目次

  曲なればすなわちまったり  

「…うう、怖い顔ばっかり」
阿美は、本拠地にたむろする、青白い異形の兵達を見るとはなしに眺めていた。
「こいつらのおかげで、お兄ちゃんも太史将軍も、周都督に大殿までつかまっちゃって…」
そして、今まであったことを、阿美なりに振り返る。
『一族や仲間の絆って、信用できるようでいて、一番アテにならないものよね』
なんといったか、白面で眉のない気味悪い女は、集められた孫呉の将兵を一瞥して一言で一蹴し、孫堅と部将のいくたりかの身柄を質として、命惜しくば命を聞けという、高飛車な態度に出た。
「そういうの、孫策様がいっちばん嫌いなやり方なんだよね、わかってやってるんだ、あの化け物女」
青白い化け物の集団を見ることにも飽きた阿美が、きょろきょろとあたりを見回すと、少女とも見まがうような容貌の少年が、ひざの上の何かに見入っている。
「あ、蘭丸ちゃん発見」
と、その側による。
「あ」
蘭丸は、声をかけられたのが一瞬わからなかったような顔をして、阿美を振り仰いだ。
「あなたは、たしか…」
「何してるの?」
「書を読んでいました」
「しょ?」
と、阿美がのぞきこむ。しかし、阿美はそれを見るなり
「蘭丸ちゃん、こ、こ、これ…紙?」
わなないてそれを指した。
「書物といえば、紙でしょう」
蘭丸は、動転している阿美の態度のほうがおかしいらしい、少し眉をひそめた。
「だ、だって、紙…って、そんなにあるものじゃないでしょう?
お兄ちゃんの部屋にだって、紙の書物なんてほとんど…」
ちぐはぐなやり取りを、低い笑い声が近づきながら見やっていた。
「と、徳川殿」
蘭丸は飛び跳ねるようにひざをつき、阿美はぼーっ、と、その場に突っ立っている。
「…徳川殿ですよ、無礼です」
蘭丸が阿美を見咎めるように言うと、徳川殿…家康は
「蘭丸殿、おもてをあげられよ」
と、おおようにいって、阿美にも、「まあ、すわりなされ」と言う。家康は最後に、重心のいかにも下に安定した姿をどっかと木陰に下ろした。
「孫呉の将のお歴々は、われわれにとっては歴史の人物…少々、何かの食い違いがあってもしかるべき」
「は、はぁ」
「われわれの時代は、紙はもうちまたにあまねく受け入れられている。しかし、書いてあることは同じ。孫子の兵法など、周瑜殿もたしなまれてなかなか面白い話をしてまいった」
阿美にはそういう学が全くといっていいほどないから…呂蒙の蔵書など、阿美にとっては昼寝の枕ぐらいの用にしかならない…、面白い話、といわれても、どう面白いのか想像もつかなかった。
「家康さん」
「と、徳川殿を…」
阿美の呼び方があまりに気楽なので、蘭丸が目をつりあげかける。家康はそれもまあまあ、となだめるような手つきをし、
「何かな、姫御前」
といった。
「…孫後の人が歴史の中ってことは、家康さんたちは…蘭丸ちゃんも、あの、黒服のいるのかいないのかわからない人も、みんな、あたし達よりずーっとあとに生まれてるってこと…ですよね?」
「そうなるのう」
「…あたしたちがこれからどうなるか、家康さんにはわかってしまっているんですか?」
「…さあて」
家康はいい濁すような、そうでないような顔をした。
「この混沌の地に放り出されて、全くわからなくなってしまったよ」
「じゃあ、お兄ちゃんがいつ牢から出してもらえるかも、わからないんですね」
「おや、姫御前にも兄上がおありか」
「あ、本当は違うんです」
阿美がかくかくと事情を話すと、
「ほう、刮目の士・呂蒙殿の姪御であったか」
家康は嘆息の声をあげた。
「かつもく?」
「『士、分かれて三日会わざれば刮目して見よ』ですね」
「そうだ」
蘭丸は納得したようだが、阿美はなんとなくわからない。
「呂蒙殿は無学であったのを指摘されたのを機に人が変わったように書物を読まれ、ついには策を用いる知勇兼備の将になったと私は伺っています。才の備わったことを人にほめられ、呂蒙殿はそういって答えたと、私は聞いていますが」
「あのお兄ちゃんが?」
阿美は首をかしげた。確かに呂蒙は家に戻ることがあれば書斎をかねた自室でひねもす書物の中にもぐりこんでいるが、刮目までして見違えるような思いをしたことがない。
「ん、でも…」
そういえばお兄ちゃん、よろこんでたことがあったなぁ。阿美の中には、ある日のことが思い出されてきた。

孫呉の軍の中に、魯粛という人物がいる。周瑜の次はと誰かが問うことがあれば、まず名前が挙がるだろう、そういう人物だ。
その魯粛が、呂蒙の邸を訪れたことがあった。阿美は表向きの話にはあまり興味はなかったので、おとなしく奥にいて、最後の見送りにだけ顔を出した。
魯粛はこれまで見ないほどに相好を崩している。
「いや、頭の中身はいつまでも阿蒙かとおもっていたが、なかなか、賢いことを言うようになったな」
「いや、自分もいつまでもバカではいられませんからな」
呂蒙も、そのほめられ方はまんざら悪くはなさそうな様子があったが…
「そのことかな?」
阿美はそう思ったが、言わずにおいた。彼らが自分達の国を指してヒノモトと言う、そこではある種の「呂蒙伝説」みたいなものがあるのだろう。
それよりも。
「あー…おにいちゃん、いつになったら出してもらえるのかなぁ」
阿美はそうつぶやいた。蘭丸がそれを聞き逃さず、
「確か、オロチに反する勢を一度撃退するほどに一人開放、でしたね、家康殿」
とたずねると、家康は大きくうなずいた。
「孫策殿はよく耐えておられるよ。切れぬ血の絆の孫堅殿を、どこ知れぬよう隠され、その上で股肱の臣を獄され…」
そして、蘭丸が加わったその戦を勝った代償として、開放されたのは断金の友。今はあの二人がこの軍をひく文武の両輪となっている。
「今獄されているのは、たしか…呂蒙殿と、太史慈殿であったな」
「はい」
「…獄から出される順序が、孫策殿の中での序列ではないと、わしは思うがの」
「そうだといいんですけど」
「曲なればすなわち全し、という言葉がある。聞いたことはないかね、姫御前」
「あー…あたし、そんな、姫なんて呼ばれるほど、若くもかわいくもないですよぉ」
そういう阿美のらしくない謙遜を、さらりと家康は聞き流し、
「今の孫策殿、孫権殿はそういう時期なのだよ。
極限まで曲げられた弓のような」
そう言った。
「よく、わからないですけど、今はとにかく我慢しろってことですか」
阿美が確認のように言うと、家康は
「人生、重き荷を背負いて遠き道を行くが如し。何も何も、今は堪忍が肝要」
と言う。いよいよわからなくなった阿美に、
「おう、阿美、家康と話してたんかよ、探したぜ」
と元気のいい声がかかった。
「孫策様!?」
「これから、中の太史慈と呂蒙に会いに行くんだけどよ、お前も来るよな?」
「はい、行きます行きます」
阿美はすっくりと立って、すっかり通り過ぎてしまった孫策の後を追った。

「家康殿、曲なれば、とは、少し…」
と、蘭丸がいぶかしさを隠し切れない声で言った。曲なればすなわち全し、というのは、何かの圧力に曲げられていても、そのままなるようになっていれば身の安全は確保できる、つまり「長いものには巻かれろ」的意味である。
「弓は、何によって曲げられる?」
「…弦、ですか」
「極限まで弦が張っておれば弓は当然曲がるな。その弦と、番えられた矢は、弓が戻ろうとすればどうなろう」
家康がおおように言ったところで、蘭丸は「あ」と口をあけた。

 地下牢。
「阿美、どんなわがままを言ってここに来た」
と、格子の向こう側でも難しい顔をする呂蒙に、
「そんな顔するなよ呂蒙、俺がつれてきたんだ」
と孫策が言った。
「そ、そうでしたか。足手まといには…」
「なってねぇよ、安心しろ」
「本当か?」
見下ろされ、阿美は
「なってないよ。後ろで、怪我のこととか、補給のこととかやってるの」
「そうか」
呂蒙は一応は安心しているようだった。
「お兄ちゃん、いつ出られそう?」
「それは、わからん。次の指示があり、その戦に勝たなくてはならんからな」
「不本意だが、無傷で開放させられるんだ。親父はどこにいるかわかんねぇが…迎えに行くなら、大人数のほうがいいだろ!」
はっは、と孫策は短く笑った。と、
「兄上、無闇に牢に出入りされて、危ぶまれてはいかがされる」
と、妙に甲高い声がする。
「権か… 何だよ、『お達し』か?」
「妲己様がすでにお待ちです、私はあの女の機嫌をとるのは得意ではありません」
「俺だってごめんだ」
しかし、孫堅のいない今、棟梁として拝命を受けなければいけないのは孫策である。
「ごめんなふたりとも、ちっと仕事すませたら、またすぐ来るからよ」
「なりません兄上!」
そういう声が遠ざかっていく。
「…カラ元気も元気というが…孫策殿はああして、己が明るく振舞うことで軍の士気を維持しているのだ」
太史慈が、二人の消えた後を見ていった。
「呂蒙殿、申し訳ない。次の出陣で勝てばと言う話をしてたのだが…、思っていたより早かった」
「さもありなん。太史慈殿の武勇が戻れば、いっそうにその士気も高くなろう」
「…」
「次」は太史慈だったのか。阿美は無言で太史慈をにらむでもなく見やっている。
「阿美殿、そんな顔をされても」
と、太史慈は少しく弱った声をあげた。
「孫策殿のご決断なのだ、受け入れろ」
「…はぁーい」
呂蒙に軽く一喝され、阿美はあきらめたような声を出す。やがて、牢番が
「おい女、いつまでそこにはりついてやがる、戻れ」
と声高に言った。
「いや」
阿美は牢番にむかっていーっと歯をむき出した。
「こら阿美、言うとおりだ。戻らんか」
呂蒙もそれとなく戻ることを促す。すると、
「まあまあ、大目に見てやってほしい」
と、太史慈が牢番の相手をし始めた。見逃してくれれば出たときに老酒の一瓶でも、などと聞こえる。
「…しょうのないやつだ、太史慈殿の手まで煩わせるとは」
「あのねお兄ちゃん」
「何だ」
「お兄ちゃんが出てきたら、あたし、お兄ちゃんと一緒に戦うから」
「…話に聞けば、オロチに歯向かう孫呉の将とも戦ったそうじゃないか」
「うん。甘将軍とか陸将軍とか…」
呂蒙は難しい顔をした。
「馴染みの深い将軍達と対峙するのだぞ。つらくないのか」
「あたし、それよりも、孫策様がこき使われてるほうがおかしいと思う」
阿美の声かいささかに大きすぎて、牢番の顔がわずかに動いた。
「大きい声を出すな」
「…それに、お兄ちゃんにとっても、仲間でしょう。戦うのは、つらいでしょう。あたしが半分持つから」
「…」
「だめ?」
「だめといってもついてくるのがお前だろう」
「うん」
阿美の笑顔が場に似合わず無邪気なのに、呂蒙はつい苦笑いをした。その呂蒙に
「はい」
と、自分の小指を格子の中に入れた。
「何のまねだ?」
「蘭丸ちゃんに教わったの。お兄ちゃんも、ほら」
呂蒙が握っていた手の小指だけ立てると、阿美はその指を自分の指でぎゅ、とにぎって
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせんぼんのーますっ、と」
と歌うように言った。
「約束の確認」
「…お前をつれていけなかったら、俺は針を千本飲むわけか…殺す気か?」
半ば背を向けていた太史慈が、このときにはさすがに「ぶっ」とふいた。
「もののたとえだよ。それより、約束だよ、守ってくれないと…」
「蘭丸ちゃんに、本当はおにいちゃんは刮目せよなんていわなかったって、ホントのこと教えちゃおっと」
「?」
呂蒙にとっては何がなんだかなことを言い、阿美は少し奥の方にいた太史慈に
「太史将軍、ありがとう」
と声をかけ、
「あたし、待ってるからね」
と、外に飛び出していった。
「…落ち着かぬ奴だ」
呂蒙がはあ、とため息をつくと、
「あれぐらいの底抜けが一人ぐらいいた方が、陣が楽しいから俺は歓迎だ」
太史慈が言った。
「あの天真爛漫は得がたい」
「…それほどほめるなら、お前にやろうか?」
「あいにく、俺には先約がある」
「…だよな」
牢の中、ずいぶんたまった無精ひげのあごをなでて、
「牢の中でも変わらぬ心配をしているのか、俺は」
呂蒙はいかんともしがたい、と心の中で自嘲した。
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