃色に染めて、心なしか潤んだ目で 「できるだけ早く、将軍のもとに戻ります。待っていてください」 しかし張りのある言葉に、趙雲は少し複雑な何かを隠した、安堵の表情をしていた。 戻ってきた維紫は、 「お前は、もう一般の兵卒の修めるべき技術はすべて修めた」 と、のっけから趙雲に言われる。 「私の教え渡す技を、鏡に映したように己がものとするように」 「…はい」 維紫はそう答えた。視線がすべて自分に注がれているのがわかる。熱くなった頬は赤らんで見えるだろう。維紫は顔を伏せた。と、その体ががばりと抱き寄せられ、顔は半ば強引に上を向けられる。 「本当に戻ってきたな」 「はい、もどりました」 戦場以上の辱めを受けたこの城に。しかし、 「戦場でなくてよかったと思います。戦場であったら、私はこうして将軍のもとにもどれなかったのかもしれないのですから」 維紫はそう考えるように自分に強く言い聞かせてきたのだろう。小さくではあったがはっきりそう言った。 いっそう、槍の腕を上げるままに、維紫は趙雲の下で、新野という場所柄頻発する小競り合いに出ることを許され、首級をあげるなどと言う目だった功績すらないものの、教えられた槍の技を遺憾なく発揮した。 「趙雲が、首級を狙われないために、女に扮して戦っている」 などと言う噂さえ流れ、それを聞いた二人はお互いを見やった後、腹を抱えて笑ったものだった。 しかし、時の河は、時に容赦なく、乱れその流れを変える。 そしてその時の河の奔流は、今荊州を襲おうとしていた。 劉備に新野の土地を預けていた劉表の後継者争いは、他国に荊州そのものを奪取するスキを与えてしまう。あえてとどまり荊州を我が物にするか、それとも、いまだ雌伏に甘んじ機を見るか。新野に考える暇はなかった。 曹操の大群が、新野とは指呼の間ともいえる距離まで差し迫っている。新野を捨て南下する劉備軍に、曹操の支配を恐れた民が誰言わずともなく付き従い、それは行く先々で増えていった。 民を引き従えての歩みは遅々として進まない。折から秋も深まり、手綱を持つ手がかじかむ。 維紫は、横を進む車を見た。やさしそうな笑い声と、無邪気な声と、時々聞こえてくる。風が直接あたらないだけに、暖かいのだろう。 趙雲は、この南進に際し、劉備の妻子を守るという大任を任され、部隊を馬車の四方に展開させている。維紫も例外ではない。 後ろを振り向いた。いつ果てるとも知らない、人の群れが続いている。これが、ほとんど顔を見たこともない劉備の人徳なのだと、維紫は気づかされている。趙雲もこの徳に導かれたのだと、維紫もそう聞かされていた。 はあ、と、指に息を吹きかけながら、馬を進めていると、突然上のほうから何かがばっさりとかぶさってきた。 「!」 維紫が、何があったのかわからずの顔でいると 「お前の体は冷やしたら余計悪かろう」 趙雲が自分の外套を維紫にかぶせたのだった。 「ですが将軍」 「私のことは心配するな。これくらいのことでどうにかなるような体にはできていない」 彼の言葉が白い息になって、後ろへと流れてゆく。 「隊伍は乱さぬように」 趙雲は短くそれだけ言って、白馬の腹をけり馬車を先導する位置に戻った。 外套を返すにも返せず困っていると、 「心配されているのですから、受け取っておくべきですよ」 と、月英が横にいた。 「趙雲様は、新しいものを用意させます。いざと言うときにご自慢の槍が使えないではいけませんもの」 「はい…」 維紫は、振り向きもしない趙雲の背中を見る。今は何より、この人は、与えられた任務の完遂を考えているはずなのに、どこかで私を忘れていない。それが少し暖かく感じたとき、維紫の背中は、なにやらの気配にびくっとした。 振り返る。はるか後ろのほうが、ざわついている。 剣戟、悲鳴、乱れる足音。そのうち、しんがりかららしき伝令が駆け抜けてゆく。 「なにか…あったのでしょうか」 「おそらくは」 大変なことでなければいいのですが。月英が同じように後ろを振り向いた。 劉備軍の遅々たる南進を、曹操軍が捕らえるのは容易なことであった。 しんがりが小競り合いを始め、民に先を急ぐよう促す。促された民は、動かぬ前を急かし進めようとする。後ろでそんなことが起こったことを知らない前方の民は、後ろからの勢いにもまれ、たやすく恐慌状態に陥った。砂埃がもうもうと立ち上がる中、 「維紫!」 趙雲が維紫を呼ぶ。 「はい!」 「民のもとに急ぎ、可能な限りこの恐慌状態を落ち着けるんだ。 月英殿、維紫を補っていただきたい」 「心得ました」 乾いた空気に砂埃が舞い、息もろくにできず、視界は悪い。人に踏まれる悲鳴、荷車に轢かれる悲鳴、親が子を捜し、子が親を探す悲痛な叫び。音には耳をふさぐことができても、声から想像できる有様がはっきり見えていたら、維紫は馬を止め、その場に立ち竦んでしまったかもしれない。しかし、今そんなことを言ってどうなろうか、この荒れた民を静めるのが私の使命。 「皆さん、目的地は同じです、落ち着いて先を見てください!」 「しんがりが敵軍をけん制している間に、少しでも先に!」 他の将からも分けられてきた将校たちが民の中に立ち混じり、落ち着きを取り戻させようとするが、その言葉を聞く余裕もあればこそ。安堵できることといえば、民の足並みが少し早くなったことか。 それでも、恐慌状態の過ぎた後は、圧倒された人がるいるいと横たわり、均衡を崩した荷車が馬ごと倒れ。しんがりの気配が消えている。 「しんがりがいない…」 「維紫様、前を見ましょう」 「月英様」 そのとき、人の流れを逆流するように、ぬっぬっぬっと兵を従えて来る影が見えた。 「張…将軍」 維紫の呼びかけが聞こえたのか、張将軍…張飛は少しだけ歩みを遅くした。 「とんでもねぇ状態だ。兵もだいぶ逃げやがった。兄者ぁ、それでも民はきりすてられねぇとさ」 「…」 「お前ぇ、趙雲とこの娘だな?」 張飛が確認するように尋ね、維紫はそれにうなずく。 「騒ぎに巻き込まれて、姐さんと兄者の倅を見失ったとか言って、趙雲の奴は、今探しに行ったよ」 「え?」 「何、落ち合う場所はわかってるんだ。探し出せれば帰ってくらぁ。 ほら」 張飛は、維紫に何かを投げる。 「前のほうじゃ、口実を作って趙雲は逃げたとほざくやつがいる。奴は新野に来る少し前に兄者についてきた、言ってみりゃ新しいほうだからな。 だがな、逃げる算段考える奴が、お前ぇにと、名指しでこれを預けてゆくようなことはするめぇよ」 赤房の槍。天にあって威信とどろかす龍の、その恐れを知らぬ胆力にあやからんと、彼が「竜胆」と呼ぶ槍。得意の武器を残してまで、彼は自らの任務を全うするつもりなのだ。 「もう少しいきゃ、橋がある。橋を渡っちまえば、雲長の兄者が船集めて待ってる漢津まですぐだ。 さっさとわたっちまいな。曹操の手下が、すぐそこまで来てんだからよ」 張飛は再び兵を進め始めた。 「維紫様、張飛様の仰るとおりです。いきましょう」 月英が先を促す。 「…はい」 維紫は「竜胆」をしっかりと抱え、馬の足を速めた。 |
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