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 ラケシスは、厩舎の日の当たるところに、教練着に冬の外套姿で、ぽつんと座っている。その隣にいるのは、サブリナだ。サブリナは、わざとそうしているのか、首を下げて、ラケシスと目線の高さを同じにしている。
「いいことサブリナ、あなたは、交配なんかで子馬を生んだりしたらだめよ。人間に都合のいい馬を無理やり生まされるんだから。
 この間は、バージンなんて、からかったりして、ごめんなさいね」
 ふぅ。ラケシスはため息をついた。
 この世界が、おおよそ、男と女で出来上がっているということは、ラケシスにも分かっているつもりである。うずくまる自分の足元を歩いている小さな虫だって、どっちかなのだ。
 その世界の半分を構成している男という生物が、あの発情した牝馬を前にしたイグナシオみたいなケダモノっぽさを持っていると思うと、どうにもそれが、おぞけたつようにしか感じられないのだ。人間はいつだって子供を作るし、作らせることもできる。だから余計に。
 あの人も、そういうケダモノっぽさがあるのだ。普段は隠して、いざというときも、そうと悟らせないのがうまいだけで。
 人間の皮を来た狼。そして自分は、何も抵抗するすべがなくて、結局食べられちゃうかわいそうな小鹿。
「あーあ、人間は考える生き物だって言うけど、考えすぎるっていうのも、考え物ね。
 そう思わない?」
サブリナは目をぱちぱち、と瞬いた。

 「イグナシオ号が、そろそろ戻れそうだという話を聞きましたよ」
という、ある昼間のフィンの報告に、
「ああ、そう」
ラケシスは余り興味がなさそうに答えた。夕方や夜に会うとどうも余計なことを思い出していい気分ではないので、会うなら昼間にして頂戴、というのを、フィンは律儀に守っている。
 それにしても、この部屋の騒ぎはどうしたことだろう。
「何をなさってるのですか」
と尋ねると、ラケシスは
「何って、模様替えよ。セイレーンに来たときに、適当にものを置かせたから、今度はちゃんと日差しをいっぱい入れられるように、家具を移すの。
 どうする? 手伝う? 男手があると手早くて助かるけど」
「はぁ」
しかしフィンは申し訳なさそうに、
「そういたしたいのは山々なのですが」
そんな余裕などない、という顔をした。
「どうしたの? そわそわして」
「サブリナの具合が悪いので」
「サブリナが? それは心配ね」
ラケシスは、メイド長に後を任せるようなことをいい、す、と立った。
「どうされました」
「サブリナのお見舞いよ。だって、あの子は私の大事なお友達だもの」

 聞けば、数日、食べる飼い葉の量も少なく、走らせようとしても走らないそうだ。
「サブリナ、どこか痛いの?」
と、鼻面を叩くと、サブリナは鼻面を寄せてくる。
「それとも、誰か仲良しの馬がシレジアから戻らなくて、寂しいの?」
そう言うラケシスの言葉に、サブリナの耳がぴぴ、と動いた。サブリナの顔に集中している彼女には見えなかったが、フィンには、その耳の動きが、口頭で方向指示などしたときの承諾の動きだ、と見る。この場合は承諾ではないから、肯定、と捉えるべきなのか。
「私のことは心配しなくてもいいのよ。少し臆病になってるだけだから」
ラケシスは、飼い葉の中から、人間が食べても美味しいものを二、三拾い上げ
「元気出して。
 あなたの元気がないと、ご主人様も元気なくて、私もさびしいの」
と、サブリナに差し出した。

 その夜に限って、何もしないという条件つきであったが、ラケシスは夜に来るのを許してくれた。その寝台の中で
「冬の間、馬房に入れっぱなしだったので、しばらくシレジアの牧場に預けようかと思っています」
と、フィンは言う。
「サブリナを?」
「はい」
「そんなことしたら、サブリナもあなたも寂しいんじゃない?」
「セイレーンの馬係が、ひとつところにいるので気分が倦んでいるのではないかというので、そうしてみるだけです」
「そんなものなのかしら」
「それで彼女が治るなら」
「私が風邪引いたりしても、それだけ心配してくれる?」
「しますよ、現に、眠れずにおいでだった間、私はずっと」
「わかってます」
それで始まったのに、それが頓挫している、ということも。
「イグナシオと入れ替わりになりそうかしら」
「かもしれませんね」
会話が途切れて、しばらくして、眠ったかと思ったラケシスが、ぱち、と目を開いた。
「サブリナ…やっぱりさびしいんだろうな…」
「そうご覧になりますか?」
「あの子は賢いから、もしかしたら、馬仲間に、好きな子がいるのよ。その子がいなくて、さびしくて、あんなになっちゃったんだわ」
「…」
掛け布団の下で、ラケシスがそっとフィンの手を握ってきて、眠りかけていた彼の頭がぱちっと覚醒する。
「だって私が同じようなことになったら、きっとそうなっちゃうと思うから…」
横目で見ると、ラケシスは腕にすがりつくようにして、もう眠っている。
 この女神はどうしてここまで天真爛漫でかわいらしく自分を困らせるんだろう。

 イグナシオを迎えに行く当日、帰りは自分で乗るからと、ラケシスは行きはサブリナに乗せてもらって、牧場に着いた。
「あなた、どうするの? ここにサブリナを預けたら、帰りの馬がないわよ」
「イグナシオ号がうまく私に御せれば、同じようにお乗せして帰ります」
フィンがそう答えて、シレジア牧場の馬係と話をしている間に、ラケシスは、柵のひとつの中で、悠々と草を食んでいるイグナシオを見つけた。
「イグナシオ」
聞こえるかどうかは分からないが、声をかけてみた。近づく気配はない。でもなんとなく、近づいてこられるのも怖い。そばの馬係に、
「もう、交配は、終わったのですか?」
と尋ねると、
「はい、もう全部今年の分は終わりました、牝馬はすべて別の柵に入れてあります」
「とびかかってきたり、しない?」
「種馬は牝馬の発情があって初めてその気になるものでしてね、その気にさせる相手がいなければ、まったく危険ではないですよ」
と話している間に
「あっ」
と、別の馬係とフィンの声が聞こえた。軽い助走のあと、サブリナが、イグナシオを入れてある柵を飛び越えて、その中に入ってしまったのだ。
「大変!」
ラケシスが声を上げる。馬係とフィンが追いかけるようにして中に入り、二人を離そうとする。
「今飛びこんだ馬、女の子なんです。どうしましょう」
うろたえるラケシスに、馬係は、
「まあ、見てましょう」
といい、仲間に、
「今入った馬の、鞍だけはずしてやれ!」
と言った。

 「信じられない」
脱力したように、ラケシスが言った。この間は自分が失神して担ぎ込まれた、あの部屋の中である。
 サブリナとイグナシオをひとつ柵にいれて(正確には彼女に飛び込まれて)小一時間になろうとしている。ラケシスは、イグナシオがサブリナに襲いかかろうとはしないかと窓に張り付くように見ていたが、イグナシオはまったくそんなことをせず、むしろ、飛び込んできたサブリナと一緒に柵の中を回ったり、タテガミのあたりをかまれたりされている。
「サブリナ、あの子のタテガミかんでるけど…」
と、隣で一緒に様子を見ているフィンに言うと、彼はなんでもないように答えた。
「私も、彼女の世話を始めたばかりは、よく髪をやられましたよ。今は服だったりしますが」
「どういう意味なの?」
「毛づくろいをやり返すという親しみの表現らしいです」
「ということは、二人が毛づくろいしあってるってことは?」
「…さぁ。今の彼女の気持ちは、まったく分かりません。余りにも普通の馬なので」
フィンは複雑な顔で見ている。
「でも、ここにつれて来てよかったとは思っていますよ。のびのびしている」
「彼女、元気になれそう?」
「なるでしょう」
と、馬係が言った。
「人間にもするんでさ、馬同士が毛づくろいで仲良くするのは、当たり前当たり前」
「そういえば、そうね」
ラケシスははた、と手を打った。
「あの、あの葦毛…イグナシオというのですけど、もう少し、こちらで預かっていただけますか?」
「いいのですか?」
と声を上げたのはフィンの方だ。しかしラケシスはそれを手で軽く制して
「その代わり、ほかに預けてあるセイレーンの馬を連れて戻りますので」
「わかりましたわかりました。まず二頭お返ししましょう、残りは、後で私達で戻します」

 馬が用意されている間、ラケシスは柵の前で
「イグナシオ!」
と愛馬を呼んだ。その声にすぐ反応して、イグナシオがかけてくる。彼女の前でとまるなり、前足を踏んで、何か催促を始める。
「ごめんなさい、今は持ってないの」
その代わり、鼻面をぽんぽんと撫でる。そうしながら、ちらりと後ろ半身をみた。恐ろしげなものは、まったく影を隠して、気にしなければまったくわからない。本当に、必要な時でなければ機能しないものなのだと、やっと納得する。でもそれは、人間も同じか…
 鞍を二つ持ってきて、フィンが、
「さっきサブリナが柵に飛び込んだとき調べてもらったのですが、やはり発情はしていないようで…しかし預けている間に始まったら、どうしましょう」
という。
「いいんじゃない? 野生の馬は人間が心配しなくても普通に子供作るのよ」
「私は一年乗れる馬がなくなるのですが」
「イグナシオに乗ればいいわ」
いつの間にかサブリナも二人の前に来て、ぴこぴこと耳を動かしていた。
「サブリナ、やっぱりさびしかったのね」
ぴこっ
「そうよね、いくら優しくても、ご主人様の子供は産めないものね」
ぴこぴこっ
「ちょっと見直したわ。あなた見かけによらず大胆なのね、まっしぐらにイグナシオに向かっていったものね。
 私達は邪魔しないから、仲良くね」
ぴぴっ サブリナはまた承諾の耳の動きをした。

 帰り道。
「サブリナから教えられた気がするの」
「は?」
二頭並べばいっぱいの山合の道を馬を並べて戻りながら、ラケシスが言った。
「言葉じゃうまく表現できないけど、なんだろう」
考えるしぐさをして、
「やっぱり、思いつめたり、考えすぎたりはよくないってことよ」
「はぁ」
普段から、余り考えることをしない人ではないですか。フィンはそういいたくなったのを、ぐっと飲み込んだ。
「なんか、サブリナにやきもちやいた私って馬鹿みたい」
「サブリナに、やきもち、ですか」
「ええ、私より長く一緒にいて、一番あなたのことよく分かってるって、それが悔しいって、少し思ったことがあったの。
 でも、思い直したら、私は知っててサブリナの知らないことがひとつだけあったわ」
「な、なんですか、それは」
「それは…」
ラケシスはくす、と笑って、手綱をぱしっと震わせた。すうっとフィンの前に出て、
「夜、来てくれたら教えてあげるわ!」
そう声を上げた。

 山合の道が終われば、セイレーンまでは、後もう少しである。
 そして二人も、まだ始まったばかり。
 たとえるなら、この季節に枝から伸び始め、本当の春の気持ちの良さを知らない若葉といったところか。

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