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それぞれの、その後。

 「人事尽くして天命を待つ、は少し大げさか」
とキュアンが呟く。
「シグルドのときにもしやとは思ったが…まさか本当に何もせずの男だとは思わなかった」
「でも、アイラ様のおかげで何とかなるのでしょ? だったら、もういいことじゃない」
エスリンはそれに朗らかに返して、
「さぁて、いつになったらいいお知らせが来るかしらねぇ」
と、今から首を長くしているようだ。
「いいお知らせって、君は言うけれども」
キュアンの顔がにわかに苦くなる。
「楽しいのか、その話?」
「まるでロマンス小説みたいじゃない、いよいよ愛しの姫との秘められた熱い夜が始まるのね」
「なぁるほど、期待はそこか」
すっかり視線がどこかに行ってしまった妻の顔を見て、キュアンは処置なし、とあさっての方を向いた。が、
「ん?」
とやおら顔を上げる。
「何?」
「一つ二つ、大事なことを教え忘れた気がする」
「教え忘れ?」
「ああ、何を教え忘れたか、俺にも思い出せない」
「変なの」
エスリンは言って、キュアンのわきにある件の原本をぱらぱらとめくった。
「まぁ」
中身は読めなくても、図版には反応できる。エスリンはにわかに目じりを染めて、つい、と背を向けた夫の注意を自分に向けさせた。
「何だ?」
と振り向くキュアンに、エスリンは図版の一つを指して、いかにも期待していそうな顔をした。

 「アレ、翻訳なんかじゃ全然ないだろ」
と、レックスは言う。件の場が開けてからアイラの部屋に入り、そろそろ仰向けで眠るのがつらそうなアイラの、向いている顔のほうに滑り込んだ。
 物の輪郭ぐらいしかわからない、灯りを遠くにした闇の中、アイラはしばらく黙ってから、
「少し興味に過ぎる部分は、独断で書いた。正しいものは、後で渡そうと思って…
 何故わかった?」
「あの手の本は、女を大切に扱えなんて、普通は書かないからさ。
でも何でそんなことを」
「キュアン殿から、あの翻訳を引き受けた後、エスリン殿はそれをご存知だったのかどうか、フィン卿の話をされたのだ。もし、あの翻訳が卿のために使われるとしたら、原本そのままでは興味に過ぎる」
「ふぅん。
優しいねぇ、アイラ姐さんは」
混ぜ返しには何の反応のせずに、アイラは少し身をもたげ
「誰か、灯りを」
と言う。やがて持ってこられた明かりの下で、アイラは枕の下から新しい紙の束を取り出した。
「何これ」
「翻訳の続きだ。あれは一冊ではなくて、二冊で一組なのだ。二冊目のほうが内容が奇抜だ。禁書庫にあったのもそのせいだろう」
「どれ」
と見た紙の一番上には「孕みたる女と逢うの法」という見出しが見えた。
「なるほど、こりゃ奇抜だ。でも何で俺にこれを見せる?」
一応聞くレックスに、アイラは小さく
「もしやお前を我慢させてはいまいかと思って」
と言った。彼女はこの上、身重の体まで差し出すつもりなのか。
「そんなこと考えるなよ、それこそ、興味本位なコトじゃないか」
「しかし」
「子供がびっくりして飛び出かねないようなこと、俺は出来ねぇよ」
レックスは灯りを遠ざけさせた。
「生まれた後でいくらでも楽しめばいいじゃん」
お前の覚悟がよいならそれでいいが。アイラは口の中で呟くようにいい、
「…一つ、頼みがある」
と改まった。
「何?」
「どうしても堪えられなかったら、その我慢は、私に分からないように、どこかで…」
「…」
レックスは毒気を抜かれた。本音を言えば一日だって張り付いていたいのに、どこにそんな余分な我慢があると。しかし、複数の女性がいて当たり前のイザーク王室育ちには、そんな考えを回す頭があるのだ。
「わかったよ」
レックスは答えるだけ答えて、目を閉じた。

 そして、たびたびアゼルのチェス盤がなくなる。もう黙って持っていくのはティルテュしかいないと思ったアゼルは、真っ直ぐに彼女の部屋に来て、
「ティルテュ、僕のチェス盤返してよ」
と言った。すでにチェスの講義が云々というより、盤がなくなるのが逢いたい合図のようになっていた。
「待ってましたぁ」
「…じゃないよ。黙って持ち出すのはもうやめてくれるかな?
 それと、持って行くなら、ちゃんと僕から教えてもらうつもりで」
「はぁーい」
アゼルの小言を聞き流すようにティルテュはのんきな返事をして、
「今度からそうするぅ」
と、駒を揃え始めたアゼルに横から抱きつく。
「うわぁ」
足が机に当たって、駒が盛大な音を立てて床に転がる。
「ああ、びっくりした… ティルテュ、ケガ、ない?」
「ないよ」
それでも念のため、服の上から打ち身などないか軽く探ってみる、と、アゼルの顔がにわかに赤くなった。
「ティルテュ、この服の下…なにもないよ?」
「うん、だからね、…終わったら、私ちゃんとチェスの練習する」
「終わったらっ…て」
「この間ね、私、歩けなくなっちゃったの…そんなのが、いいな」
言いながら離れないティルテュをひっつけたままで、アゼルは悩みは解決したのかどうなのか、実に複雑な顔をした。

 そして、いよいよ来たその朝。
 昼近くなって機嫌伺いに来たフィンを、特にキュアンは気にすることもなく迎えた。
「夜中忙しかったらしいが、いつものあれか」
と、何の気はなしにたずねる。フィンの護衛対象以上恋人未満の姫は、時々夜中に悪い夢を見てはフィンを呼んで眠るまで側から離さない話はキュアンも聞いていたから、たぶんそうだったのだろうと思ったのだ。が、フィンは
「はい…」
と、その後が続くような雰囲気の返事をする。
「どうした?」
続きを待っていると、やがてフィンは短く息を吸い込んで、
「先日は、特別のご指南、ありがとうございましたっ!」
と深々と頭を下げて、
「失礼します」
早々に部屋を出て行った。

 部屋の奥の方で、エスリンが歓喜の声を上げてから、キュアンは自分が、あの時教え忘れていたことに思い至る。
「あんの、バカ」
たとえ上手くいっても、俺やエスリンに報告はいらないぞ、と。




をはり。


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