キュアンの代わりに、控えていた側近が、エルトに立太子の祝いを述べ、
「こちら、レンスター王妃陛下より預かりました書状です、お納めください」
と、封筒を差し出す。エルトは、一見無表情に、しかし、少し困惑でもしているようにそれをうけとり、すた、と立って、そばの机の中にしまってしまう。
「読まないのか?」
とシグルドが言うと、
「お前たちがいるところで読めるか」
エルトは憮然と返して座りなおし、
「それよりシグルド、座学の課題はすすんでるのか?」
にんまりと笑った。
「…話題をそらしたな」
「いや。今年の座学はかなり痛ましい有様と言うのは、有名な話だ。聞くつもりでもなく、俺の耳に入ってきた」
なんなら、今からでも教えようか?と言うエルトのうかがうような視線に、シグルドはぶんぶん、と首を振る。
「お前と差し向かいじゃ、教官と差し向かいみたいな気がしていやだ」
「つまらん」
エルトは、心底からそう思っているような声を出した。と、
「殿下」
ノディオンの廷臣が入り口のほうで
「お話のところ申し訳ありません、陛下のお呼びです」
と言う。
「なんだ…もうそんな時間か」
エルトはしぶしぶ、と立ち上がる。
「もう少し、父上のご機嫌をとってくる。レセプションの後、誰か部屋に案内してくれると思う。
二人でいられる部屋にしたが、お前は別に一人がいいか?」
「は?」
シグルドがふと眉を寄せる。エルトはシグルドの頭越しにその向こうを指さす。振り向くと、キュアンは何とかエスリンの機嫌を取り戻そうと、かえって、余計に言葉がかけにくい雰囲気を漂わせている。
「冗談だけどな。少し離れてしまうが、エスリン嬢にはちゃんと別の部屋がある。
…二人が満足するまで、邪魔するなよ」
エルトはそう言って、廷臣に導かれるように部屋を出て行った。
しかし、何故レンスターの王妃がエルトあてに手紙など送ってきたのだろう。そう呟くと、キュアンの側近が
「あれは、表向き王妃陛下からのお手紙となっておりますが、その実は、レンスターにおられるグラーニェ様からのお手紙です。
今回に限り、私がお手紙の使者をおおせつかりまして、あのかたちでお預かりしてきました」
そう答える。
「ああ、キュアンから聞いたことがある、エルトの婚約者の」
「然様です」
邪魔をするなと言われたが、シグルドはキュアンたちを流し見た。エスリンは機嫌を直したと言うか、かえって拗ねたそぶりで困らせているようにも見える。
エスリンの機嫌は直っているのかいないのか、むっつりとしてキュアンと目を合わせようともしない。
「エスリン、教えてくれ」
すっかり当惑した顔でキュアンがそう言う。
「私はどうしたらいい?」
エスリンは、キュアンの手をとって、すたすたすた、と続きの部屋に入ってゆく、
「うわわ」
シグルドや側近の目もすぐには入ってこないところで、エスリンはうつむいたまま
「いつまでもエスリンだけと、ここでもう一度お約束してくださいまし」
と言う。
「何度でも約束するよ。私は君じゃなきゃだめだから、卒業まで結婚の話にしないというバイロン卿の言葉を守っているのだから」
エスリンは、キュアンの、礼服の手にはまっている手袋をモジモジといじりながら
「言葉じゃなくて…この間の舞踏会みたいに…」
消え入るような声で言う。キュアンは腹が据わったようにふう、とため息をついて
「それならそうと、言ってくれればいいのに」
といった。
そんなほんのりと甘い出来事が、壁の向こうで起きていることなど、シグルドは知る由もない。
話し相手もいなくなって、静まった部屋の中、式典の緊張がほぐれた彼は、テーブルに伏して寝息を立てていた。
ノディオンでの数日は、あっという間に過ぎた。
しかしシグルドにとっては、まるで学校に戻ったような数日だっただろう。
原因は…やっぱりエスリンである。
式典のあった夜、キュアンが貸した耳の関係で話をしていると、
「お兄様」
と、エスリンの声がする。入って来いと言っても、入る気配がない。
「しょうがない」
シグルドが部屋の入り口まで出向いて
「入ってくればいいのに」
と言うと、エスリンは暗闇の中でもはっきり目じりを染めて
「入れません、あとは寝るだけの格好なんて、キュアン様になんか見せられませんもの」
といった。
「まあ何でもいいけど、どうした?」
「お兄様の忘れ物です、お部屋の机の上に」
と、書類箱のようなものを手渡される。いや、実際に書類箱だった。ふたに、シアルフィ公爵家の紋章が箔押しになっているのが、中からもれ出る明かりでわかる。
「大切なものだったらいけないと思って、荷物になるけど持ってきたんですよ」
エスリンはそういって
「おやすみなさい、お兄様。キュアン様にもそのように」
と、薄暗い廊下の中、メイドを一人従わせて行ってしまった。
「…やられた」
中に戻ってきたシグルドに、キュアンが話しかけようとして、
「その箱…」
という。
「わざと忘れてきたつもりだったのに」
課題の詰まった書類箱。キュアンはもう今まで話していたことなど吹っ飛んで、枕に突っ伏して笑いをこらえている。そのあと、
「ちょうどいいじゃないか、いい友人が二人もいれば、課題も早く進むぞ」
「お前はまだ友達感覚で教えてくれるからいいが、エルトに教えてもらうのだけは勘弁されたかった。あいつは手加減てものを知らないんだから」
「俺がどうかしたか」
二人が顔を上げると、エルトが立っている。ここはエルトの自室で、続きの客間に相当する部屋を整頓して、友人の部屋に仕立てられていたのだから、部屋の主人が話を聞いたところでおかしいことではない。
「あ、いや」
「…それ、お前が士官学校で使ってる書類箱じゃないか」
「…観念するんだな」
キュアンがにや、と笑う。シグルドはがっくりと肩を落とした。
それからの数日は、シグルドにとっては筆舌に尽くしがたい、課題完遂までの果て無き旅だった。エルトはシグルドが腕のしびれる思いで書き上げた課題の小論文を、一瞥すなり
「却下」
とする。
「また書き直しかよ!」
と声を荒げるシグルドにキュアンがなんだかんだと却下された論文の推敲を教え… 書類箱に入っていた限りの課題がすべて終わったのは、明日明後日にはシアルフィに帰ろうという日だった。
「惜しいことをしたな」
とキュアンが言う。
「バイロン卿は、この式典でノディオン美人の一人でも見つけてくればと思われていただろうが、ここでの恋人は腐れ縁の課題だったとはね」
「まぁな」
どういう事情であれ、家で出来上がった分を含めると課題はほぼすべて終わっていた。あとはシアルフィに帰ってキュアンを相手にすれば、何とか終わるだろう。そう思うからこそ、わざわざ荷物になる書類箱を持ってきたエスリンを頭ごなしには怒れない。そのエスリンは無邪気に
「エルト様は、これからの夏のご予定はどうなっていらっしゃいますか?」
と尋ねる。エルトはしばし考えて、
「士官学校に戻ろうかと」
という。
「え、まだお休み、半分しか経ってないのに」
「ノディオンに留まるより、そのほうが私は楽なので」
エルトは、普段からカラッと明るくない顔をさらに曇らせた。シグルドはそこで
「しかし、士官学校に戻って、いつもどおりの寄宿舎暮らしはもったいなくはないか? エリオットと顔をあわせるのは、お前だっていやだろう」
という。エルトはシグルドを見て、
「お前、何か考えているな」
という。
「当然さ。初めての夏期休暇、楽しむのはこれからだ。
エルト、シアルフィにくるんだ」
「お前の課題の手伝いにか?」
「ちがうちがう。純粋に休みに」
「誘いはありがたいが」
エルトが渋るが、シグルドは
「偶然とはいえ、課題を手伝ってくれた礼もしたいのに、それでもだめか」
というが、
「お前とは進む道が違うんだ、あきらめるんだな」
彼の意思は固いようだった。
「しょうがない、そう言うことならあきらめよう。
…キュアン」
シグルドがキュアンに目配せをする。キュアンが側近を呼ぶと、王子係の廷臣がなにやら荷物を抱えたのを従えて、側近が帰ってくる。
「ご苦労」
「…どういうことだ」
エルトが片眉を釣り上げる。シグルドもしかりだ。
「エルト、君をノディオンから連れ出すことは、すでにお父上の陛下から許可をもらっている」
キュアンはにんまりとわらった。
「シグルドの言うとおり、夏期休暇を楽しむのはこれからだ。
だが、場所はシアルフィじゃない、レンスターだ」
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