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  栗・イモ・みかん  

 「…しょうがないか」
と、呂蒙は、縁組のために軍から身を引いた由の、護衛武将に関するする書簡を開きため息をついた。この護衛武将とは、それなりに長く相方を勤めてもらって、手の内などわかりあえていただけに、今手元からいなくなるのは惜しい。
 しかし同時に、娘を軍に置くより、よい縁を見つけて送り出してやりたいというのもまた親心、強制は出来ない。
 後で祝いの品でも、と思っていると、兵士が
「呂将軍、新護衛武将の方が挨拶にこられました」
と、入室の許可を求めてくる。
「も、もう来たのか」
来たのはいいが、書簡はどこだ、未処理の書簡の中など探しているうちに、
「こ、困ります、まだ将軍から許可を…」
「大丈夫、あたしなら」
というやりとりがあり、
「お兄ちゃん、久しぶりだね」
と声がした。

 見るなり呂蒙は、その護衛武将が何者かを理解する。とりあえず近くの卓に座っているよう言い、本当なら受理したと処理して返さねばならない書簡を探す。
「大変だね、お兄ちゃん」
「眺めているなら、机の上のものを少し片付けてくれないか、お前が来たことを受理したと…」
といっている間に、
「あった」
と書簡を見つける。書簡の処理を済ませ、提出分の書簡にそれを加え、やっと呂蒙は、新護衛武将と差し向かいに卓につく。
「お前のことだ、家の中でおとなしくするのは性分に合わないだろうと思っていたが、まさか護衛武将とは」
まだ信じかねる顔で言うのを、
「私なら、お父様の名前で副将ぐらいにはなれたかもしれないって?」
「まあな、ケ当殿は若殿のもとで将軍をしておられたのだし…」
「でも、娘じゃあね」
彼女はそう言い、呂蒙の前に瓶子を出した。
「再会のお祝いに、一杯どう?」
「今はその気分じゃない」
「ふぅん…お兄ちゃん、変わったね」
そう言いながら、彼女はさっさと、自分の杯に一杯注いだのを、早速空にした。

「お兄ちゃん、勉強してるんだ?」
という問いに、呂蒙は
「まあな」
と答える。
「戟を闇雲に振り回してもな」
机の上は、彼女に関する書簡が見つかったために片づけが途中になった兵法書で指の置き所もない。
「いつまでも阿蒙じゃ、将軍やってるのも無理だものねぇ」
彼女は健やかに笑う。呂蒙はいささかならずむ、として、自分のためについであった杯の中をぐい、とあおる。
「俺はそれよりも、お前がおとなしく護衛武将でやってきた、そっちのほうが不思議だ」

 呂蒙は、呉軍に入る前の少年時代のひと時、実家から少し離れた姉の婚家に居候していた時期がある。さっきの話の通り、姉の夫は孫策に仕える将軍で、たびたび、山越という異民族を征伐するために家を空けていた。
 彼女…家では阿美と呼ばれていた…はその家の子で、阿蒙と姉の年が離れているせいか、阿蒙と数歳ばかりしか離れてなく、阿蒙を「お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれていたのだった。
 もっとも、阿美も相当の跳ね返りで、家の中で女の子らしい遊びをしているよりは、外で、義兄の部下と剣術ごっこをしているほうが楽しいというのだから、今護衛武将をしているのも、納得できる話だ。

 ある日阿蒙は、果てしなくふてくされていた。
 今彼のいる家では当たり前のことになっていたが、山越討伐の声が一度上がると、義兄は部下を連れて出陣をしてゆく。阿蒙はそれに何度か混じって参加したこともあり、見つかっては義兄や実母にもしかられるようなさまだったのだ。
阿蒙が決して未熟だったからではない。阿蒙はまだ、そう言うことをするには若すぎたのだ。
 今回は、混ざろうとしていたところを見つけられ、短いながらもがつんと一発叱り付けられ、留守番を余儀なくされた。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずって、いうじゃないか。俺だって早く軍に入って、身を立てたいんだ」
そして、武器庫で見つけてきた、古い戟を磨いている。戟の鍛錬自体は禁じられていなったから、それでもして時間をつぶそうと思っていた。
 庭に出ようとして
「ちょっと、お待ちなさい」
と声がかかった。
「姉上?」
「阿美が外に出たいっていうのでね…そこの山で栗でも拾っておいで」
姉の後ろから、阿美がちょこり、と顔を出した。
「栗拾い?」
「ちょうどいい季節じゃない。おいしい栗が拾えるよ。
 里の母さんからいいおイモをもらったことだし、焼いて食べようか」
「お兄ちゃんが一緒ならいいってお母様が…
 お兄ちゃん、だめ?」

 いやだといっても、二人とも、その雰囲気は有無を言わさないものが漂っている。
拾った栗を入れるにはいささか大きい気もするような籠を背負わされ、阿美の手をひいて、片手に戟をもったまま、阿蒙は外へ押し出された。
「お兄ちゃん、はやくいこ」
逆に手を引かれて、つんのめりそうになったところに、姉が追いかけるようにやってくる。
「いい? 栗林の近くに、蜜柑の木が生えた岩場があるでしょ。あそこはトラの住処だから、気をつけて」
「わかった」

 「そしてお前は栗もさりながら」
呂蒙は憮然と呟く。
「あの蜜柑も持って帰ろうと言い出した」
「言った?」
「言った」
「そうだったかしら、その割にはお兄ちゃんも楽しそうだったけれども?」
ととと、と阿美がついだ杯をまた空にして、
「冗談じゃない」
一言だけ、そう返した。

 「こら阿美、イガごと栗を籠に入れるな、背中が痛い」
「だって、イガから栗出すのも痛いんだもん!」
日の光をたっぷり浴びてまるまるとした栗を、落ち栗やらイガ栗のままやらで半分と少しばかり籠にたまった頃だろうか。気がついたら、阿美が、栗林の向こうにチラリと見える岩山を見ていた。確かに一本、場違いのように蜜柑の木が生えていて、早く実のなる木なのだろう、黄色い実りが点々と見えた。
「蜜柑、食べたいね」
出るんじゃないかと思った阿美の、案の定の言葉に、阿蒙はぎょっ、とする。
「あそこはだめだ」
「どうして?
「姉上が言っていただろう、あそこはトラのねぐらだって。それに、今からあそこに行ったら、明るいうちに帰れな…」
「やだやだやだ!」
やっぱりと言うかなんというか、阿美は駄々をこねた声を上げる。
「蜜柑も食べるの!」
そして、蜜柑のある岩山に向かって、まっすぐ走り出した。

 「肝を冷やしたどころの話じゃない」
結局二人で瓶子を空にして、呂蒙はつくづくと言った。
「お前がまっしぐらに走るものだから、追うことしか出来なくて」
「だってさあ、ほら」
すると阿美は悪びれもせず、
「いけないっていうと、そうしたくなるものじゃない、人間」
「他の人間のことを考えろ」
呂蒙はとりあえずそう返したが、もう過ぎた話であるし、
「もっとも、とめて止まるお前じゃなかったからな、あの時は」
はぁ、とため息をついた。

 岩をよじ登り、蜜柑の木のあたりについたときには、もうこのまま折り返して家に戻らないと、明るいうちに帰れないほどになっていた。
「さっさと取って、さっさと帰るぞ、そろそろトラがおきだすからな」
「わかってるよぉ」
阿美は阿蒙の言葉に一応は返しながら、呑気に味見としゃれ込んでいる。
「甘ーい」
「そんなことしている場合じゃないだろう!」
手当たり次第に蜜柑をもぎ取りながら、阿蒙はつい声を荒げる。
「もう帰るぞ!」
そしてまだそこにいたそうな阿美の手を引いて、岩を降り始める。しかし、登るときは阿蒙が追うほどだった阿美の足は急に動かなくなる。
「ちょ、ちょっと待ってお兄ちゃん。そんなに急いでなんか降りられないよ」
「登る元気はどこいったんだよ、全く…」
阿蒙が呟いたとき、ざっと風が吹いた。阿美が呟く。
「何か、臭い」
確かに、獣臭い。獣臭いというか、これは…血の匂い。
「トラだ!!」

どうやって降りたかもわからず、もとの栗林についた頃には、もうほとんど日は落ちていた。栗の葉のせいか、実際の空以上に暗く感じる。
「疲れた」
阿美が言う。
「ここを抜けたら家だし、もう少し元気出して歩けよ」
「やだ、もう疲れた」
阿美はその場にうずくまる。
「どうすりゃいいんだよ」

阿蒙が中っ腹に言うと、
「お兄ちゃん、おんぶしてくれる?」
阿美が言う。もうそんな年でもないし、阿蒙のほうが何かと荷物があるのだから無理な話といえば話である。
「あるきたくなーい」
しかしこうなると、阿美はてこでも動かない。本当は尻を叩いてでも歩かせたかったが、阿蒙ももうどうでもよくなってきて、結局、阿美を背負い、その上で栗の籠と戟をもって、栗林の向こうに見え始めた家に戻ることになった。

 「でもよく、あのとき、トラに襲われなかったね、あたし達」
阿美が今更のようにいう。
「俺達が風下にいたのと…血の匂いは、おそらく、何かの獲物を食べた後の匂い。満足していたから、俺達を見逃したのだな」
「そうなんだぁ。
 でも、怒られたね」
「ああ、怒られた」
そのときの姉の怒髪天の表情はよく覚えている。あと少しで捜索隊が組まれるところを帰ってきたのだから。しかし、しこたま怒った後の姉は
「まあ、ケガもなくて帰ってきたのが何よりよ」
といって、拾ってきた栗と、母からもらったイモを焼き、危険を覚悟でもいで来た蜜柑を囲んで食べた。どれも、みんな甘かった。

 呂蒙はそれから程なく、義兄の部下と問題を起こし、いうなれば家出をした。
それから少しの紆余曲折があり、そこで孫策と会う機会があり、「こいつ、面白そうだずぇ」と取り立てられ、今がある。
「俺がいなくなってから、お前はどうしていた?」
と呂蒙に聞かれ、阿美は
「父上もなくなって、二回ぐらい嫁いだかな…どっちも兵士で、戦で先に逝っちゃったけどね」
「なるほど」
「剣の心得ぐらいはあったし、護衛武将の募集の口に乗ったわけだけど…
 まさか、回りまわってお兄ちゃんを護るとはねぇ」
「嫌か?」
「まさか。お兄ちゃんなら、随分偉そうだし、『三度目の正直』もいいかなって思ってるよ」
「その言葉は嬉しいが」
やっと酒が回って、ほんのりと赤らんだ阿美を見つつ、
「一度、自分の家の家系図を書いてみてから言ってくれ。年は近くても、俺はお前の叔父だぞ?」
「そうなんだよねぇ…」
阿美は切なそうに言って、へたりと卓にもたれかかった。
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