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 折りよく、季節は夏になろうとしていた。
「…あつ…」
書類を書くにも、パーチメント(羊皮紙)がペンを持った腕に張り付くようなこともある。
「ティルナノグにいた頃は、こんなに暑かったら、川に飛び込んだりしたものだけどなぁ」
と呟く。珍しくオイフェが王宮に来ていて、
「そんなこともありましたな。全身ずぶぬれにして、エーディン殿の仕事を一つならず増やしておられましたね」
そう返した。
「…もしやセリス様、そうなさりたいとでも?」
「許されるなら、ね」
「まず無理でしょうな」
オイフェの返答は冷静だが、夏の略式の礼装でも暑いものは熱い、伝い落ちる汗がヒゲに引っかかっている。
「今はオイフェのその顔が暑い」
「無理を仰りますな」
「フィーは北国育ちだから、だいぶ参っているんじゃない?」
「そうでもありませんよ」
「つれてきたんでしょ?」
「ええ、ラナやユリア皇女に会いたいと駄々をこねられまして、仕方なく」
そう言う間にも、窓の外では、きゃらきゃらと笑い声がする。
「いいねぇ…気楽で」
セリスが窓の外を見てため息をついた。見える中庭では、水を引き込んだ人口の池に足を浸して何くれと話している三人の声が聞こえる。
「こっちは旱魃で不作になりそうな地方のこれからを考えているところなのに…」
と、手の辺りが汗じみた書面に向き直ったとき、ばしゃん、と大きな水音がした。
「!」
その音に再度振り向くと、人影が一人消えている。
「ラナだ!」
セリスはペンをぽい、と放り投げ、開いている窓から外に飛び出していった。
「うまいこと…職務放棄なされましたな」
こんなことをしても恨みようがないのは、一体どなたに似たのでしょう。全く。オイフェはぶつぶつ言いながら、略礼装の上着を脱ぎ、髪も張り付くような汗をぬぐった。

 「あーあーあー」
出て来てセリスは額を押さえる。最初が事故なのか事件なのかそれもわかりようもなく、今は三人とも泉のなかだ。泉は綺麗にタイルと石で組んであるので、水ににごりはなかったが、三人がずぶぬれなのは確かだ。
「フィー」
まずセリスはそっちに話しかける。
「今の格好、オイフェが見たら大変なことになりそうな感じ」
三人ともすっかり夏の衣装になって、ビスチェも使わず、柔らかい帯でまとめているだけの格好は、見るものが見たら結構刺激的だ。セリスは中のほうに
「メイドを何人か、体拭く布と一緒によこして」
と言う。
「ユリアもラナも…
 一体、最初に落ちたのは誰?」
セリスがそう尋ねるとラナが
「落ちたのではありません、滑りました…」
と、肩口まで水に浸かったままで言う。
「どっちも同じだよ」
ユリアとフィーはもうメイドに連れて行かれたが、セリスは、メイドから布を受け取るだけで
「おいで、体拭くから」
と、まるで子供に言うように言う。
「はい…」
冷たい水に長く浸かっていたラナは、顔も体も真っ白で、薄地の服もぴったりと張り付いている。
「こんなに冷たくして…」
と、出てくるラナを受け止めようとして、セリスは
「わ」
ぎく、と体をこわばらせた。薄地とは聞いていたが、ラナについているウルの聖痕まで見えるほど透けているとは思わなかった。
「早く、着替えよう」
ラナを布で包み込む。
「まるで裸だよ、これじゃ」

 季節はずれに暖炉に火が起こされ、ラナは髪を乾かされている。ティルナノグで立ち上がったときは、まだ伸ばしかけで、肩口でくるくるとまとまっていたのが、それから都合二年になるか、濃い金色がゆらゆらと、背中を半ばまで覆うほどになった。
「それにしても…」
セリスは、そんなラナの様子を見ながら、幾分ずれていたことを考えていた。
「あのウルの聖痕の上のほうにみえたのは、何の色だろう…」
すると、ラナがちらりとセリスをみた。
「何?」
尋ねると、部屋の暖かさに赤くなった頬で、ふい、と明後日の方向を向く。
「…恥ずかしいなら、あんな格好もうしないほうがいいよ」
「…はい」
「僕戻るけど、風邪ひかないようにね」
「…はい」
セリスが部屋を出ると、あれほど暑かった空気が一瞬ひやっとするほどに思えた。

 その夕方。いつも夕食が一緒のはずのラナの姿がない。
「ラナはどうしたの?」
と尋ねると、近習が
「王妃様はお体の具合が思わしくないそうで…ご自分のお部屋でとられると」
「…そう」
いわんこっちゃない。セリスはそう呟いた。ただでさえ、この内輪の食堂は、二人でももてあましそうに広いのだ。それが一人はもてあます以上に物足りない。
「ねえ」
「いかがされましたか陛下」
「この後、ラナのところ、行ってみてもいいかな」
近習が思わず聞き返す。セリスは、
「だから、風邪かも知れないから、見舞いに行くの。それとも、僕にはそれもだめなわけ?」
と言う。近習は目の色を変えて、部屋を飛び出していった。

 セリスが来る、という。水に浸かるにはまだ早かったか、けだるさが抜けないので夕飯を一緒に食べなかったら、セリスが心配を始めて、そう言うことになったらしい。
「やりましたわね、王妃様」
メイドが小躍りした。そもそも、そうなるように衣装を用意したのは王妃づきのメイドたちなのだから、してやったりと言うところである。
「いらしたら、人払いをかけてしまいますからね、どうなさるかは、お教えしたとおりですよ」
「…は、はい」
ラナは布団に顔の半分以上をうずめてしまう。そのうち、「陛下のおなりです」と声がして、
「ラナ、大丈夫?」
とセリスが入ってきた。

 セリスは少し遺憾な顔をしていた。
「三人の中で、一番水に浸かっていたんだから、こうなりそうな気はしたけど」
そう小言じみていう。
「礼法の先生に叱られるね、国王や王妃の自覚がないって」
「…そうですね」
と言うラナの頬はまだ赤い。
「本当に風邪にならなきゃいいけど…」
その頬に、セリスが手を触れる。
「もう、あんな格好はだめだよ」
「はい」
「僕しか見なかったからいいけど、すぐ近くにオイフェもいて、書記官とか、近習とか…いたんだから」
「セリス様」
ラナが頬を一層熱くして
「…やちもち、ですか?」
尋ねる。セリスははた、として
「…違うと思うよ。僕は、ただ、君のそういう姿を他の人に見られたくなかっただけで」
そう言う。ラナの目が笑むように細くなって、
「それが、やきもちです」
と言った。
「…僕が、やきもち?」
「はい」
「…実感ないなぁ」
セリスがアゴをひねる。
「じゃ、また、泉で滑りましょうか?」
「いいいい、そんなこともうしないで」
ラナが布団から少しだけ出てくる。それを見て、セリスが
「ラナ、髪伸びたね」
と言った。
「エーディンみたいに綺麗に伸ばすんだって、前から言ってたけど、本当にそうなりそうだ」
「はい」

 そう言う他愛ない話をしている間に、人の気配がなくなっているのに気がつく。
「あれ、周り、誰もいないの?」
「…私、眠っていることになっているので…」
「無用心だなぁ」
「誰も呼ばなくていいんです。たぶん、呼んでも来ません」
「え?」
「セリス様」
ラナが、セリスの背中に、熱くなった額を当てる。
「いつかお母様がしてくださった、私達がそのうちお父様やお母様になるって話…覚えてますか?」
「うん…なんとなくは」
「あの後セリス様は、お母様になるにはお父様になる人が必要だといった私に、その人が出来たら教えてほしいと仰いました」
「そんなこと、僕言ったっけ」
「はい。決まったので、お教えしようと思って」
「へぇ…誰?」
「セリス様です」
「…僕!?」
セリスは振り返って、寝台に乗りあがって、ラナを見る。
「私ずっと、私をお母様にしてくださる人はセリス様しかいないって…思ってました」
「どうしてもっと早く言わないの」
「いままで言う暇がなくて…セリス様はお忙しい方だから」
呆然としたセリスに肩をつかまれ、ラナはぽつぽつとそう返す。
「でも、君が僕に言わずにそうきめていたとしても、君には子供が出来ないね。それはどうして?」
「…心にきめただじゃ、まだ足りないんです」
ラナの顔は、これ以上もなく真っ赤だ。しかし、目だけは、真剣にセリスを見る。
「式を挙げた夜、一緒に眠りましたよね」
「…うん」
「本当はそのときに、しなければいけないことがあって…でもセリス様はおやすみになってしまって…」
「しなければいけないって…何を」
「それをこれから、…私と一緒におぼえましょ、ね?」

 紆余曲折があって、セリスが次に我に返ったのは、夏の早い日の出と同じ頃だった。ラナはまだ、となりで眠っている。その白い肩が日に照らされてまぶしい。
「うーん…」
セリスは寝乱れた髪を掻いた。自分がすべきことは納得したが、ラナの反応が納得できない。着てきたシャツを着なおすと、背中がちり、と痛んだ。
「あんなにかわいそうな姿…いつもいつも見てられないよ…」
寝台を抜けようとして、枕元にカードがあった。
<驚かれたかもしれません。でも、女の子は通らなくてはいけない道なんです。
 こんなお願い、私からするのは変かもしれませんが…また、来てください>
「あんなにつらそうにしてたのにまた来てほしいなんて…よく、わかんないや」
セリスがあと納得できたことといえば、彼女のウルの聖痕に初めてふれたときのふわふわしたものの正体がわかったことか。
「次来たら、あんな辛い顔、しないかな」
セリスはそっとラナの部屋を出た。もうじき、性懲りもない近習と儀礼官が、
「国王陛下お目覚めの儀式ぃ?」
とやりそうな気がするのだ。

おわり

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