ペニーロイヤル外伝
夢のあとに?最後の恋?
 

 私は、その女性の名前を知らない。年さえも知らない。ただ一度だけ、夜をともにしただけだ。
 それでも、私がその女性のことを忘れられないのは…あるいは、私が彼女を忘れないことが、私が彼女にできる唯一の償いであるからかもしれない。
 銀色の髪の、金色の瞳の…彼女は、あの境遇から抜けられたのだろうか?

 そのころ、私はまだ青年だった。父に連れられ、コノートの宮廷に出入りしていた。私自身も、面映いことながら、国内ではそこそこ名のある騎士だったと思っている。
 その宮廷が主催したトーナメント(馬上槍試合)で私が目覚しい活躍をしたからと、王妃から呼び出しがあったのが、それから数日たったころだった。
「実は、とあるところから、切実なお話を承りましてね」
と、ヒルダ女王がおっしゃる。どうやら、トーナメントでの「活躍」から、私をお気に召した貴婦人がいる、とのことなのだ。私がその話を信じられず、思わず女王に聞き返してしまうと、女王は
「ええ、あなたには突然のお話でしょうね、私のついこの間、その肩からお話を承ったばかりですもの」
と、困惑されるようなお声でおっしゃった。
「国王陛下とご縁があって、たまたまお客様としてこちらにおられるあいだに、あのトーナメントにをご覧になれたのですわ。国許にお帰りになればそれなりに身分もおありになる方、ご主人以外の殿方といたずらなうわさになってよいお方では当然ありませんもの。
 でも、それでも遂げたい思いがあることを、察して差し上げるのも、また騎士として当然の礼儀というものではないかしら」
「…はあ」
「先様は、国許にお帰りになる前に、人目あなたにお会いしたいと、涙ながらに訴え出てこられたの。それがかなわなければ自分は死ぬよりない、なんておっしゃられてしまわれては、私も曲りなりに縁者として、無碍にもできなくなってしまって」
ヒルダ女王は私に背を向けられて、その貴婦人のせつせつな思いに共感して、涙をせきかねておられるようにも、そのときの私には 見うけられた。
「…ほんの一晩でよい、ということですの。私、その方のお手伝いがどうしてもしたくて…こうして、あなたを呼びつけてしまいましたの」
「然様、ですか」
今にして思えば、そのときの女王の言葉には、有無を言わさない気迫すら感じられるものだったと思う。
 しかし渡しは、そのとき聞かされた話のすべてが未知のなにかに満ち満ちていて、その気迫と誘惑とに、あらがいえなかったのもまた確かな話だった。

 自分に恋焦がれながら、さまざまな障壁があり、その思いを遂げ得ない貴婦人。そんな存在が、私のためだけにいるということなど…言われて、確かに、驚いた。そして、同時に、意思に関係なく動き出す心。当時の私はいわゆる「少年」だった。貴婦人との夢のような時間など、望んだところでかなえられるはずもないと思っていたし…
 とにかく、ヒルダ女王は、私の周りをためつすがめつ、
「私を立てて、その方を助けると思って…ねぇ?」
少しく紅潮さえしていただろう。うつむいた私をことさらにのぞきこむようにして、ヒルダ女王は私に返答を促した。
 騎士たるもの、困っているものを…それが女性や子供、老人であればなおのこと…助けなければならないのが、騎士として尽くすべき礼儀というもの。しかし、だからといって、貴婦人の密通の手伝い…それも当事者の一人となって…など、その騎士の礼儀を尽くすに値する行為なのだろうか。
 答えない私を目の前にして、しかしヒルダ女王はとくにご機嫌を損ねた風ではおられなかった。
「そうね、すぐに返答は難しいわ。しばらく時間を与えます、その間に、よくよくお考えなさい。
 …先様を失望させない答えを期待していますよ」
そして、私に返答の選択の余地は与えられなかった。しばらくの猶予というもの、それは、私に、その婦人に対して、甘美な無礼を働くことに、覚悟を決めさせるために与えられた時間だったと、いうことだ。
「何日か後に、お茶会に招待させましょう。その姿を先様に見せて差し上げることまでに、まさか異存はないでしょう?」

 思い出すだに、あのヒルダ女王の嫣然とした…当時はそう思っていたのだ、あの内側にねっとりと湿ったものを抱えた、どこかで、いたずらを楽しむ子供のような…微笑に、私は後悔の念を禁じない。
 私はその視線を拒みきれず…彼女を…

 果たして数日後、私の元には、ヒルダ女王の署名が入った、茶話会の招待状を受け取ることになる。
 父は、そのことを、実に無邪気に喜んでいた。
 今現在半島の北部で、一番大きい勢力は、当然のことながらコノートのフリージ王家である。この王家が、それまで半東北部の宗主であったレンスター王家と決定的に違うところは、フリージにはバーハラ帝国に大して、レンスターとは比類にならないほど強いつながりを持っていることだ。それはすなわち、半東北部の各小領主にとっては、フリージの覚えいかんでともすれば、帝室へのつながりも不可能ではない、という、新たな名誉欲の格好の餌食でもある。
「女王陛下のおぼえをいただくとは、私はおまえのような息子を得てこの上ない誇りというものだ」
私にだけ聞かされている話をおもえば、父の喜びはあまりにも的外れで、一抹の憐れさえ催されるものだ。しかし、いたずらに父に事情を打ち明け、動揺させても詮の無いこと。女王に私というものの存在が知られたのも事実である。私は、何も言えなかった。

 招待されたその日、私は騎士の正装で、女王の主催するその茶話会の会場に足を運んでいた。
 普段は宮廷の、官吏ばかりがいる場所に出入りしているせいか、華やかな女性の多いその会場で、私は唖然というか、呆然というか、気圧されてつくねんとしているよりなかったのだ。それでも、ヒルダ女王の言葉には偽りはなかったらしく、茶話会の招待客はあらかた私を知っていて、トーナメントでの私を口口に誉めてくれた。
 私は、そう言った会話の相手をしつつ、この会場のどこに、私に縁のある貴婦人がいるのか、視線だけは泳いでいた。
 そのときだった。
「どう?楽しんでいる?」
と、ヒルダ女王からお声がかかる。
「は…なにぶん、騎士の修行に明け暮れた無骨者ゆえ、皆様気軽にお声をかけてくださいますが、ご満足の行く相手のできているかどうかは…」
「そう言う振る舞いは、おいおい覚えればいいもの、初めてでは仕方のないことでしょう」
ヒルダ女王の言う後ろで、貴婦人たちがくすくすと笑っていた。

「…あの方をお探しのようね」
女王が私に耳打ちされる。
「実はね、あなたがこのパーティーにくるというのを、喜んでもらいたくて始まる直前に知らせたら、卒倒されてしまわれて…
 離れのお部屋で休ませて差し上げてますの。
 …帰ってあの方には、よいことなのかも知れないわ、なにせ人の多いところがあまり好きではないご様子だし」
私の顔は、急に熱くなっていた。無理もない。ヒルダ女王の姿が見えた途端、私には、これから先自分が何をするかというところまで想像できてしまっていたのだから。ヒルダ女王は、私の内情まで見透かすような顔で、ほほほ、と高笑いをした。
「ほほ、初々しいこと」
「…」
「でも…そうね、先様もそろそろお目覚めのころ。人に案内させましょうから、しばらくお待ちなさい」

 庭の奥まった場所、林に隠れるように、その離れは建っていた。案内されるままに中に入り、その部屋に入る。
 かの貴婦人が休んでいると思しき寝台がひとつと、簡単な調度品。それよりほかは何もない、つつましい部屋だ。
「なにか御用の折は、お呼びください」
と、案内の侍女は部屋を離れて行く。私はとりのこされて、人の気配のする寝台に話し掛けた。
「ヒルダ女王陛下より、お話を承りまして…」
そのとき、帳がそっと開いて、私は、夫人の顔をまじまじと見ることになる。
 銀色の髪をたっぷりと流した、金色のいたずらそうな瞳。私より何歳かは年上だと思われたが、それを感じさせないほど無邪気な表情。私の姿を見とめるなり、ほころぶように微笑まれ、中に入るように手招きをされた。しかし、私の足は、その場所を動かない。
「も、申し訳ありません、なにぶん不調法もの」
声がしどろもどろになり、意味のある言葉を口にすることもできなくなる。夫人は、少しいぶかしそうな顔をして,帳からすべり出てこられた。
 菫色の絹のゆったりとした服。今になって思えば、最初からあの夫人は、その場所にいるべく身支度を整えられていたのかもしれないが、私は
「あ、あの…女王陛下よりにわかにご不例とお伺いしましたが、お加減はよろしいのですか?」
と聞いていた。夫人の体から、かすかに麝香の香りがする。夫人は懐かしそうな顔をされながら、私のほほに手をそえられた。
「…あの?」
夫人が、なにごとかおっしゃられた気がした。だが、私の耳には、その言葉は届かなかった。夫人の、一瞬だけ見せた思いつめたようなまなざし。
「…」
しかし、夫人は、その表情をすぐ、無邪気だがなまめかしい微笑みの下に隠した。帳をそっとあけて、私の手を、中へと促すように引かれた。