跋文・付記
以上、源氏物語の風雲児・弘徽殿女御の挑戦と挫折について述べてみた。
最後に。
弘徽殿の女御の晩年は寂しいものであったらしい。
父右大臣(正確には太政大臣であるが)の薨去と朱雀帝の自発的な退位に始まった、光源氏不在の間に成し遂げられた右大臣政権の崩壊は、弘徽殿女御に重い絶望となって襲いかかった。
・もしも、春宮=光源氏派によってこの朱雀帝の退位が強引に行なわれたのであれば、弘徽殿大后は一敗地にまみれながらも、更なる復権の日を思い牙を磨き続けたに違いない。(略)我子の即位、右大 臣政権の確立、更に敵対勢力の排除と一筋に戦い続けてきた自らの生涯は果たして何であったのか。救いようのない虚脱感が自らを蝕んでいったであろう。(略)少女巻で、朱雀院に愚痴をこぼす弘徽殿大后の姿には、敗者としての意地も矜持もなく、かつての政治家としての面影は全く見出せない。
(《弘徽殿大后試論−源氏物語における〈政治の季節〉−》
『源氏物語の人物と構想』所収 和泉書院 田坂憲二)
所詮、『源氏物語』は仮想現実の話であった。弘徽殿大后のような「現実」とは相容れない空間だった。
現代のドラマでも、「この物語はフィクションであり、実在の人物、団体名とは何の関係もありません」という断わり書きがある。
その前には、居そうもない主人公、あるいは、ありそうもない偶然と予定調和にただれたドラマがあって、視聴者はそれを、
あたかも実際にあることのように陶然と見るのだが、人によっては、「そんなことがあるわけがない」と、一歩引いて眺める。弘徽殿大后はそういう人物なのではないかと思う。
わかっているのは、弘徽殿大后は、弘徽殿大后の現実を生きようとしていたということである。
宿世に流されるものが多い『源氏物語』の中で、数少ない、積極的に自分の人生を開拓改善することに努めた、有難い人物なのである。
『源氏物語』の多くの女性が、出家のような消極的な形で自分の人生を変えようとしているのに引き比べて、弘徽殿大后の姿勢はなんと上向きであろうか。
そして忘れてはならない。弘徽殿大后いればこそ、光源氏は「イイ男」でいられるのである。さもなければ、『源氏物語』は、おとぎ話にもならないのだ。
付記
論文を作成するにあたって、引用するまではないが参考にした文献
・「旧唐書后妃伝」
・「史記・呂后本紀第九」
・『日本の後宮』 角田文衛 学燈社
・《聖なるものとそれを揺るがすもの−桐壷の巻と賢木の巻−》
『源氏物語−その聖と俗』 所収法政大学出版局 熊野健一
※この論文の、右大臣派と左大臣派の対立の姿勢という部分を、論文作成の一助とした。
・《六国史后妃伝と藤壷の宮崩御の記事》
『源氏物語歴史と虚構』所収 勉誠社 田中隆昭
※薄雲巻の、女院崩御の後の、生前の女院の評価をするその内容を、日本の史書の后妃伝の死亡記事の内容と比較して、日本の后妃に必要とされていた要素は慈愛と宥恕の精神であったのではないかということになり、その内容にのっとって描かれた生前の藤壷女院の印象はそういう軟らかいイメージであったのではないかと私は解析した。
最後の最後に、謝辞と詫を。
一年生のプロゼミの時からずっと、根気よく、この不真面目な学生にご指導をくださった神野藤先生。先生のお言葉を「好きにしてもいいよ」とのことと解釈して今まで参りました。結局、先生のご指導の点は直らなかったようです。でも私は真面目なんです、果てしなく。研究室にあった『日本語のしゃれ』という御本のことについては何も言うつもりはありませんので…
つづいて、機嫌の激しい浮沈に悪い顔をせずつきあってくれたゼミ以外の同僚と後輩たちに。特に後輩諸嬢…これが来年、再来年の君の姿だ。
それと、同じゼミであったばっかりにこんな変人と二年間も関わるとになってしまったゼミ同窓生一同に。私はみんなが思っているほど良くできるわけじゃないのだよ。
そして、この到達点のために、学費を納め、食事の支度をし、遊び相手と徹夜のつきあいをしてくれた家族と愛猫に。ちゃんと就職するのであともう少し遊ばせてください。
忘れちゃいけない、この卒論の餌食…じゃない、テーマになってくれた弘徽殿大后殿下。貴女を抜きにして『源氏物語』は語れないのです。もっと、多くの人が、貴女を好きになってくれればと思います。
実は、論文調では私の言いたいことは完全に伝わらないのだ。
私が、論文用の言葉を知らないと言うわけではない。
『源氏物語』を襟を正して読んではいけないような気がするだけなのである。
かつて、かの津田梅子は、『源氏物語』の英訳の話を依頼されたとき、「あんなポルノ小説をなんてとんでもない」ということで断ったそうである。『源氏物語』専門の研究者の中には、そういう歪んだ認識は正しくないとこだわる向きもあるだろう。だが、そう認識されてやむない要素があることもまた確かなのである。
事実、私は、『源氏物語』にそういうポルノ(ハーレクインという方がより正確か)の要素もあると思っている。
ラブ・セックス・デンジャラス。
『源氏物語』に含まれた要素をカタカナに直しただけで、解釈の幅は広がるではないか。突飛な思いつきであろうが、こういうとき、研究者の姿勢というものは、とろけるように軟らかくなってもいい。
私がもっと破天荒な性格であったなら、今頃この論文のテーマは「『源氏物語』をRPGとして読むために」なんてことになっていたはずだ。
もっと言えば、具体的なタイトルまで出せるところなのだが、さすがにそれはひかえるとして、一般的なところをさらうことにする。
RPG…ロールプレイングゲームというのは、「大人のままごと」みたいななものである。別世界があって、その別世界の住人を操ることで別世界をあたかも自分が生きるような錯覚を覚えさせるゲームである。家庭用ゲーム機のソフトによくあるジャンルで、人気のシリーズは発売の度に社会現象を巻き起こしたりする。
源氏物語を読むのと、RPGをプレイするのと、共通するのは「感情移入」というである。
そういうつもりになる、ということである。
ゲームでは、例えば、自分が操るキャラクターと言うのは、例えば、絶滅の運命を背負わされた人類を救う最後の英雄であったり、それを助ける連中であったりするわけである。ゲームの中で、戦い、謎を解き、押しつけられようとしている運命を跳ね返したときの達成感は、キャラクターのものでもあるがプレイヤーのものでもある。
『源氏物語』の場合、享受の仕方として、文章を読むという以外に、絵巻に仕立てた物語を、文章を朗読させながら眺めるという方法があったようだ(玉上啄彌)。ゲームと違って、自分でキャラクターを操作することはできないが、絵巻の人物は様式化されていて、容易に、誰と置き換えることが可能なようになっている。姫君は、絵巻の中の姫君の誰かになり切ることが可能なのである。
もうひとつ。『源氏物語』のRPGたるゆえんというのは、そのストーリーの計算高さにある。以前レポートにもしたし、論文にも書いたが、『源氏物語』のストーリーは、ぎっしり敷き詰められた見えない鉄道レールに似ているのである。正しく順をたどっていけば、ゴールにたどり付けるのだが、いかんせん、見えないだけに、自分の進んでいる方向が本当に正しいのかわからないし、レールの上には障害物はあるし、踏切があったりするのである。そのままにしておけば正しい方向に行くはずなのに、ふとしたことでポイントが切り替わってしまってあらぬ方向に進んでしまうこともあり、なのである。
そうしたストーリーを、あたかも自分がその平面に居るように錯覚するのが感情移入なのである。自分がキャラクターに同化するのである。
だが、一度神の目で『源氏物語』を読み始めると、そのマクロな視点は、キャラクターの思惑を包括する物まで見せてくれることになる。
論文を承前して、という体裁になってしまうが、キャラクターの思惑を包括してしまうものというのが、政治であり、系譜であったり、あるいは『源氏物語』の作られた時代の風土であったりする。
結末を知っていなければ不安で推理もの一冊読めない私は、どうにも、『源氏物語』の中に深く食い込んで、誰かになったつもりで論文を書くということはできなかった。
弘徽殿大后は、『源氏物語』の中では珍しく、政治というマクロ視点を持ったキャラクターである。源氏すら、ときに、宿世とかいうものを見つめるために後ろ向きになったり、横向きになったり、たまに脇目もふらずあらぬ方向を見つめ、ステップマザーファッカーになったりしているのに、弘徽殿大后のスタンスはいつも前を向いている。あるいは、どこか展望台にでも上って眺めていると言った風情である。源氏や藤壷が仮想現実の上層に漂っているのに比べて、どんなに高く上っていてもどこかが地面に付いているという現象を見過ごしてはならない。そのついている地面が、実家の動向であったり、我が子の存在だったりで、結局「光」源氏のためにならない方向ばっかりじゃないかということももっともであるが、「偏っていても、現実というものを知っているだけ弘徽殿大后は偉い」のだ。
「光」源氏ファン、藤壷ファン、そういう「アンチ弘徽殿」も、
「弘徽殿てこれこれこういう人でしょ。それに比べれば…」
という感じで、弘徽殿が居ればこそ、そういう人物たちの魅力が引き立つと考えている限り、巨人ファンとアンチ巨人の関係と変わるところはない。(そればかりか私のような弘徽殿大后ファンのツボにはまっているのである)弘徽殿大后が存在せずに、どれほどの魅力が『源氏物語』に残ろうか。だが、源氏がいなくても、弘徽殿の味わいは、決して薄れないのである。政治に介入している男が居る限り、それに食い込んで、全く周囲にに引けをとらないだけの個性を、彼女は持っているのである。
もちろん、源氏が一流貴公子のステレオタイプだということに、作者としては特別な意味を持たせているのだろう。姫君の感情移入先のついでに、源氏の語られない部分は自由に想定してもよしということか。
ついでに、源氏を、現代の絵に描いたようなイイ男でしかも芸能人と言うふうに考えると、その存在の不自然さがよくわかるのである。キムタクだってトヨエツだって風邪も引けば酔ってゲロを吐くのである。(こういう無粋な部分の備わった源氏を見たいなら、田辺聖子『私本源氏物語』がいい。こういう源氏ならいてもいい。ついでに、平岩弓枝を研究者として論文を引く研究者が居るのだから、田辺聖子を参考しても許されるだろう。)
私はあくまで現代人であるから、限りなく『源氏物語』の時代の知識を得ることはできるけれども、意識まで近づけることはできない、ましてや、平安時代の判断基準でもって『源氏物語』を読むことはできない。でも、現代的感覚で『源氏物語』を読むことは許されないことではないと思っている。古代の言葉で読み、古代に関する知識現代の感覚で解析し、現代の言葉でその大意を飲み込む。そういう大ざっぱな読み方でいいのじゃないかと思うことさえある。
私はよく現代によくあるシチュエーションで『源氏物語』をたとえることをした。RPGのことだってそうだし、見えない鉄道レールとか、源氏の須磨行を大企業の若重役の出向とか、変なことを言ったものだ。(これでも友則の時に比べて慎重にはなっているのだが)
そういうふうに考えたほうが、当事者の感情をより理解できるのではないかと思うからそうするのだ。「感情移入」の要素もあるかも知れない。
源氏の須磨「出向」なら、こうだ。
社長の代が変わって、どうも自分の居住まいが悪い。自分の能力が高いことを鼻に掛けて、社長の座を狙っていると勘違いされているらしい。たしかに、それは認めるけれど、自分はそれを私利私欲のために使おうだなんて、これほども思っていないのに。
確かに、社長秘書に手をつけたのはまずかったと思うけど、向こうだってまるっきり嫌がっていたわけじゃないんだぞ。
結局、三つ子の魂ということで、この論文の最後の最後を締めることになりそうだ。
『源氏物語』源氏が全てじゃないんだぞ。
これがわかっただけでも、四年大学通った価値はあるだろうか。
平成九年十二月冗談抜きの十五日 午前四時十五分脱稿
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