藤壷女院・ユートピアの仮想現実


 中宮、皇太后のような、「国母」と称される人物を、作者が、中国の大后の影響を与えて描写しようととしていることは、まず間違いないと思われる。漢籍の素養を彼女等に要求していたということからも、そのような意図を伺うことができる。
 藤壷、弘徽殿と言ったストーリーに直接関わる人物に、こういった傾向は顕著にあらわれるのだが、 弘徽殿女御に関しては、大后の影響を原動の裏に想定することは難しくない。彼女の個性と言うものは、漢籍の大后と同じことを自らが実行することに対して、助けになることこそあれ障害とはならない。

 ・物語の展開が「長恨歌」に歌われる唐土  の宮廷の物語を踏まえて展開するのであ  るが、弘徽殿女御は漢の宮廷に君臨した  呂后の面影を背負い、また中国の正史に  描かれる歴代の后妃の伝を背景にして輪  郭のくっきりした后妃像をもって示され  ている。
    (略)
   物語の朱雀帝に大きな影響力を持った  のは右大臣よりむしろ母弘徽殿大后の方  であろう。(略)政治家として甚だたよ  りない右大臣を動かして朱雀朝の右大臣  政権を維持せしめたのは弘徽殿大后であっ  た。
    (《虚構としての宮廷史》
     一、弘徽殿女御と右大臣
    『源氏物語の歴史と虚構』所収
    勉誠社  田中隆昭)

 そういう、中国風の弘徽殿大后が管理していた朱雀帝の後宮は、多くの史実にあるような、 右大臣一派の血統と密着した、我々が摂関政治と聞いて、すぐ、平安時代中期の、藤原氏と天皇家との関係を思い浮かばせる時のような、そんな後宮であったと思う。少々変則的なことといえば、弘徽殿の跡を受け継いで後宮勢力の筆頭をになうのが、「おおやけの上宮仕へをしたまふべき」尚侍・朧月夜であったことである。
結果としては準備段階で一旦は大いにコケたものの、朧月夜の寵愛は、結果的には、尚侍の身で女御宣旨を承るという遠回りをすればいいだけの話であったが。尚侍以外の、いわゆる后妃として入内した女性は、宇治十帖の今上帝の生母・贈皇太后承香殿女御でも、女三宮の生母・藤壷女御でも、系譜を補完する存在以上になり得なかった。
 だが実際は思うようにはいかなかった。朧月夜によって後宮を掌握することに半ば成功してはいたが、そういう後宮に連係するはずの朝廷の動きは、藤壷・光源氏・左大臣派によって右へ習えというようにはいかない。

 ・藤壷の出産に際して、「弘徽殿などの、  うけはしげにのたまふ」と記されている  が、これは、春宮が既に二十歳をすぎな  がらも皇統をつくべき皇子に恵まれない  ため、その春宮の母としての焦りと苛立  ちとを、如実に示しているのである。   (略)しかも、藤壷所生の皇子を、光源  氏と左大臣派が指示することは、(略)  左大臣派が右大臣派と一線を画する姿勢  を貫く以上右大臣派にとっては大きな痛  手である。・
(《弘徽殿大后試論
    −源氏物語の〈政治の季節〉−》
   『源氏物語の人物と構想』所収
      和泉書院  田坂憲二)

 氏は引用の箇所以後でも、「朱雀帝の御代そのものが、藤壷腹皇子(後の冷泉帝)という強力な後進勢力となっている状態で始まった、弘徽殿にとっては焦るシチュエーションであった」いう主旨の事を述べておられるが、引用箇所以前の「右大臣 弘徽殿 春宮(朱雀帝)というラインも、幼い光源氏に対する下馬評程度で揺らぐ程もろかった」という主旨には考えにくい。強力なライバルが用意されて焦っているのは、双方同じである。だが、藤壷腹皇子に対しての焦りは、相手の背後にある、藤壷の血統に対しての焦りなのではないか。幼い光源氏に対しても、確かに春宮の件について弘徽殿は憂慮をしているが、今回程には心配はしていなかったはずだ。何となれば、まだ、この頃の弘徽殿と、背後の右大臣一派は、まだまだ大きい勢力を保っていたであろうから。
 閑話休題。弘徽殿大后の作り上げようとしていた伝統的後宮は、未完成のうちに、朱雀帝退位とう事態によって崩れた。右大臣一派の後宮出張所であった弘徽殿は、朧月夜に皇子がなく、留まる必要がないことから、右大臣四の君の女(権中納言…頭中…女)に譲られる。この新弘徽殿女御は、体裁といえば太政大臣(元左大臣)の養女であるから、右大臣家の勢力としてはあまり期待できないものである。後宮での右大臣一派の勢力は大きくそがれることになった。そのまま存続していれば、きっと、源氏物語の世界でなければ、弘徽殿大后のカリスマのもとに、秩序ある後宮が編成されたのではと考えたい。
 そして、冷泉帝の即位があり、藤壷女院が、法体ながら後宮で、いよいよ冷泉帝のためのカスタマイズが始まるのである。立場こそ違え、わが子のために、後宮をそれらしく整えたいという心はかわらない。藤壷は女院という立場を利用して、それをすすめようとする。
だが、藤壷が後宮管理に進出して来た時、、我々は「藤壷変貌論」という形でそれに対して違和感を感じずにいられなかった。帝の母として、漢籍の大后がしたように、わが子の後宮の安定を期して行動をおこす度に、それまでの「なつかしうらうたげな」藤壷とのイメージとの歪みが顕著になってくる。 
 そもそも、女院以前の藤壷は、光源氏の目・耳・指からの想像(妄想でもあろう)で作り上げられた「大理石の女」のようなものであった。読者は、光源氏のもらした感覚しかから、藤壷の何においても想像することはできなかったのであるが、生身の藤壷に白昼堂々接触したとしても源氏はそのように評価するだろうし、そう言う人物であったはずだ。
 それが紅葉賀巻においてのちの冷泉帝を出産した時、

 「命長くもと思ほすのも心憂けれど、弘徽  殿などの、うけはしげにのたまふと聞き  しを、空しく聞きたまはましかばひと笑  はれにやとおぼし強りてなむ、やうやう  やすこしづつさわやいたまひける。」

 罪におののくだけだった貴婦人が、わが子のために生きようと決心する。母性愛の発生である。
 藤壷の変貌はそれ以後、光源氏帰郷直後の澪標巻であると、変貌説を支持する向きはなっているようである。すなわち前斎宮(六条御息所女)の処遇に関しての、光源氏に対してのアドバイスである。

 「いとようおおぼし寄りけるを、院にもお  ぼさむことは、げにかたじけなう、いと  ほしかべけれど、かの御遺言をかこちて  知らず顔に参らせたてまつりたまへかし。  いまはた、さやうのこと、わざともおぼ  しとどめず、御行ひがちになりたまひて、  かう聞えたまふを、深うしもおぼしとが  めじと思ひたまふる」

 加えて、絵合巻で、斎宮女御(秋好中宮)に肩入れするなどして、藤壷女院は、冷泉帝の母后として、桐壷院に後見をゆだねられた(もちろん、深層では帝の実母実父として)光源氏と手を結び、あたかも自分達の間にもうひとり子供でも作るように、源氏を中心にした後宮の体制を整える活動を始める。このあたりは、右大臣一派朱雀帝の後宮のカスタマイズに心をはらった弘徽殿皇太后とかわるところではない。
 だが藤壷には、さらに深層で縛るものがあったようだ。
 源氏物語の「仮想現実」、作者の意識である。
 作者の理想の後宮の創造。これが、女院となった藤壷の、それまでとの間のイメージの歪み・「藤壷変貌論」の枠を作ると考えられないか。藤壷は変ぼうしたのではない。母性愛は母であれば当然に抱くものだ。だがその母性愛の発生の瞬間から、作者の仮想現実をつくり出す窓口としての軌道修正をさせられてきたのだ。

 ・作者は宮廷内の門閥の抗争、外戚の専権  などとは全く別次元の世界で、藤壷中宮  像を描こうとしているのである。言い換  えると、藤壷にね現実のそれとは別な理  想的宮廷を脳裏に描くことの自由とまた、  その理想世界に自分の在り方を位置づけ  うる自由な環境を用意するために、作者  が、上記のような時点(冷泉帝登極にあ  わせて)藤壷の昇進を位置せしめたと考  えられるのである。・
(《藤壷は変貌したか》
  国文学年次別論文集『中古 』
         昭和五十七年度版所収
             呉羽長)

 結構な意見である。だが、以降、氏が指摘される、藤壷に付加されてゆく中国の大后のイメージのなんとも不自然に見えるのであろうか。
 氏は、弘徽殿大后については、「藤壺と違い、外戚の存在があったために、作者の理想の後宮を想像するという役目を全うするには不適切と判断された」と言うようなことを述べておられるが、それはどうにも納得できない。理由は後述する。
 ともあれ、論文末尾において、氏は「部分的には写実的ではあるが、総体的に藤壷の描写は、極めて濃厚な理想性に貫かれている」と述べておられる。ただ、その、総体的な理想性…仮想現実の要素…があるばかりに、藤壷の描写は、完全に地上のものに消化しきれていない。何を行動として行っても、所詮源氏一派の栄華に繋がるという一抹の苛立たしさがまつわるのである。この時点の源氏にしても、須磨から帰還してふたたび政界に復帰して、より重く扱われて来るという古今未曾有の事態になり、いかに「新帝補佐という現実的環境」の中にあろうとも、存在は未だ仮想現実の上層にあり、『源氏物語』の現実には相容れない状態である。超人光源氏が栄華を極めるという結果のためには、やれ帝がかわった、入内できる娘がいない、そんなことは全く問題ではないのである。源氏以外の全てのキャラクターは、源氏のために存在しているといっても過言ではない。そして、口惜しいが、弘徽殿に関しても同じなのである。
 中途半端な現実化が行われた結果、藤壷の造型は歪む。女院以前と女院以降、二人の藤壷のギャップはうめられぬままにストーリーは進む。「なつかしうらうたげな」イメージを引き摺るまま、女院として権威をただそうとする藤壷には、そういう哀れさしか、私には伝わってこないのである。
 では、それまでのその「なつかしうらうたげ」な藤壷のイメージはなんであったかというと、古代日本の六国史の中の后妃の姿であろうと思われる。日本の后妃にまず求められた慈愛と宥恕の精神が、女院宣下以前の藤壷には感じられるという。

 ・藤壺は第一部の政治的波乱の巻々に中宮  としての位置を占めているが、(略)す  でに桐壺帝に見えたときから「いと若く  うつくしげ」であったし、光源氏に与え  た印象も「なつかしくらうたげ」なので  ある(略)。
   紫式部が一方で考えていた理想的な后  は、このような女性としての美点を有す  る人であった。(略)まず警戒心を捨て  させ、人をして無防備にさせる性質を持っ  ている。威厳とは正反対のものである。  それだけに紫式部はこれらの美質のもつ  限界を知っていた。これらは私的な家庭  的な世界では通用するけれども公の世界  には通用しない、問題にされないもので  ある、と。
       (《人物像の変形》
      『源氏物語の文体と文法』所収
       東京大学出版会 清水好子)

 このように、作者はそういう后像を否定する姿勢であったはずだ。その間藤壷には、作者の理想としていた漢籍の大后の性格を持った弘徽殿女御が後宮に君臨していた。

 ・弘徽殿大后が須磨に閑適を楽しむかのご  とき光源氏を攻撃し、「公の勘事なる人  は心にまかせてこの世のあぢはひをだに  知るだにかたうこそあなれ。おもしろき  家居にて世の中をそしりもどきて、かの  馬を鹿といひけむ人のひがめるように追  従する」趙高に比したのは、九等の最高  の聖人から愚人に引きずり下ろした価値  の顛倒があるのであって、(略)弘徽殿  大后の性格の強さ、スケールの大きさは  極まっている。物語第一部を書くときの  作者は理想主義に貫かれていたのである。      (《人物像の変形》
      『源氏物語の文体と文法』所収
       東京大学出版会 清水好子)
 だが作者は、その個性に、政治家としての后の要素を十分にあると認識しながらも、弘徽殿に理想の後宮を創造させなかった。源氏中心の後宮ということは、いうまでもなく、他氏の勢力が著しく低い状態になるということである。そして、後宮が朝廷を繁栄するという考えに立てば、その時の朝廷も、王氏や源氏の外戚に支えられた天皇…摂関政治以前の、権力天皇集中という事態をほうふつとさせる…という構図になる。その状態を冷泉以降の後宮で維持させ、宇治十帖の東宮をも源氏(明石中宮系)にするという継続の可能性まで与えていた。
 だが、その、源氏一統支配という形の、なんと、摂関政治システムに添った結末であろうか。弘徽殿女御が藤氏で作り上げることを許されなかった情況を、源氏で作り上げ、 『源氏物語』の現実は、それを非難することもできない。
 どうして弘徽殿は、作者が理想としていたらしい後宮を作り上げるのに不適切と判断されてしまったのか。藤氏である作者が、どうして、作者本人が見ている現実を否定するのか。もっといえば、作者が行なおうとしている藤氏の排斥は、政治を預かる人間の政治的観点で見れば、すぐにわかるものである。それをどうして、『源氏物語』の読者でもあったはずの王朝の為政者は看過するのであろうか。
 作者は、摂関政治以前の、より天皇の権威のあったの延喜・天歴の治でも目指していたのだろうか。それにしては、『源氏物語』においての政治体制の究極の姿は、その実現のために宮廷中を揺るがせるほどのものではないようだ。