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  たとえば君が笑うだけで  

「そういえばこのごろ」
簡を読む手を止めて、いかにも思い出した風に趙雲が言った。
「お前の転ぶところをとんと見ないな」
「…は?」
維紫がそれに、ひっくり返ったような声で返すと、彼は仕事場の片隅に起こしてある火を指差した。
まだ修養中の彼女が、一服入れようとしたのに、沸いた湯の熱さに驚いてしりもちをついて、ついでに卓の茶器をめちゃくちゃに壊したことがあったのを、まじまじと火を見てから思い出す。
「…いったいいつのお話ですか」
恥ずかしいことを覚えているものだと、苦々しくなり切れない引きつった笑いを浮かべる維紫に、
「昨日の話ではなかったかな、何しろお前はうっかりが多すぎる」
と、混ぜ返すように言葉が返ってくる。
「いつまでもそうではありません」
ぷすん、とそっぽを向き、それでもその話が一服の催促だと理解している維紫は、その火のほうに向かうが、湯気にでも触れたのだろう、
「あつっ」
と、手をひいたその拍子に、彼女の手から湯飲みが吹っ飛ぶ。しかし、割れる音はせず、
「…誰がうっかりではないと?」
仕事机の趙雲が受け止めた湯飲みを掲げている。
「…」
笑いをかみ殺す趙雲の手から湯飲みを受け取り、休憩の準備にかかっていると、
「いつものお前らしくていいではないか、うっかりで」
背中に声がかけられる。うっかり、というか、こういう不注意が出るのは、本人としては下にもしめしのつかないことだし、だいぶ本気で治そうかと思っているところなのだ。
「否定してくださらないのですね」
「事実そうだろう」
「そうですが…」
「戦場や練兵で出ないだけましなものだ」
ほめられてるのかけなされているのか、いまひとつわかりかねる言葉だったが、趙雲の顔を見るかぎり、彼は現状で満足のようだった。

 炊事などは普段ほぼ全くしない維紫だが、こういうときの準備は、ひとまずそつない。まるで仕事の途中とは思えない、茶請けに干し果物や揚げ菓子のついてくる、実に和んだ小休止をすごしていると、
「今、よいか?」
と声がした。部屋の入り口に近い維紫が先にその声の主を見て、思わず立ち上がる。
「た、太子様!」
入り口に、太子・劉禅が立っているのだ。しかし、今はいやしくも漢中王を名乗り、蜀漢の復興を宣言した劉備の息子である。一人で出歩いてよい立場ではない。
 しかし劉禅は、全く太子の自覚がないのかそうでないのか、ふらりと一人歩きをする。おおようなところは、父の劉備に似ながら、しかし苦労を知らない劉禅のこういう振る舞いは、時にはあまりにも危なかしい軽挙に見えた。
「だ、誰もお付けにならなかったのですか? ここまで?」
と維紫がたずねると、劉禅は青年らしくないしぐさでこくん、とうなずいて、
「お前達の前ではまだ阿斗だ。雷姫、座ってくれ」
と言った。
 幼い自分が遭った危険な事件のことを、劉禅はよく聞かされていた。だから、命の恩人ともいえる趙雲には弟とも子供とも見えるようになついていたし、必然従う維紫にも胸襟を開くようなところがあり、劉禅は二人を気楽に字だけで呼ぶ。
 とにかく、劉禅はふらりと現れて、実に自然に、卓の開いている席にふらりと座った。
「今、父上からうかがって」
「はい」
維紫は改まるが、趙雲は劉禅に対して、少し居住まいを正しただけで、今しがた劉禅が聞かされたという話も、すでに知っているような様子だった。
「近々、翼徳殿の娘御を娶ることになりそうだ」
「張大将軍の?」
維紫は先日の、部下だった卒伯・金蓮の顛末を思い出していた。劉禅に対してそういう話が早晩起こるだろう事は予想はしていた。
「もしかして、星彩様、ですか?」
そう維紫が確認を取ろうとすると、
「いや」
それを否定したのは趙雲のほうだ。
「星彩はまだそういう時ではない。張飛殿にはほかにもご息女があるから…」
「うむ、その中の誰かだと、私も思う」
劉禅もそう言った。
「おめでとうございます、阿斗様」
維紫が近い慶事を祝う口を開くと、
「そうではない雷姫、私は困っているのだ」
劉禅は改まってそう言った。
「どうしてよいか、わからないのだ」
筒井で判じ物のような言葉が出てくる。
「近くそのひとを見る機会があれば、そのまま、私の奥向きにとどまる方向になると思う。
そうなったとして、私はどのようにして、その人に接してよいかわからない。
 星彩と違って、私はその人のことを何も知らないし、向こうも私を、蜀の太子としてしか見ないだろう。
 知らない場所の、知らない人の側に置かれて、不安に思うなと言うのが無理な話だ。だがそのひとには、後悔だけはしてほしくない。
 何か、私にできることはないだろうか」
雷姫。返答はまず維紫に求められた。
「父上も、宮女の誰も、どうすればよいか答えてはくれない。同じ女人として、雷姫ならどうされたい?」
「…はぁ」
話を振られても、
「阿斗様の奥向きに入れると言う名誉なことなど、私にはぜんぜん想像もつかなくて…」
維紫にはそういう返答しかできない。劉禅は首をかしげて
「そうか、雷姫なら和むような何か案を持っているかと思っていたが…」
と言う。もっとも、答えられない維紫もさりながら、質問をする劉禅も劉禅ではある。彼女は戦場しか知らないし、異性関係にしても、現状は一つの特異な状態だということもよくわかっていない。とにかく、劉禅の期待にこたえるような返答ができなかったことに対して、維紫はふとうつむいて
「申し訳ありません、お役に立てなくて」
と答えた。
 そういうやり取りを、趙雲は、まるで弟妹の会話のように、かすかな笑みを浮かべて聞いている。二人がその表情を見て、
「子龍、なにを笑っているのだ」
「阿斗様はまじめに考えていらしてるんですよ、将軍」
維紫もわずかに唇を尖らせる。卓の下で、その維紫の足に、軽く何か当たる気配がした。
「?」
ちらりとその卓の下を見ると、どうやら軽く足を蹴られたらしい。趙雲はあいわからず何も言わないが、笑みは崩さない。
「…将軍?」
「?」
劉禅はきょとん、としている。やや不自然な沈黙がしばらくあった後、趙雲が口を開いた。
「阿斗様がいつもされていることで、お得意だと思われているから、殿もお教えなさらなかったのですよ」
「私がしている? 得意なこと?」
「そうです」
趙雲は、維紫に、劉禅の前の茶を熱いものに換えるよう、無言の指示を出した後言った。
「阿斗様は、いつもされているように、笑顔でお迎えなされれば良いのです」
その言葉には、維紫もきょとん、として、あと少しで湯飲みから茶があふれそうになるところだった。
「それだけでいいのですか?」
と聞き返したのは維紫の方だ。趙雲がそれに最もそうに説明を加える。
「人に悪く思われたくないと思うなら、自然に出る反応だと思うが?
何より、笑いは普通、和ませるために使うものだ」
「それはまあ、そうですが」
維紫が、それが指南になるのかしらん、という顔をすると、劉禅はにわかに
「そうだったか。それなら簡単なことだ。聞いてみてよかった」
そう立ち上がる。すでに納得した様子であった。
「ご自分を偽る必要はありません。阿斗様は、阿斗様がおできになれるかぎりのことを」
「うん。そうしようと思う」
劉禅は、用は終わったと判断するやさっさと部屋を出て行った。後をついて来た宮女も官吏も、本当にいなかった。

 あとは二人だけになる。相手が劉禅だから二人は何の文句も言わなかったが、予定より長い休憩になってしまった。
「将軍?
 本当に、言って差し上げられることはあれだけだったのですか?」
片づけをしながら維紫がたずねると、趙雲はいかにも、と言う顔で、
「お前はそうしてきただろう? 居場所を得て、そこで和むために」
と言う。彼の顔には、まだ、手の中で磨いた珠を見るような、満足そうな笑みが残っている。
「そんなことができないお前に、私は育てたと思っていない」
「…そうですね」
きょとん、とした顔を維紫はゆるめた。初めての孤独に出会ってこわばった顔に、笑みを取り戻させたのは、誰でもない、この龍なのだ。
「うっかりはそのままのようでしたけど」
「…一つぐらい欠点はあってもいい」
新しく書簡を開くまでの一瞬の間、二人の間に、仕事場らしからぬ空気が漂う。
 そこに、突然劉禅の声がした。
「わかった、お前達がそうやって、始終笑みあっているのも、つまりそういうことだな?」
いつの間に戻っていたのだと、固まる維紫を横にして、
「阿斗様はそうご覧になりますか?」
趙雲はもうどうにでもとってくれと言うような返答をした。
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