2000円札の人のこと

 ここは源氏物語のページなわけですが、やっぱり、作者のことを説明しないと片手落ちだろうと思うので、一節うなることにします。
 この原稿を作るにあたり、岩波文庫の「紫式部日記」「紫式部集」「百人一首一夕話」、講談社学術文庫の「紫式部日記」を参考にしましたが、私の主観による憶測が多分に含まれていることをあらかじめお断りしておきます。
 つまり、ここでのことを鵜呑みにすると、もし後々紫林(しりん・源氏物語および紫式部関連の学問)に足を踏み入れたときに、後悔をするかもしれません。

 前置きはここまでにして、本題を始めましょう。
 紫式部は、今から1000年ぐらい前、いわゆる摂関政治が行われていた時代の人物です。
 詳しい生年は不詳です。でも、この時代の女性は、そういうことは当たり前なのであまり気にはないことにしましょう。
 もう少しわかっていることといえば、一条天皇の中宮・彰子に仕え、「紫式部日記(以下単に「日記」とかいたりします)」をものしたほかに、「源氏物語」という世界最初の大河小説をものしたといわれる女性だ、ということです。
 「紫式部』という呼称は、もちろん本名ではありません。宮中に仕えるようになったときに付けられた呼称は「藤式部」だったようですが、「源氏物語」をものしたその才能をたたえ、中でもヒロイン級の紫の上にちなんで「藤式部」ですが「紫式部」と呼んだと、それが後世まで伝わっているのだと思います。「藤式部」の意味を分解すると、「藤」は彼女が藤原氏であること、「式部」は身内(兄弟だと言われています)が、式部省の官吏だったことから、まとめると「お身内が式部省にお勤めの藤原さん」と言うような意味です。本当は、ちゃんと本名に相当するものがあったのでしょうけども、本名を公文書で扱うような身分ではなかったのと、当時の風習として、本名が無闇に他人に知られるのは縁起が悪い(本名を「諱(いみな=はばかるべき名前)」というぐらいですし)とされていたということもあり、結局何にも残されないままだったのかもしれません。

 普通作者の話というと、ここで生い立ちの話になったりするものですが、式部は「日記」のなかでも、自分のことにはあまりふれていません。ので、ネットで検索したところ、式部のお父さんの話を見つけるとが出来ました。
 式部のお父さんは藤原為時(ためとき)といいます。藤原氏というと、よく歴史の授業で見る、摂政関白出しまくりの藤原氏が思い浮かびますが、為時、そして式部の藤原氏は、そういう「本流」からずいぶん離れた、うらぶれた「傍流」の藤原です。藤原氏を持っていても、家柄としては決して高くはなく、「なかずとばず」ならぬ「なけどとべず」の多数の中の一人で、為時はあったのです。
 「今昔物語」に、その為時について、こういうエピソードが残されているそうです。
 宮中では、年二回、旧暦の春と秋に「除目」という、昇進と異動の発表をしました。春の除目は「県召の除目」ともいい、国司に関する発表をするのです。(このへんの悲喜劇は「枕草子」にも詳しいですね)
 為時は、この春の除目で是非とも国司になりたいと思い、かの藤原道長に口利きを頼んでいたのです。紆余曲折をはしょるとして、為時は自己アピールとして一首の漢詩を託していました。その中に

苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼
(苦学の寒夜紅涙襟を霑[うるお]し、除目の後朝蒼天眼に在り)
<夜の寒さに耐えながら、血の涙を流すほどの苦しい勉強をしたのに、
朝発表の除目に私の名前はなく、ただ青い空だけが見える>

という一節があり、これがうまい具合に道長の琴線に触れたのです。
「こんな見事なフレーズを作れるものが夜に埋もれているのは忍びない、除目で融通してあげよう」
道長は、もともと別人が入るはずだった越後の国の国司のポストを得た、という話です。越後の国といえば今の新潟県です。今も米所として有名ですが、昔も、豊かな国として上のランクにされていたところでした。
 漢詩で人を動かすような文才、ある意味筆一本に自分のすべてをかける。それが、権力から離れてしまった家柄の処世術であったのは否定できません。

 上のようなエピソードを持つ為時を血に持った式部のことですから、彼女の身の回りには、小さい頃から漢籍がありました。しかし、彼女は父からその漢籍の講義を受けることはなかったようです。もっぱら、その講義は、兄弟(弟らしいですが、彼女の生年が未詳ですから)に向け行われていたのですが、飲み込みは式部の方が早かったと、彼女は日記の中で告白しています。為時は、その式部の様子を見て、
「ああ、この子が男だったら(この才覚を出世に生かせようものを)」
と嘆いたとも述懐しています。当時、女性は読み書きできなくてもいいと言う風潮があったわけです。
 そんな幼少時代を経て、為時が越後赴任が決まり、式部もそれについていきました。都がすべてにおいて最高水準であった時代に、地方に行くのは、とても寂しいことのようであり、式部は手紙に「都に帰りたい」とこぼしたこともあるとかどうとか。
 ちなみにこの時、式部は二十代だったということです。今の感覚で二十代の女性といえば、花も盛りの年ごろですが、十代前半で結婚し、四十歳から長寿のお祝いをするような時代の二十代だということを考え、またその後の彼女の人生を「日記」等から伺うと、結婚という決定的な男女関係には縁が遠かったのかなという気がしなくもないです。

 彼女の越後時代が具体的にどういう時代かといいますと、宮中・一条帝後宮では、定子が中宮としていちばんに時めいていました。為時のエピソードに出てきた道長の姪にあたり、定子の父・藤原家隆と、兄・伊周が政治の中心にいた、まさに「枕草子」の時代です。のちのち式部が仕えることになる道長の娘彰子はまだ入内出来るほど大人ではなく、「摂政関白は兄弟順」という一条帝の母・東三条院詮子(家隆・道長の姉妹)の言葉を無視して、家隆は伊周にその地位を許してしまうのかという道長の牽制もしばしばだった時代です。権力争いなのになんか兄弟げんか、という気がしないでもないですが、この時代はそういうものです。

 さて、越後の式部は、結局父の任期満了を待たずして先に帰京し、かねてより文通等もしていた藤原宣孝という人物と結婚し、一女をもうけることになります。この娘が、百人一首の「ありまやまいなのささはらかぜふけばいでそよひとをわすれやはする」の作者・大弐三位こと藤原賢子です。
 だいたいこのころの宮中が、彰子が一条帝後宮に入内、中宮となり、中宮だった定子が皇后と呼ばれるようになった、というあたりです。道長と家隆・伊周の権力争いも熾烈になり、伊周が一時失脚して定子が出家しようとしたり、そういう事件もあった頃です。「枕草子」でいう「職の御曹司におはしますころ」ではじまるような章段もだいたいこの時代のことですが、清少納言はこういった政局については一切触れていません。それどころか、定子は、彼女にとって二人目の皇女を出産したものの、そのまま崩御してしまいました。つまり、一条帝後宮、詰まる所政局は、道長に大きく傾き始めるのです。
 そして式部の夫・宣孝も、定子とほぼ同じ頃、娘が生まれて比較的短い間に亡くなってしまいます。もともと年の差夫婦であったようですし、式部本人も、実は宣孝の妻の一人に過ぎなかったわけですが、この事件は相当ショックだったようで、「日記」にも、その寂寥感を思い出す文章がのこっています。
 夫を亡くし、小さい娘を抱えて始まった式部の未亡人生活ですが、つれづれに漢籍を取り出し目を通す式部を、侍女がきこえよがしに「漢字なんか読める変わった女性だったから、幸せと縁遠くてらっしゃるのよ」といわれる有り様だったようです。
 そういう未亡人生活の不安・寂しさ・空しさが、この頃から下記恥じられたとされる「源氏物語」の原動力だったのかもしれません。

 しかし、その手すさびのはずの「源氏物語」が、彼女の運命を変えたのです。
 やんごとないあたりの姫君が宮中に入内するにあたり、教養のある女性が求められたという事情については別に譲るとして、未亡人になったとされる頃から出仕したとされる頃まで、彼女の年表には数年のブランクがあります。
 そのブランクの間に、少しずつ「源氏物語」が貴族の間に出回り、その名声が彼女に「宮中で中宮様にお仕えしてみないか」というスカウトになったというのがなんとなく流れとして良いような気がします。どうやって流布していったか、その経緯は考えないことにして。
 ただ、彼女が出仕を始めたころ、すでに「源氏物語」が爆発的人気だったのは確かのようで、まだ完成には至っていないながら、承前が激しく希求されていたようです。「日記」の中で式部が
「道長様が、お嬢様(因香注:彰子の妹)にお見せなさるのか、私の部屋を捜索させて、草稿をもって行かれてしまわれた。清書したのがあるのに、あれが出回ってしまうのは悔しい」
みたいなことをいってます。
 当時の本は手書きをすることでコピー(増刷)されるため、その需要スピードに供給が追いつかなかったのでしょう。また、その手書きでコピーがくせ者で、現在「源氏物語」には、細かい表記の違いなどにより、数種のバージョン違いがあります。でもそれは、別の話。

 ところで、出仕した式部は、徹底して無学を装っていたようです。家にいた頃にも侍女に陰口を叩かれたこともあり、また出仕してからも、女性でなまじ漢籍に堪能な所が、「人には自慢たらしく見える」と悟った彼女は、「一」という漢字すら、読み書き出来ないよう振る舞っていたと「日記」で述べています。
 さらに、「源氏物語」を読んだ(正確には女房の朗読を聞いていた)一条帝が
「この人は日本書紀に造詣が深いのだね、たいした学識だ」
とほめたのを、そばの女房が式部をねたんで「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね:日本書紀の人、程度の意味)」とあだなされて、それも嫌だったとかいうエピソードも「日記」に残っています。それでも、中宮彰子に漢詩の講習をひそかに行っていたが、黙っているはずがいつの間にか知られていた、とかいうこともあったようです。紫式部絵巻に絵になってしまったしね…

 さて、そろそろ彼女の人生について語るのも大詰めになって来ました。
 「日記」は、後の後朱雀天皇になる、彰子二人目の皇子が誕生し、成語50日のお祝いがもよおされた所で終わっています。(赤ん坊が産まれると日単位でお祝いをする、それは、逆に、当時の乳幼児の死亡率の高さの裏返しでもあるのです)式部はその後も彰子に仕え続け、「源氏物語」をまとめ上げたと推測されています。
 そして、式部の没年も、生年と同様にわかっていません。最後に生きていたらしいと確認された記事の年代と、推測される生年から考えると、40歳ぐらいまで生きたらしいといわれてますが、それはあくまで推測の域を出ません。

 生没年もわからない、本名もわからない。そんな一人の女性が、世界で初めての大長編小説を書いた。
 彼女そのものが物語のようだ。
この文章を書きながら、そんなことを思いました。


 さて。彼女の人となりについて、面白い仮説があります。
 それについては、→こちら。