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まもなく来たその日、結局維紫は趙雲のすぐ後に控えている。
「お前でなければ、私は安心して後ろを任せられない」
彼は短く、それだけ言った。
「…ありがとうございます」
維紫はそう答えた。
こちらの総攻撃に備えてか、城にもたくさんの弓兵が城壁の上に並び、城に近づくまでには、相当の矢が降り注ぐだろうことが思われた。
『鯉児、あなたは龍の子。これぐらいで、どうにかなったりしないわね?』
前進の鉦が聞こえる。
「雷姫、行くぞ」
「はい」
二人はほぼ同時に手綱を引き、馬を走らせた。
そろいの槍が並んで進軍してくる様は、嫌が上にも目立つものである。方や長坂単騎突破の名声もちろんとして、劉備の股肱の一人に名前を連ねている常山の趙子龍、そして、その趙雲と同じ槍を取り、型もそのまま写し取ったかのように馬上からその容貌からは考えられない鋭い攻撃を与える、味方にとっては玄女・維雷姫、敵にとってはあやかしのような女武将である。いずれにせよ、討ち取れば相応の見返りのある武将だ。
「女だ! 女は馬から落として、縛してしまえ!」
と言う声は、生きたまま捕らえればその後には楽しみがまっていると、相場が決まっているからだ。維紫は、込みあがってくるものを、文字通り、砂塵の敵の中に吐き出した。
苦い記憶が戻ってくる。まだ兵卒だった昔、あのままでいれば、囲まれた何人という男たちに汚されていたかも知れないあの一時を。しかし、今は黙ってそんな立場に甘んじるほど、自分は弱くない。
「将軍、私がひきつけます、開城の本分全うくださいませ」
「頼む」
馬の脚を緩めると、剣戟の中に龍の尾の髪が消えてゆく。維紫は、とめた馬を返し、左右に群がってくる兵を薙いで
「これ以上の狼藉は許しません!
大徳・劉玄徳を翼する常山の趙子龍が将、玄女・維雷姫とは私のこと、我こそと思うものの挑戦、受けて立ちましょう!」
と、見得を切った。
維紫は馬から飛び降り、その馬を背に敵に対峙する。捕らえられれば名声に加えての楽しみを与えてくれる獲物とあって、その数は少しずつだが増えている。左右を見めぐらし、維紫はその中に飛び込み、敵兵を薙いでゆく。その動きは、扱われる槍の軌道に沿って嫣然とした弧の連続となり、倒れゆく兵士の中で演武でも舞うようだ。敵兵が、じりじりと下がってゆく。その中にあえて吶喊し、維紫はくるりくるりと、あでやかな演武の後に、動かない兵を残してゆく。
離れて、歓声が上がり、鈍い衝車の音が止まる。
「開城した!」
維紫が思ったとき、後ろに油断が出来た。まだ命のあった兵が立ち上がり、槍を構えた維紫の脇に、剣の刃を叩き込んだのだった。
「!」
維紫がもんどり打って、倒れる。敵兵は、それが最後の力だったのか、また倒れこみ、動かない。
維紫は、一度倒れこんだ体をもたげる。
「維将軍!」
護衛武将が後ろから飛び出してきて、近づこうとしていた敵兵を弩弓で退ける。維紫隊の兵卒が、その後の小競り合いの後を引き継ぐ中、退きながら立ち上がると、手綱を取って春鶯が飛び出してきた。護衛武将と二人がかりで馬の背に押し上げ、後陣へ下がる。
厚布を重ねた鎧のため、うけた傷自体はなんでもない範囲だ。しかし春鶯は、負傷兵の中、あの医者を探した。
「なんじゃと、維将軍が」
医者は裏返った声をあげ、手当てを他のものに任せて、春鶯と一緒に飛び出した。
維紫負傷の連絡を、本当は春鶯はしなければならない立場にある。しかし彼女はそうしなかった。傷と全く違うところをおさえ、維紫は身をちぢこませて、きりきりと、声をかみ殺すように歯をきしませている。
「いかん、これは」
医者が声を上げたのに、春鶯はこくりと頷いた。
処置の後、処方された鎮静剤はとても強いもので、維紫は処置を受けて、やがて眠るように落ち着いた。顔をやっと動かせる維紫に、春鶯は
<本陣へ報告に行ってまいります。お怪我の様子など、そのあとで説明しますから、そのまま眠っていてください>
と言い、医者と一緒に幕舎を出て言った。
維紫はとろとろと眠っていた。手足の指一本も動かせない。
「あんなところで油断して傷を負ったなんて…将軍にまたしかられる…」
そんなことを思いながらいると、体がざわ、と揺らめいた。
ぱしゃん。自分の体から、何かが跳ねた。
「…銀龍?」
銀龍は、何度も飛び跳ねては、維紫の体に落ちてゆく。飛び上がる高さは、だんだん高くなり、やがて、飛び跳ねた頂点で一度体を震わせた銀龍は、一度はっきり、維紫を見たあと、まるで目の前に石でも投げられたときのような速さで、真上に泳ぎ、消え去っていった。
「銀龍…死んじゃったの?」
手を差し伸べようとしても、その腕が動かない。維紫は、体から伸びる、銀龍の泳ぎ去った軌跡の途切れるままに、眠りの淵に落ちた。
目を覚ましたのは、時間こそは立っていたが、まだ日のあるうちだった。腰の辺りの鈍い痛みが、処方で予測された時間より早く維紫の目を覚まさせたのだ。
鎧ははずされ、鎧下も脱がされ、自分は、まるでただの家にあるような、普通の衣で眠っていた。起き上がると、脇に食らった傷が痛む。
「春鶯?」
と呼びかけたが、幕舎の中には、自分以外誰もいないようだった。
「報告から、まだ戻っていないのね」
痛みをこらえて身を起こしてみる。眠る前に見た銀龍が気になって、様子を見たかった。しかし、このままでは寒い。羽織れるものを探そうとして立ち上がったとき、維紫は、自分の牀にしかれた布が、真っ赤だったのに驚く。
「…傷の手当にしては…多すぎるわ」
というそばから、内腿に熱いものが流れるのを感じる。自分から流れ落ちる血だった。
牀の布をはがし、その血がこれ以上床に落ちないよう、その上に立つ。これ以上は、春鶯が来ないとどうにもならない。
「鯉児は…大丈夫かしら」
と言うそばから、物陰に、打ち捨てられるように、真っ赤に染まった鎧下と布と、小箱がある。あれが全部自分の血なのかと思うと、ぞっとした。しかし、あの小箱は何だろう。膝をつき、その小箱にふれると、蓋代わりの板がことん、と落ちて、維紫は目を見張った。
維紫が心配だから見に行くという誰彼を、全員
<維将軍はこのたびの失態を恥じてどなたにもお会いになりたくないと仰ってます!>
という一文ではじき返して、春鶯は維紫の幕舎に戻っていた。今維紫がみたらまずいものを、身につきやすい場所に置いたかも知れないと思ったのだ。
しかし、戻って、戻るのが少し遅すぎたと思う。
「鯉児…あなたが、鯉児なの?」
維紫は蓋の外れた小箱の前で、手に、布に包まれた何かを、暖めるように持っていた。傷の余波が及び、とどまりきれなかった「鯉児」を、維紫は見つけてしまっていた。
「天に登っていったのは、銀龍ではなくて、あなたなの? どっちなの?」
少し、正気を失っているようにも見えた。少し春鶯が体を揺すって自分に気をつかせようとしても、維紫はそこからはなれない。そのうち、維紫の体がぐらっ、とゆれ、蒼白な顔で、横にいる春鶯に倒れ掛かってきた。
「頭がふらふらする…」
と言う維紫の腕を、春鶯はぺしっ、と簡で叩いて正気を促す。
<今血止めの薬をお出ししますから、飲みきるまでは起きていてください>
と、その簡には書いてある。
城の主・劉循は降伏し、篭城戦は終わりを向かえた。
そして、成都の脅威となっていた北の小都市から、心強い味方を得たことで、成都は無駄な血を一滴も流すことなく、劉備の手にゆだねられることになる。
維紫はその話を、やや成都に近い場所に移された陣営の、自分の幕舎の中で聞いた。趙雲が、長い戦いで疲弊した民を慰撫することから始めよと、劉備に今後の策として言上し、劉備が即それを容れたという話も、そこで聞いた。
「…あなたがいなかったら、もしかしたら私もだめだったかも知れない」
と、維紫が言った。
「春鶯ありがとう、こうなることをわかって、もっと後がいいといってくれたのね」
<早くに申し上げたほうが良かった場合があることを、私も思い知りました>
春鶯の返答は、少しトゲが混ざっていた。後詰めのままで趙雲が納得していれば、という愚痴が、少ない言葉の中から見え隠れする。
維紫は、手当ての不行き届きで怪我が悪化したという医者からの言質をもらい、ずっと幕舎にいた。見つかって問題になりそうなものは、すべてあの陣営で灰にした。その灰の一握りだけが、維紫の手元には遺された。
やっと、面会の謝絶を解くと、誰彼となく維紫に面会に来る。
「お前らしくもない、傷を負った上に、その傷を腐らせるなど」
自分まで謝絶されたことをまずいぶかしくぼやいたあと、趙雲はそう小言じみたことを言って、
「お前が出してくれた案は、ほぼそのまま、殿が採用なされた。窮屈だが、しばらく城暮らしになる」
と、城であったことを簡単に説明してくれる。
「この地を都にして、殿は漢室を復興される」
「え?」
「今は、劉璋殿から益州を譲られた形で、益州牧となっているが、もともと漢室復興のための成都攻略であった」
「…戦いは、まだ終わりませんか」
「もう少しは」
維紫の言葉に、趙雲は短く答えた。
定軍山の戦いを経て、劉備が漢中王を名乗り、漢の再興を宣言するのは、それからもう少しあとのことである。
「戦が長引いて気が倦んだとか、傷が悪かったというのは方便で、あれはすべて鯉児のことだったのだな」
場所を維紫邸の母屋の中に移して、詳しい話を維紫から聞いたあと、趙雲はまずそう言った。維紫は全く否定をしない。
「そうです」
よくみれば、離散した家族のために遥拝を欠かさない祭壇には、幼児の玩具が一つ二つ置いてあった。
「…あの後、銀龍がいつもの芸をしてくれなくなって…もしかしてと」
鯉児、と呼びかけたらいつものように跳んでくれ、それで自分は納得したと、維紫は言った。
「銀龍は、鯉児に体を与えて、自分は龍になりに行ったのです」
夢うつつの中の維紫の話を聞いた後だ、趙雲は深いため息のあと、やりどころのない何かを弄ぶように言った。
「…そうと思わないと、やってられんな」
「違います」
趙雲が苦い顔をしているのを、維紫はごく軽い笑みで返した。
「私達が戴くのは龍です、銀龍はその仲間になって、蜀を見守ってくれるのですよ?」
「お前はそう思うか」
「はい…それに、銀龍は、鯉児と体を交換することで、養ってくれた恩を返したかったのだと思うのです。
…思い込みでも、絵空事でもかまいません」
苦い顔を緩めて、維紫の顔を見た。目こそ、今にも落ちそうな涙で一杯になったが、彼女は笑んだままだ。
「姿が変わっても、私は、鯉児がそばにいて嬉しいのです」
ほんの短い間でも、体の中ではぐくんだのだから、と。趙雲は、服の袖で、落ちる前に維紫の涙をぬぐった。
「時間は、まだある」
そう言った。
「いつかは、お前から私の子が出来ようことを願っている」
「…子龍、さま…」
「娘が良いな、お前に似てかわいらしい」
「良いのですか? 私が、子龍さまのお子様を?」
涙も忘れた顔をして、維紫はきょとん、とした。
「でも、今夜はいけません」
「何故そこで今夜の話になる」
「何故って、一晩眠ってない顔で、その上これからお城で一日お勤めがあって…
そんな疲れた顔で、子龍さまには逢いたくありません」
そんなことか。いつものように、少しずれた維紫の返答に、拍子抜けはしたが、趙雲は少し安心した顔で、
「だから急がぬといったはずだ。私も、疲れているお前をさらに疲れるような目にはさせたくない」
と言い、
「さあ、急いで支度を整えなさい、登城があるだろう」
そう言った。
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