それから先のしばらくの時間を、私は一生忘れることはないだろう。私はかの、夫人によって、生まれ変わるような心持ちをはじめて味わった。
 健やかに均整のとれた夫人の体は、私の上でのびやかにそる。寝台の作法にまるで疎い私を、導きつつ励ましつつ、いつのまにか、私は、日が暮れ、夜がふけるのも忘れていたた。
 夫人は私に、何度もささやかれた。
「好きよ」
私はその言葉に、浮かれてさえいたのである。夢のような時間の後の、夫人の姿を見るまでは。

 数時間ほど眠っていたのだろうか、我に返ると、部屋の中は薄暗く、かきいだきながら意識を失っていったはずの夫人のすがたもない。
 私は、簡単に身支度を整えた後、寝台の帳から出る。庭代わりの林の中に通じる大窓が開いていて、カーテンが風に弱々しくゆれていた。
「…?」
夫人は、窓を出てすぐの、木のまばらな空間に、月の光が差しているなかに、ぽつんとたたずんでおられた。私のいることがおわかりになったのだろうか、向き直られて、
「目を覚ましたのね」
とおっしゃられた。
「…どうされたのですか、こんなところで」
私は一応聞きはしたが、それよりも、一抹の違和感にとらわれていた。寝台でのかの夫人のふるまいからは考えられないほど、今の夫人のかもす雰囲気はある種凛然として、侵しがたいものすら感じられる。
「…風にあたっていたのよ。起こすつもりはなかったの」
とおっしゃるお声で、すぐ納得がいった。今、私の目の前におられる夫人が、本当の夫人のお姿なのだ。
「あの人になんといわれてここに来たのかは知らないけれど…災難だったわね」
「災難?」
災難、という言葉が、私が夫人と情事をもったことだとわかるまで、一瞬の間があった。
「災難だなどとおっしゃらず。私は貴女をお見受けできて、光栄とすら感じております」
「本当に? あなた、あの人にからかわれたのよ。
いえ…こういう言い方は悪いわね。あなたは、あの人が私を貶めるための手段として、たまたま選ばれただけよ」
「貴女をおとしめる? どういうことですか? あの人とは?」
突然、にわかには信じられないようなことを並べられて、私は幾分焦燥の表情すらしていたかも知れない。それをご覧になったのか、夫人は、銀色の髪が月光をプラチナ色に反射させるなか、あまりにもあっさりと、おっしゃった。
「私…ヒルダのおもちゃなのよ」

 銀の髪と金の瞳は、この王国の主もつらなるという尊い砦の聖者の血。落ち着くほどに、いろいろと私は思い出し始める。ヒルダ女王がおっしゃっていた、夫人の出自が国王の縁者というのも、あながち私をそのつもりにさせる方便ではないのかもしれない。
「あの人とは、昔ちょっとやりあった間柄なのよ…こっちがいろいろ負い目のある身の上になったのをいいことに、保護なんて善人面しながら、私に仕返しをして気を晴らしているのよ…小さくて、さみしい人だわ」
夫人はそうおっしゃって、くつくつと笑われた。
「あの人のやることは、それはもうひどいわよ。なにか理由をつけては、自分を頼ってくる小領主に私をあてがって、またあわせてほしいならああしろこうしろって、やるらしいのよ。
 …私も、そう言うときには、その気になる薬を飲まされて、…さっきみたいにね…もうそのことしか考えられなくなるのよ。」
夫人は、ぽつぽつと、今のご自身の境遇をことばにされた。
「私がこうしてたくさんの男におもちゃにされて、七転八倒するのが、ヒルダにはたまらなく面白いことらしいわ。国王も、…とめない。だって、止めたら、そのとばっちりを食うのは自分なんだもの」
あはは、という、乾いた笑いが、短い間林に響く。私は、驚愕という言葉では表現しきれないほど驚いていた。このいかにも品格のある夫人が、どうしてそんな玩具みたいな扱われ方を甘受しているのだろう。
『逃げないのですか?』
しばらく私は、言葉を選びつつ、そうたずねようとしたら、
「何で逃げないのかって、不思議に思っているでしょ」
夫人はその言葉を先回りにおっしゃった。
「…今の私の置かれている立場は…今動いている歴史の大きい流れに比べたら…ほんとうに些細でちっぽけだからよ」
「だからといって、それが貴女が、今のこの状態に甘んじておられていい理由にはならないのでは」
つい口を出していた。夫人は、私の意見を、実に懐かしいそぶりで聞いておられた。
「私は、もうこれでいいのよ。その大きな流れの中で、私のするべきことは終わったわ。私は、残していくものを、最期の時まで見守るだけ」
「そんな簡単にあきらめないでください。
 そのように、ご自身を投げやりに去れて、ご夫君がお聞き及びになったらなんと」
「…夫はいないの。夫と呼べるひとは、もう何年も前になくしたわ」
「え?」
「ヒルダに嘘を聞かされたのね。…まあ、私の事情なんて、今はあってないようなものだものね」
「…悔しく、ないのですか?」
私がつい出した言葉に、夫人は怪訝そうな顔をした。
「私は、おっしゃるように、貴女のことを、ほとんど何も知りません。ですが、たとえどんな人間であっても、ひとりひとりに、まっとうに人生を贈らせる義務があるのではないですか」
「ヒルダにそんなこと言っても、つうじるわけがないじゃない。
 それに私は、決して自分を投げやりにしたり粗末にしたり、そんなつもりはないわ」
「ですが」
「あなたにはなにもわからないわよ。
ご時世の中に今まで持っていたものを全部投げ捨てさせられて、こんなことをしなくちゃ、自分の保身ひとつできない私の気持ちなんて!」
ざわ、と、周りの景色が動いた。ぱりぱり、と、総毛立つほどに、夫人の周りの気配が動いている。怒りなのか、悲しみなのか。ただわかるのは、夫人が今、激しい感情に揺り動かされていることだけだ
「…ごめんなさい。あなたにとんなこと言っても、どうにもならないのにね」
しかし、それもしばらくのうちにおさまり、また、私起ち足り以外の気配は感じられない、静かな林の中の月夜に戻る。
「逃げたいけれど、逃げられないのよ。私は、ここにいなくてはいけないの」
「…私の体を見て、わかってるはずでしょう? 子供がいるの。一人はここにいるけれど、もう一人が、遠く離れているの。
 あの子がここにきて、私を探し出してくれるはずだから、私、ここをうごけない」
夫人がゆっくりと手を差し伸べる。私は、それをとった。夫人の金色の瞳に、涙がいっぱいにたまっている。
「…いかがされました?」
そのまま、吸い込まれるように、私の胸にすがってこられながら、夫人はため息をつかれた。
「なんでもないの。何でも。
 …あなたの視線と手が暖かくて、…あの人のことを思い出しただけ」

 私達は再び部屋の中に戻り、夜が明けるまでのしばらくの間、ふたたび溶け合うような時間を過ごした。
「久しぶりよ、あなたみたいに、まっすぐな人に会えたのも。
 少し前まで、そういう人はいっぱいいたはずなのに」
「…」
「あなたの事を何も知らないのに、お願いしてしまうのもなんだけれども…ずっと、そのままでいてね。私、あなたみたいな人がいてくれるだけで、この世界のすべてに、失望しないでいられる」
「私でほんとうに、よいのですか?」
「ええ。
 …アーサーが、あのひとや、あなたみたいに、まっすぐな子であるように…それを祈っていられるから」
夫人の銀の髪が、私の腕にさらさらと絡む。
「…もう何年か後に生まれて、あの人と出会う前にあなたと会えていたら…私、今ここにいなかったかもしれないわ」
「ありがとうございます」
「…ううん、あの人もきっと、許してくれる…
 きっと、最後の恋になるから…この恋が終わるころには、私はあの人のところに帰るのだもの。
 私には見えない、大きな流れに乗って…」
 夫人は、私の目の前で一時の眠りに落ちられた。外は明るい。夫人の目じりに残っている涙を、指でぬぐった。
 それからほどなくして、侍女が私を呼びにきた。

 それいらい、私がヒルダ女王にかかわったことはない。
 そして、あの若い時間から数年、聖戦と呼ばれる戦いが、嵐のように世界をかける。
 遠いバーハラ帝国の中で、女王ヒルダが敵討ちに倒れたと、風のうわさに聞いた。 
 あの夫人が残した子供達だろうか。
 夫人はこの知らせを、どこの空の下で聞いただろうか。

 私の若い時間は過ぎ去り、妻を娶り、子供も生まれた。
 しかし、私の記憶の中には、かの夫人の姿が、嫣然とある。
 あの暮らしから逃げられただろうか。無事に子供達に出会われただろうか。
 私を最後の恋とおっしゃってくださった、かのはかなげな、凛然とした銀色の髪の夫人。

 私はその名前すらわからない、それがくやまれる。

   をはり

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