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 「うわ、うわわわわ」
トラバントは、竜のどこにつかまっているのかも分からない。ただ、足の下には、何の感触もなかった。竜は、頭の網を払うのに難儀をしているのか、迷走をしているような感じはした。
 そのうち、どん、と衝撃がして、
「わぁっ」
竜から手を滑らせたトラバントは、何かに受け止められた感触を背中に感じはしたが、気を失ってしまった。

 何時間自分は寝ていたのだろうか。目を覚ましたらすっかり夜だった。
「最悪の展開だな」
空を見上げて、トラバントは呟く。さっき翡翠の竜がくつろいでいたのと似たような、渓谷の中の小さな草原にいて、月がぽっかりと、その真上に浮かんでいた。
「そうだ!」
あの翡翠の竜はどうしたのだろう。もしかしたら、自分をここに払い落とすのに成功して、どこかに飛び立ってしまったのか。
 否。翡翠の竜は、自分のすぐそばにいた。月の光を全身に浴びて、淡い翠に輝いて、何色か分からないが、自分を見据えていた。
 トラバントが近づこうとすると、竜はカアッと威嚇の声を発した。
「大丈夫、なにもしない」
と言いはしたが、くつろいでいるところに突然襲ってきた相手を、すぐ近づけるようなものでもないだろう。
「ごめんな。びっくりしただろう」
と言う彼の鼻に、血のにおいがした。
「…俺か?」
自分の服をかいで見たが、自分が怪我をしている気配はどこにもない。が、
「あ」
竜を見て、トラバントは思わず声を上げた。
「お前、怪我したのか」
と言った。怪我がどんなものか、確認しようと思ったが、竜は威嚇の視線をトラバントから離さない。
「夜が明けたら、みてやるから、な」
そういって、トラバントは、自分の体にくくりつけていた荷物から毛布を取り出して、竜の邪魔にならない場所でそれにくるまった。

 しかし、眠ったかと思ったら、すぐに夜が明ける。竜は、どこにも行かないようだった。いや、行けなかった様だった。
「うわ」
そばの崖には確かに竜の巨体がぶつかった痕があった。崖を蹴ってそれを回避しようとして失敗したのだろう、爪痕があり、その脚はひどく痛んでいた。傷はライブで治るだろう。しかし問題は、そのライブの魔法を扱える人間のいるトラキアの城からどれだけ離れてるかということだ。
 トラバントは、谷川の水で顔を払って目を完全に覚まし、荷物を確認した。昨晩使った毛布と、携行食が数日分。傷薬も少し入っていた。
 荷物は全部、皮の袋に入っている。トラバントはそれを全部毛布の上に投げ出し、代わりに、水を汲んだ。竜は、トラバントが見るたびに、威嚇の視線を向けてくる。
「水、飲むか?」
と袋を見せたが、それには反応しなかった。変わりに、怪我をしている脚のほうによってゆく。運が悪ければ、尾で弾き飛ばされていただろう。しかし運のいいことに、竜の尾は体に押さえられ、動かすことはできても、振り回すことはできなかった。
「それっ」
何度か、くみ上げた水で土まみれの傷を洗う。人間で言えばつま先の辺りの骨が折れているように見えた。傷から、骨が見える。その出血のにおいだったのか。
「効くかな」
そう呟きながら、傷薬をその傷に塗りこもうとすると、竜が威嚇の声を上げた。
「バカッ」
トラバントは、思わず竜を一喝した。
「ダインを乗せた竜が、こんな傷で騒ぐなっ」
そういいながら、傷薬を塗りこむ。人間なら数回は使える分量だが、竜の傷ではやっと一回分だ。
「これで出血と痛みは治まるぞ」
と言うと、竜はもたげていた首をごてっと落とした。

 観念したのだろうか、この人間は害がないと判断したのだろうか、竜はもうトラバントを威嚇しなかった。袋に入れた水を、ものすごい勢いで飲み干す。
 その姿を見ながら、実はこの翡翠の竜には、傷跡が多く残っているのに、トラバントは気がついた。
 砦で神器を下された後も、聖戦士達は大司教ガレとその手先と対峙し、果敢に戦った。きっとこれらはそのときの傷に違いない。そして、竜の眉間には、確かに、傷とは違う形で刻まれた、ダインのしるしがあった。
「お前、人間だったら、きっと聖人と同じ扱いになってるぞ」
その顔の脇に座り込んで言うと、竜はトラバントの顔を見たくないのか、目を閉じてしまった。

 「さて」
不自然に倒れたままでは、竜の体に悪い。片方の羽と尾がせめて自由にならなければ、下手をするとまた怪我をしてしまう。しかし、成長を止めることを知らない老齢の竜は、トラバントが見てきた、どの竜より大きかった。
 どう考えても、今の彼の持ち物と体力では、この理由の姿勢を変えることなど無理な話だった。考えるのをやめたとき、腹時計が、彼が食事を忘れていたのを気づかせた。
「腹が減っては戦はできないんだぞ、と」
トラバントは、毛布にくるんであった携行食を一つあけた。パンと肉が、乾燥させて包んであるだけだ。彼が王子でも、携行食まで贅沢なことはできない。
「えーと」
トラバントは四方を見回した。ひょっとしたら、何か食べられる実でもなっていないかと思ったのだ。しかし、それは徒労だと彼はすぐに気がつく。渓谷の小さな緑のすき間に、木はたしかにあったが、実の季節にはまだほど遠かった。
 荷物にあった小さな水筒に水を汲み、乾燥して硬いパンを口の中でふやかしながら食べる。食べながら、トラバントは竜をみた。この竜を城に連れて帰ることができたとして、一体こいつはどれだけ食べるだろう。それ以前に、こいつも餓えてはいないかな、と。
 手を付けずにいた乾燥肉を手に、トラバントは竜に近づいた。
「食べるか?」
と差し出した肉を、竜は一瞥して、興味なさそうに目を閉じた。
「食べないと、飛べないぞ」
と言うと、竜は片目だけあけて、縦に裂けた瞳孔でトラバントをみた。首が動く範囲の当たりに肉を置くと、竜は興味津々と見つめているトラバントの視線に、根負けしたように、彼(彼女か?)にとっては、指の先ほどにも成らない肉の塊を、一口で飲み込んだ。

 トラキアからは、なかなか創作の手が回ってこない。
 雨の少ない気候は、取り残された彼らにはむしろ幸運だったが、側の木に、過ぎた日にちを刻み込んだ傷が増えると、いやがうえにも不安になるものだ。
 竜の傷は、傷薬で癒えはいたものの、本当に出血と痛みを止めただけで、本格的な治療はトラキアの城で行なわなくては成らないだろうし、トラバント本人も、一日分の食料を二日にし、三日にしで、そろそろ体に疲労感がたまってきたようだ。
 潅木の陰で、毛布にくるまって、死んだように眠っていたトラバントは、なにかの、激しい物音で跳ね起きた。
 竜が、体を起こそうとしていた。不自然な体勢で寝転がされて、抑えられていた片足と片翼が、いよいよ自重に耐えられなくなったに違いなかった。
 しかし、体勢をかえるには、どうしても、傷ついた足に力を入れなくではならない。手持ちの傷薬はもう一つも残っていない。それなのに、竜は、傷ついた足に何度も力を入れたものか、また出血がはじまっていた。傷が痛むのか、それとも、自分に喝を入れるためか、竜は何度も、空気を震わせる咆哮を放つ。
「何してるんだ!」
トラバントはこけつまろびつ走り寄ったが、どうしていいかわからない。傷のついた足の代わりに、竜の体重を受け止められるような膂力も無かったし、反対側に回って、竜の体を押し上げる腕力も無かった。
 しかし。今まで気にもしなかったが、竜の体の下に、捕獲する時に投げられた網が残っているのが見えた。あれをうまく使うことができれば。
 トラバントは、網の一端を握って引っ張った。網に引っ掛かっていた片方の翼が、ねじれるように出てくる。竜がまた吠えた。
「羽ばたけ!」
トラバントは声の限り竜に言った。
「片方の翼だけでも良いから、羽ばたけ!」
竜が、閉じていた自由な翼をひろげ、ばさっと動かした。ものすごい風圧で、トラバントは転げそうになる。
「もう一回!」
それでも、網を引きながら言う。両方の翼が自由になれば、羽ばたくことで得られる揚力が、正しい体勢に戻してくれるはずだ。
 ばさっ。
 とうとう、両方の翼が自由になり、絡まっていた網と一緒にトラバントをはね飛ばした。トラバントは、ごろごろん、と草の上を転がったが、竜の体が完全に浮き、足を付けるのをしっかり見た。
「やった!」

 竜は、崖に寄りかかり、座るようにして立っていた。
「やれば、できるじゃないか」
トラバントは、思わず、竜の首を叩いていた。竜は、一瞬トラバントを睨み付けたような気がしたが、きょとんと、自分を見たようなようにもみえた。
 そして竜は天を仰ぎ、一声高く咆哮した。
 それとほとんど同時に、聞えてくる、竜の翼の音。

 捜索隊は、最初、翡翠の竜がいた場所を中心にして、何日もいなくなった王子を捜索したそうだ。
 それでも芳しい結果は得られず、範囲を広げたがそれも効果なく、
「今度王子を発見してこなんだら、お前らの首を落として、指一本残らず竜に食らわせるぞ」
という怒髪天の王の勅命をうけ、とにかく全土をしらみつぶしに、と決めあった時に、竜の声が聞えたというのだ。
「とにかく、無事でようございました、これで我々の首もつながります」
捜索隊長の言葉は、自分達の命も助かるという実感のこもった、実にしみじみとしたものだった。しかしトラバントはそれに耳も貸さず、ついてきたプリーストにかじりついている。
「治りそうか?」
「はい、なんとか」
竜は、突然増えた小さい生物達を、けげんそうに眺め回している。トラバントは、翡翠色の鱗でおおわれた首を叩いて、
「心配するな、元通りに治る」
と言った。

 竜の足は何でもなかったかのように治り、一同は
「それにしても、大きな竜ですなぁ」
「我々の竜の一回りありますなぁ」
と、翡翠の竜を見上げている。と、その首の付け根あたりにひょこ、と飛びでた影があった。
「お、王子!」
捜索隊の面々は泡を食う。トラバントは
「俺はこれで帰る!」
と言い出す。
「しょ、少々お待ちくだされ王子! くつわも手綱もなしに乗るのは危のうございます!」
「心配ない、こいつは聖ダインの乗っていた竜だ、トラキア城の場所なんかすぐわかる!」
トラバントのその声は、もう捜索隊のはるか頭上にあった。

 帰還する捜索隊を下に見ながら、トラバントと竜は悠々と上空の風をつかむ。
「聖ダインも、この景色を見たのかなぁ」
珍しく神妙に、トラバントは呟いた。
何もない国だけど、自慢できるものはある。どこまでも済んだ空と、竜を流々と運ぶ風達。
「ああ、そうだ」
トラバントは、古老の昔話を思い出していた。
 古老は、エッダの神の教えが広まる前の昔話を沢山話してくれた。全てのものに神が宿り、人々はその神々に感謝して日々を暮らしていた、と。
「…アイオロス」
自然に、その名前が口をついていた。東西南北の風を操り、嵐さえも赤子のように鎮めた、風の王と呼ばれた英雄の名。
「アイオロス、いつまでも一緒に、この空を飛ぼう」
竜は、何も応えなかった。ただ、見えてきたトラキアの城に向かって、懐かしそうに羽ばたき、少し速度を速めただけだった。

 あのころは小さかった木も、今は相応にそだって、トラバントが助けられるまでの日にちを刻んだ傷は、ほとんど消えかかっていた。
 不思議そうに四方を見回していた竜に、
「どうだアイオロス、昔のことを思い出したか」
というと、その質問には答えたくなさそうな気配だった。そこに
「おとうしゃま」
と上から声がかかる。
「アルテナ?」
うたた寝から起きていたアルテナは、竜の首を伝って、その額の辺りまできていたのだ。
「ずいぶん気にいられたようだな」
混ぜ返すように言うと、竜は頭をずいとさし出し、この小さい生物を自分からはがせ、と言いたそうな顔をした。

 まだ何十年も、この竜と苦楽を共にするのだ。
 トラバントは、城に戻る道つくづくおもった。
 しかしトラキアのこの大地が、緑を受け入れる事を、きっと自分は見ることはない。そんな気がした。そうなる時は、きっと、この半島が何らかのひとつの意志によって統一された時だ、とも。
 ひょっとしたら、この小さな「娘」は、その意志の重要な一かけらを握っているのかもしれない。
 しかし後悔はしない。その意志の統合が、トラキアの名のもとで行われればいいだけの話なのだから。
 アルテナは、アリオーンへの手土産にと摘んだはずの花を、ひとつとってながめては空にふわ、と放してしまう。
 白い小さな花は、トラキアの赤い大地に吸い込まれて、すぐに見えなくなった。
「アルテナよ」
そのアルテナに、トラバントが問い掛ける。
「もし、俺がもうアイオロスに乗れなくなった時には、お前が乗るかね?」
アルテナはそれに「うん」と力強く即答した。
「だって、ろしゅ、きれいだもん」


をはり。

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