源氏物語の後宮と紫式部の後宮

 源氏物語を読むにあたって、まず「後宮」というものがどういうものなのかということがわからないと、何で桐壷の更衣がイジメられたり、朧月夜が尚侍なのに時めいたり、源氏と頭中が差配して絵合せを催したり、柏木が「こんな奥さんじゃなぁ」とゴネる理由がいまひとつつかみにくいとおもいます。
 というわけで、源氏物語の時代を理解するのに必須のシステム「摂関政治」と、帝の奥さんの種類についてまとめておきましょう。

 摂関政治というのは、長く言えば「摂政関白が柱になって行なう政治」です。
 で、摂政関白というのは、朝廷で帝をサポートするいう、大臣を越えた権限もあるいは有してしまう役職です。
 それぞれもう少し細かく説明すると、摂政というのは、時の帝が女性だったり若年だったりする時に、その政治のサポートをする人のことです。推古天皇に聖徳太子、斉明天皇に中大兄皇子というように、当初は帝に近い皇族がなったものなのですが、藤原良房が孫・清和天皇の摂政に任ぜられてからは、臣下が摂政を勤めることがたびたびになり、摂関政治の時代では藤原家の専売特許みたいになっています。
 関白は、時の帝が成年であっても、その政治をサポートするためにおかれたもので、中国にあった例をひいて西暦887年に、宇多天皇が藤原基経にゆるしたのが始まりと言われています。これものちのち藤原氏の専売特許となり、藤原氏でないが関白になったのは、豊臣秀吉と秀次の二人だけだとか。

 さて、ここからは、一つのテストケースで摂関政治を説明して行きます。
 摂政・関白を身内から多く輩する家柄に、娘が有ったとします。
 その娘は、すなわち超一流の家柄ですから、帝の妃として後宮に入ります。
 よろしく寵愛が有り、その娘が男の子を産みました。母の家柄も問題なし、この男の子は次の帝となることになりました。
 この男の子が帝の位を譲られますと、この帝の母の父(これを外祖父といいます)が、帝はお若いから摂政を、という話になります。摂政というのは、ことと次第によっては帝のかわりをもできうる職ですから、その権勢は右に並ぶものはなくなります。
 そして帝が程よく成人した後は、摂政から関白となり、引き続き帝にかわり政治の実権を握ってゆき、新しい帝にも、摂政の一族から娘が有れば入内し、男の子がもうかれば…という、一見「なんじゃそりゃ」というらせん構造ができ上がるのです。

 ずいぶん乱暴な説明にも見えるかもしれません、実際そうですが。こうやって、自分の娘を嫁がせて、生まれた皇子→帝の祖父として権勢を手にし、帝丸抱えで権勢のスルーパスが行われるのが、摂関政治のスタンダードなスタイルなのです。
 話がそれますが、同じ帝丸抱えでも、政権の執行者が帝の父(上皇・法皇)なら、それは「院政」となります。

 でも、「少しでも上の位に」と、当時の貴族なら誰でも思います。家柄によってリミッターが設定されてはいるのですが、娘が有って、後宮にいて寵愛があり、皇子など生まれたりすれば、皇子の外戚ということでその待遇が向上されることを期待するのです。
 と、いうわけで、大抵、帝の後宮には複数の女性が妃として入内し、その家柄によって身分や扱いが定めて有りました。

 …

 その階級の詳細についてあれこれ書こうとしたのですが、どうもなんかしっくり来ないので、取り急ぎ源氏物語に必要な部分をまとめることにします。

<更衣>
 源氏の母桐壷はこの更衣でした。ほかにも、柏木の妻・落葉の宮の母も更衣です。帝の妻としては最低の階級になります。
 もともとは中国で、皇帝の衣装を換えたりするような時に侍っていた宮女を指していたのを、日本の後宮でも使用したようです。最初は、ようよう殿上人のはしくれ、という身分でしたが、少しずつその扱いも変わり、源氏物語では四位前後だったと推察されています。(桐壷更衣の贈従三位という古都が有りましたが、従三位はすでに女御のランクです)
 源氏物語の想定された当時には存在していた階級でしたが、冷泉天皇の時代までにはすたれたもので、源氏物語でこの階級を使用しているのは、物語の想定を近過去のどこかにおくためと思われます(ついてながら、桐壷帝のモデルは村上天皇といわれているようですが…さて。)
 更衣が後宮に複数有ったときには、住まっている殿舎の名前、あるいは父親の官位などで呼び分けをしたようです。

<女御>
 源氏物語が書かれた時代の女御は、殿上人の中でも比較的位が上のひとの娘がなりました。(桐壷も、父親が死んでいなければ女御ぐらいになったでしょうが)
 ここからあたりがいっぱしの「帝の妻」というかんじで、ここから中宮が選ばれるのがだいたいの定石だったようです。
 女御が複数あるときは、住まっている殿舎の名前で呼んだりしましたが(弘徽殿とか麗景殿とか)、源氏物語にはほかにも、王氏(帝の親戚)が入内して呼ばれた「王女御」、伊勢の斎宮が還俗して入内したため呼ばれた「斎宮女御」がいます。

<中宮・皇后>
 女御の中でもっともバックグラウンドが分厚いひとが、宣旨をうけて中宮になります。ここから先は臣下の列を離れ、身の回りのあれこれを管理する「中宮職(ちゅうぐうしき)」という、専用の役所がつきます。ふつう、「きさいのみや」という記述がでれば、源氏物語では中宮のことです。
 皇后は、中宮が二人生じた場合、年期が上の方が皇后ととする、ようなことで設けられたようですが、皇后と呼ばれた定子と中宮になった彰子の話はものすごく背景が複雑です…

<尚侍>
 これは純然たる「帝の侍女筆頭」ですから、本来職業婦人なのです。ですが、常にそばにいる→「お手付き」確率が高い、というわけで、帝の妻同様の扱いもよく有った、ということのようです。源氏物語では、妻と同義の尚侍を朧月夜が、職業婦人としての尚侍を玉鬘がそれぞれ勤めています。

<御匣殿>
 これで「みくしげどの」と呼びます。帝の衣装を調整したりする場所のことです。ここに詰めている女官の筆頭を「御匣殿別当」とよび、帝と顔を会わせる→手が付くのルートで妻と同列になり、女御になった例もあるそうです。
 朧月夜は、尚侍になる前の一時期、この御匣殿別当をつとめ、職業婦人としての勤務態度もなかなかだったようです。

 さて、誰も誰もこぞって、宮廷における影響力を強める為に娘を入内させるわけですが、同じ「帝の妻」であっても、中宮・女御・更衣など、それぞれ階級の間には、身分という厳然とした壁が有ります。
 付け加えるならば、帝の寵愛というものは、妻一人ひとりが持っている階級に応じて篤くなるべきという考え方であったようです。もっとぶっちゃけて言うと、一族が権勢を持てば持っているほど、帝の寵愛も篤くなるわけです。源氏物語で言えば弘徽殿の女御みたいな、強大なバックグラウンドをもった女御が、清涼殿に近い殿舎に入ることも、そうした表の権勢がそのまま後宮の中に反映したというわけです。後宮と宮廷の権力の大きさというのは、実にあからさまに連動していたのです。
 別掲の清原の卒業論文にもありますが、権勢のある家族を持つ妻は寵愛が篤くて当たり前、そうでない妻は寵愛がなかなかなくて当たり前、というのが、この時代の後宮の当然の認識でした。父親がすでに他界して、その遺言でやっと入内をしたものの、宮廷でのしっかりしたバックアップ(「うしろみ」といいますが)がない=寵愛を受けても得をする廷臣(男の親族)がいないという桐壷更衣が、時の帝の寵愛を一身に受けることが、いかに普通でなかったかというのが、何となくわかるとおもいます。逆に、尚侍である朧月夜が、朱雀帝の後宮で女御並に時めいたのも、ただ、帝が彼女を気に入ったということだけが理由でないのも、何となくわかると思います。朧月夜は、源氏とのスキャンダルがなければ、なんの障害もなく女御として入内できたはずなのですから。
 同時に、その寵愛により生まれる子供にも、母親の階級による影響が有りました。柏木に朱雀院の女二宮(落葉の宮)が降嫁した理由もこれにあたります。皇女降嫁を希望していた柏木に対して、「柏木なら彼女が身分的にも適当だろう」というわけです(ほんとうはもうちょっと物語的に伏線が有るんですけどね。本当に柏木が降嫁を希望していた皇女は女御腹で彼には分不相応と思われていたのは確かです)。
 つづく。