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  鯉児  

 維紫の今いる邸は、庭の相当部分が池であった。池の中には、蓬莱島でも模したような島がひとつ作られ、回廊はその池の上を、飛び石を台に作られ、続いている。
 池を渡る回廊が終わるあたりに、人が一人乗れるほどの平たい岩があり、維紫はそこに立っていた。
 顔色が芳しくないのは、一晩眠っていないからで、一晩眠っていないのは、率いている娘たちの処遇について、考えていたからだ。卒伯として長く自分を助けてくれた三人を、そろそろ他の武将に預けて副将として使ってもらうべきか、あるいは、武の道から離して後宮づとめの文官にすべきか。もしそうしたとして、彼女たちのいなくなったところは誰をもって補うか。
 普段なら、彼女たちの顔を思い出せば方向ぐらいは見えてくるはずなのに、今はなぜか、それもできない。身に染むような秋の紅葉の色の中、紫色が浮き上がるように、維紫は立っている。このころになると、どんなに考えても、妙案など浮かぶことはないのは、わかっているのに。
 維紫がその場所に立つのが合図とわかっているのだろうか。池に泳がせている鯉が、ゆらゆらと、維紫の足元に集まっていた、ほとんどが変哲のない黒い色をしているが、色づいた木の葉が落ちたような金や赤も見える。
「ねぇ、だれか」
母屋に声を上げて、鯉の餌をもってこさせようとする。そして、その反応はあまりに早く、
「これだろう?」
と、入れ物が差し出される。
「あ」
あと一歩で回廊を降りるというところに、趙雲が立っていた。
「…また徹夜をしたな」
いかにもそうわかるのだろう、言われて、
「…」
維紫は小さくうなずいた。
「仕事に熱心なのはいいが、しっかり食べて眠るのも」
「わかっています」
入れ物のふたをとり、その中をぱっ、と水の上に散らすと、ぱしゃ、こぽん、と、鯉たちは空気と一緒にその餌を飲み込んでゆく。
「お前も変わったやつだ」
と、趙雲が言った。
「食べるつもりで買った鯉を池に放してしまうなんて」
そうして、一匹、堂々とひれを揺り動かしながら、一回り大きい鯉が、維紫の足元までやってくるのをみた。
「あまり綺麗だったものですから」
その一匹が来ると、他の鯉はあらかたどこかに散ってしまう。維紫は屈み、ほとんど手からその鯉に餌を与える。鯉のうろこは、ただの黒にみえて、しかし日が当たると銀色にその光を照り返す。維紫はこの鯉を「銀龍」と呼んでいたはずだった。
 餌の入れ物を傍らに置き、維紫は池の水に指をつけ、しゃぱ、と揺らした。
「銀龍、いつものを見せて」
しかし、銀龍は、維紫の足元で、懐くようにとどまるだけだ。
「銀龍」
維紫の声が、やや悲壮みを帯びていた。趙雲が降りてきて、
「私がやってみよう」
と言う。水面から見上げる姿はまったく別の者に変わったはずなのに、銀龍は、まだ、そこにいる。
 趙雲は、水面を揺らしながら、鯉に呼びかける。
「鯉児」
維紫の顔から血の気が引いた。そして、銀龍は、尾びれを力強く振り、水面から飛び上がり、朝の光に真っ白に輝いた。

 維紫は何も言わない。差し出された布で指を拭いつつ、
「春鶯が、私に書簡を残していったのだ」
趙雲が言う。
「今この鯉の名が『鯉児』であること、その関係があるからいまどきのお前に難しいことを考えさせるなと。他にもいろいろ書いてあったが…」
何故、早くに言わなかった。そう問われ、維紫は、だいぶ長い時間の後、
「今申し上げられるのは、今のその子が、もう銀龍ではなく『鯉児』であるということだけです」
それだけ言った。

 銀龍は、維紫が桂陽にいる間に、食べるはずで買わせたのを飼っているという、若干変わった経緯で維紫に養われている。桂陽にいる間、その銀龍の世話は、維紫本人もさりながら、卒伯・春鶯も行っていた。
 荊州南部を劉備の支配下に置くための戦いの間、混乱した街から、二胡だけを手に仕官を願い出てきたのが春鶯だった。桂陽に入って落ち着いてからは、維紫から簡単な武術を教えられたりしながら、維紫の屋敷で暮らしていた。
 そんな中、益州の劉備から出陣の命が届く。表向きは益州の北に接する小勢力を征伐するための救援と見せかけ、その実劉備の軍は、今益州を治める劉璋にとって変わらんとする軍勢であった。
 途中、巴郡であった戦いで劉璋配下の武将を撃破した荊州からの軍勢は、成都を包囲するために、趙雲軍がやや南に進むことになった。
「荊州…大丈夫なのでしょうか」
馬上で維紫が呟く。
「大丈夫も何も」
と趙雲が隣で言う。
「ホウ統殿が成都包囲を提案され、それをより確実にするための策なのだ」
「…でも関将軍だけで、荊州が…」
「…なら、今からでも荊州に戻って、関羽殿に加勢すればよい」
趙雲の言葉は一見冷たい。しかし、その言葉の通りに関羽の所に行ったとして、
「おぬしの職分を忘れたか、原隊に復帰せよ」
そう言うのが関羽なのだ。
「関羽殿の勇名は三国にあまねく知れ渡っている。またそれをご本人も自負されておられる。
 殿はそれをご存知で関羽殿だけはとどまるよう命じられたのだ」
「…はぁ」

 到着した成都では、劉璋の息子・劉循が居城に立てこもりを続けているという。
「まったく、根性だけは一人前でねぇ」
ホウ統はここまでの流れを説明する間に、こんな風に言った。
「押してもだめ、引いてもだめ。それなら、もう強行突破しか策がなさそうなんだねぇ」
 これまでに聞いた話によれば、益州を治める劉璋は、太守としてはあまり頼れない類の人物であるらしい。北に接する小勢力の制圧もままならず、劉備を頼る旨の家臣の進言に耳を傾けてしまったほどなのだ。そして、民衆からもあまり慕われていないとも聞く。
「慕われていない太守でも」
と維紫が呟く。
「最初は援軍だったはずの殿が突然劉璋様に代わって益州を納めるというのは、民は喜ばないわよね」
そばでそれを聞いていた春鶯が、
<戦に合って一番苦しむのは民です。これまでも、戦のためと、たくわえを取られ、苦労しているものはきっとあると思います>
「そうよ、ね」
維紫が、春鶯の簡の字に頷いたとき、
「おやおや、こんなところで軍議とは熱心なことだ」
と声がして、春鶯は立ち上がって拱手する。
「…将軍」
趙雲は、春鶯の簡を見、
「…確かに、民は疲弊していよう。劉循の篭城は半年を越え、そのために搾取が行われていることは想像に難くない」
と言う。
「さて雷姫」
そして、維紫に向き直る。
「もし、お前が想像している通りに、殿が成都に受け入れられないと予測できるとして、お前はどうする?」
その質問は、桂陽で、員外の太守補佐官として、内政を実地で学んだ維紫に出された課題でもある。
「平定後の論功行賞で、成都の邸宅や土地を分け与えることを、まず行わないほうが良いと思います。
 戦で一番疲弊するのは民ですから、民が落ち着きを取り戻し、普段どおりの生活が行えるまではむしろ民を助けるべきと思います。
 とにかく、民が心を寄せてくれないと、いつまでも殿は侵略者のままだと思うのです」
「なるほど」
「あくまでも理想です。実際そうできるかは、私にはわかりません」
趙雲は今度は春鶯に、
「今の雷姫の案は上策と思うか?」
と尋ねる。春鶯の返答は
<私にはまつりごとなどのことは詳しくはわかりませんが、民に心を寄せてもらうために民をいたわることについては、悪いことではないと思います>
というものだった。
「…わかった」
趙雲が閃いたように顔を上げた。
「成都平定のときに、殿に試みに進言してみよう」
「え?」
「だから、殿に申し上げるのだ」
「将軍のご意見の中に組み入れてくださるのはありがたいのですが…民に甘いと退けられるのではないかと…」
「意見と言うものはたたかわせてよりよくなるものだ」
維紫のおろおろとした声に趙雲は全くためらうようなそぶりもなく、
「春鶯」
と、声を掛けた。
「私の幕舎の場所はわかろうな? 所用あって遅く戻ると、伝えてくれ」

 春鶯は、拱手の後、甕を一つやや重そうに抱えて維紫の天幕を出て行った。
「あの甕は何だ?」
と聞かれ、維紫は
「銀龍です」
と言う。趙雲はぽかん、として、
「…すると何だ、お前は鯉一匹を戦支度の中に入れてきたのか」
「桂陽に置き去りではかわいそうで…それに、連れて行ってほしいと私に言っているような気がして」
彼はしばらく言葉を失って、それから
「…なるほど、今度は私が、それも人ならざるものに悋気を持つ番か」
と、笑うとでもなく言った。
 銀龍はそんなじゃありません、と、維紫にしては躍起になる何かを言いたそうな唇は、すぐに言葉をなくした。
 帰ってきた春鶯は、中の気配を感じ取り、今夜の寝床をどこに確保しようか、あごをひねった。
 かぽん。 狭苦しそうに、銀龍が跳ねる。

 維紫達がここに到着してから一月二月という時間がたっても、目の前の城は開く気配を見せない。
「お堅いお嬢さんなこった」
ホウ統が飄々と言った。
「そのお褥に入れるまで、いつまでかかりますかってなもんで…」
もっともだ、と、諸将笑う中、月英や尚香は複雑な顔でいる。
 小競り合いや力試し程度の、さほど高名でない将の一騎打ちなどがたびたび行われ、あるいは本格的に攻城戦をしかけても、城はがんとして開城しない。
「寒くなると、幕舎暮らしがつらくなりますなぁ」
「全く…」
と、軍議が果て、三々五々散る中に、維紫の姿はなかった。

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