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  維紫さんの胃痛  

 このごろの女子からの仕官希望が後を絶たない。理由は簡単、維紫が押しても動かぬ女将軍に据わっているからである。格は低く、率いる人数も少ないが、将軍であることに変わりはない、中には、
「うちの跳ね返りが何とかお役に立てれば」
と、親にともなわれてくることもある。
 一応、兵卒は男女に関係なく各将に平均して配属されるが、女子の練兵などやったことがあるはずもなく、一部の熱心な将以外は、大体維紫の仕事だった。彼女の兵卒時代からのいわばノウハウに期待されたのである。

 「この日の練兵は…」
維紫は、副官と一緒にばらばらの竹簡を一つ一つ見て、この二三日の予定をくみ上げている。しかし、すでに夜はとっぷりとふけ、24時間という概念があったらもう深夜だ。
「維将軍」
そばでその手伝いをしている副官が、あくびをかみ殺した。
「もうこの辺でよろしいのではないのでしょうかぁ…」
「そうね、もう少し何とかしたいけれども、きりがないし…」
と、並べられた竹簡には、昼前と昼過ぎと、預かり練兵する部隊の名前がびっしりと並んでいる。
「明日は、どの隊の練兵でしたっけ」
「久しぶりにうちだけです」
長く女子兵卒だけの顔付き合わせる生活だと、男の兵卒が入る練兵が、かえって合同練兵に感じて緊張する。自分が先頭をきらない練兵は久しぶりだ、そんなことを思いながら、仕事場についている牀を、寝られるように整え始める。
「うちの将軍は遅刻にうるさいから、やっぱりここで一度終わりにしましょう」
「そうでしたね」
副官もうなずいて
「おやすみなさい、維将軍」
と、一礼して退出して行った。

 翌朝。
 寝不足なのはわかっている。それでものろのろ起き上がって、少なくても朝食をとり、練兵の準備を始める。
 髪を結おうとして、維紫は、まだ使っていない結い紐があるのを見た。
「維将軍」
二三日前、まだ家で大切にされていてもおかしくない少女のような兵卒が、
「これどうぞ」
と、自分にくれたものだ。一本二本の話ではない。片手に山盛りだ。
「名前がかっこよくて生地買って、作ったら一杯になっちゃって、全員に配れるぐらい
あるんですよ」
という結い紐は竜胆色と言うそうで、維紫はなるほど、と思う。趙雲軍団の娘子軍である維紫隊がそろいの色の結い紐をしていたら、それはそれで面白いかもしれない。
 維紫はその竜胆色の結い紐を取って、くるくると自分の髪を結った。

 整列して、鉦の音にあわせて隊列を変える訓練は、しっかりとその意味をわかっている兵卒には準備運動のようなものだ。趙雲はこういった基本の動きに特別うるさいから、念入りに行われる。これについてこられないと、厳しい罰が待っている。準備運動と入ったが、兵卒の顔はいたって真剣だ。もちろん、趙雲は、少しの手落ちもないか、それを一段高いところで見ているわけだ。実戦に劣らない気迫である。
 それが終わって、実際の武技の訓練になってから、趙雲は、維紫含めた各副将に、兵の様子などを聞いて回る。
「女子がずいぶん増えたそうだな、他の将軍がお前に練兵を頼んでいるようだが?」
「はい、私が教えられた分を今度は教える番になりました」
「お前の後が続けばよいがな」
「はい」
「お前は相変わらず正直だな」
趙雲ははは、と短く笑う。
「他将が自部隊に来る女子をお前に預けるのは、不精ではない。お前に預けたほうが安心だからだ」
「はい、わかっています」
「将となる見込みの感じられるものは、すでに個別に育成を始めているそうだ」
「そうですか」
「そのうち、お前の負担も軽くなる。それまでは頼まれるかもしれないが」
「もったいなく思います」
維紫は一礼した。と、趙雲の後ろに人影があるのを見る。目があって、
「維紫殿、お久しぶりです」
一本芯がはいった、女性だが貫禄のある声がする。
「星彩様でしたか、こちらこそ長の無沙汰になりました」
髪を片側に丸く結いこんだ涼しい眼が、維紫の礼にあわせてゆっくりと瞬いた。

 「あの」燕人張飛の娘・星彩だった。正式には軍属にはないが、頼み込まれたのだろう、趙雲が彼女の鍛錬に携わっていた。維紫も何度か手合わせをしたが、その素質には天賦の武の血筋を感じさせた。とまれ、趙雲は少しだけ星彩をみやり、
「彼女は今日は見学だ」
と言った。
「見学ですか」
「今後将になったとき、練兵をどう行えばいいのか、まず見て流れを覚えさせようと思って」
「将軍も、ずいぶん教える立場が板につかれたようですね」
「…うむ」
最後の維紫の言葉には、趙雲は複雑な顔をした。維紫の場合には、育成されるほうもするほうも手探りで、その手探りが余計なものを触ってしまったからだ。間違いなくそれが原因だったのだろう、しばらく趙雲が預かる副将候補は男ばかりだった。
 星彩とも一定の距離を持って接しているようだ。もっとも、相手が誰でも手がついたら、張飛のことだ、蛇矛が黙っていないわけだが。
 と、
「あぶない!」
星彩が維紫の後ろに回って、その肩を引いた。
 がらんっ
 今まで維紫がいたところに、練兵用の槍が刺さらん勢いで吹っ飛んできた。肩を引かれていなかったら、足にでも一撃あっただろう。星彩がその槍をとり、
「誰?」
と問う。ほどなくすたすたと、足音が近づいて、
「私です」
と言う。
「槍の持ち方も知らないの?」
星彩の質問に、彼女は答えない。不毛な問答は嫌いなのだろう、星彩が槍を返すと、彼女は一礼もなしにきびすを返し、またすたすたと練兵の列の中に入っていく。
「…維紫殿の部隊は、礼儀についても完成されていると聞いていたのですが」
「申し訳ありません星彩様、もしかしたら、まだ新参ゆえに教えが行きわたっていないのかもわかりません」
男子の中に入るからといって、別に男子のようにならなくていい、むしろこのような場所だからこそ、女子の物腰や礼節には、維紫は特に力を入れていた。
「…過失には思えないわ、あの態度」
星彩が言う。維紫がその言葉の真意を測りかねていると、
「落ち着け」
趙雲が言う。
「新参なら、何度でも、教えればすむことだ」
「はい。将軍にも星彩様にもお怪我がなくて何よりでした」
維紫はもう一度頭を下げる。

 「見てましたよ」
と、練兵の後、維紫の副官が転がるように近づいてきた。
「危なかったですね」
「ええ」
そして副官は
「彼女はですね」
と、あの小事件に関与した兵卒のことを少し知っているようだった。
「えーと、名前は雅四娘、仕官をしたのは二三ヶ月前ですね」
二三ヶ月といえば、新兵といってもいい。名前を聞いたことがないと言うことは、それまで問題を起こして維紫の手を煩わせたこともない、ということだ。もっとも、これから起こさない保証もない年季でもあるが。
「同輩の評価はさまざまです。まあ、人間、相性がありますからこれはしょうがないところですが」
「ええ」
副官は、いろいろ書き留めたらしい竹簡をあれこれして、
「これは…申し上げていいのかしら」
と言う。
「なにかあるの、その雅四娘という子について」
「はあ」
副官は、興味を向けたなら話してもいいか、と言う顔をした。
「仕官動機について、『子龍様に見初められるためだ』と、周りには言っているようです。
 度胸は一人前です、趙将軍を捕まえて『子龍様』ですから。流石の維将軍でも、そんな大胆なことできませんよねぇ」
維紫はすすった茶の飲み込みどころを間違えて、盛大にむせた。
「あああああ、やっぱり申し上げなければよかった」
副官がやってしまった、という顔で、額に手を当てる。
「できないんじゃなくて、したらいけないのよ」
やっと呼吸が出来るようになったのどで維紫は言う。
「ちゃんと軍規には目を通しているのでしょうね」
「あ、はい、今度確認しておきますぅ」
副官はえへへ、と笑った。

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