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サブリナの言うとおり


 ラケシスは、ふんわりと、暖かいところでうとうととしていた。
 天地左右もなくて…たとえるなら、眠りに落ちるような、そんなほんのり幸せな心持ち。
 ぼんやり目を開けると、視界はミルク色。
 しかし、その目の前に、何か黒いもの。にゅにゅにゅ、と伸びて、自分の顔面に近づいてくる。
 こ、これ何?

 「きゃあっ」
と叫んだら、マーニャとフュリーの顔が、自分の顔を覗き込んでいる。二人とも、目がまん丸だ。
 ここ、どこだっけ? 何しに来たんだっけ?
 ラケシスは、そう考えながら、横にされていたらしい体を起こそうとした。
「起き上がれますか?」
とフュリーが尋ねるが、真っ直ぐには起き上がれなくて、ソファにクッションをおいてもらって、そこに背中を預ける。
 風景は、どこか別荘のようだ。すぐそばの窓を見ると、馬が数頭、柵の中でのんびりとしている。
「ああ、ここ、シレジアの御用牧場だったわ…」
やっと場所を把握してから、どうして自分がここに来たのかを思い出そうとする。
 シレジアにやっと、春らしい気配がやってきて、ラケシスはセイレーン城についている馬場で、自分の馬・イグナシオに乗ろうと思ったのだ。
 しかし、厩舎には、イグナシオはもちろん、半分ぐらい馬がいなくなっていて、馬係に聞いたら、シレジアの御用牧場に運ばれたという。何でも、御用牧場で飼育していた種牡馬が相次いで死んでしまい、ご時世がら新しい馬を他国から調達するのも難しく、それならと、シグルドが提供を申し出たと。
 天馬騎士に乗せられ、その御用牧場に着くと、ちょうどイグナシオが柵にいて、これから「交配」ということをするのだと教えられ、話の種にそれを見ようと思ったが…気が付いたら失神していたのだ。
 それにしても、あの、黒いにゅにゅにゅ、としたものは、なんだったんだろう。それだけがうまく思い出せない。
「ねぇ」
と、ラケシスは、彼女のために紅茶を入れようとしている二人に、
「イグナシオは、大丈夫?」
と尋ねた。マーニャがその紅茶をすすめながら、
「今は、もう仕事を終えていると思います。
 シグルド様のご配慮で、新しい種が入りましょうから、この冬の損失は何とか取り戻せそうだと、牧場のものは申しておりました」
と言う
「そう」
とそれを聞いてから、ラケシスは、あの、気絶から目を覚まそうとしていたときに見たものを思い出した。
「ね、ね、ね、」
「はい」
「あの、にゅにゅにゅってしてたのは、なんだったの?」
姉妹ははた、と顔を見合わせた。マーニャが
「イグナシオ号の交配の時に、ラケシス様がご覧になって気を失われたものですね?」
と、なんでもないように言う。フュリーは、その後ろで、少しいいにくそうな顔をしている。
「良く覚えてないけど、何だか、にゅにゅにゅってして、人の腕みたいで」
というのを、マーニャはしぃ、と静めるような声を出した。
「イグナシオ号は牡馬ですから、人間で言えば男性ですよね」
「え、ええ」
「女性になくて、男性にあるものは何でしたでしょうかしら」
「…」
ラケシスの顔がうすら笑顔のまま、かちん、と固まる。
 そうよ。私、イグナシオのソレを見て気絶したんだわ。普段私を見たら、おやつばかり欲しがる甘えっ子だとばっかり思ってたのに、どこにそんなものを隠し持っていたのよ。
 そのうち、フュリーがぱたぱたとやってきて、
「ラケシス様、牧場のものが、イグナシオ号を数日預かりたいと申しているのですが」
という。
「別に…かまわなくてよ」
張り付いた笑顔のままは、ラケシスが答える。
「セイレーンにはまだ馬はいるし、乗馬の訓練には事欠かないはずだから」
「分かりました、そのように言い置きます」
とフュリーがもどってゆく。
「イグナシオは、これからどうなるの?」
「ほかにも何頭か、種牡馬としてお預かりすることをお許しいただきました。
 よい馬を生み出すために、少し、お力を借りようと」
「ほかにも、馬がいるの?」
「はい、シグルド様のグラム号、キュアン様のブリューナク号など」
とマーニャが言う間に、その持ち主らしい声が、少しの笑い声を伴って聞こえてくる。
 ふらりと、フュリーに手を引かれながらその場所に混ざろうとすると
「よかった、気が付いたね」
とキュアンが言った。
「びっくりしたよ、突然気を失うから。フィンが支えなかったら、そのまま頭を地面に打っていたところだった」
「はぁ…」
いる男たちの顔を見て、ラケシスの顔はまた薄ら笑顔のままで固まった。
 マーニャの話をひっくり返せば、この方達は、馬で言えば牡馬だ。やっぱり、にゅ… いえ、ソレは失礼だから考えないでおこうっと。
「余り寒くならないうちに帰ろうか」
シグルドが、すくっと立った。キュアンも頷いて立ち上がり、
「フィン、まだ足元がおぼつかないようだから、乗せて差し上げろ」
といった。

 サブリナが歩きながら、耳を後ろ側に向けたり、チラリと振り向いたりする。
「ありがとうサブリナ…心配してくれてるのね。
 大丈夫、ちょっとびっくりしただけなのよ」
ラケシスはそういって、首をぽん、と叩いた。
「お見せするべきものではないと思って、何も伝えず来たつもりだったのですが…
 王女が思い立ったらすぐ行動に移される方だということを忘れていました」
フィンが後ろでやれやれ、という声を出した。
「自分の馬がいきなりいなくなったら、普通びっくりするわよ」
「そうでしょうね…申し訳ありません」
「いいの、後で言葉で説明されるより、どうしてイグナシオが必要なのかよぉくわかったわ」
ラケシスは少し自棄ぎみに言った。
「サブリナは、交配しなかったの?」
「調べてはもらったのですが、発情の様子がないということで、今日に限れば保留です」
「この子は、今まで子馬を産んだことがあるの?」
「ありません」
「交配も?」
「はい」
「あら」
馬に揺られている間に、ラケシスはゆるゆると自分の調子を取り戻してきたのか、
「サブリナったら、バージンなのね」
といった。サブリナの耳があわてるようにぴこぴこっと動き、手綱を持つ手が盛大に脱力する。
「未経産馬と言ってください」
そのあと、脱力した声で訂正が入る。
「そんな難しい言葉わかんないもの」
「では覚えてください」
「子馬を生んだこともないし、ましてや交配したこともないんなら、バージンでいいじゃない」
邪魔をしないよう、少し前を進んでくれているシグルドたちが、実にタイミングよく笑った。おそらくは、別の話題かもしれないが。
「ねえサブリナ」
ぴこっ
「もし子馬を生むなら、誰の子馬がいい?
私のイグナシオ? それとも、シレジア牧場にいた誰か?
 もしかして、とっても優しいご主人様の?」
ぴこぴこっぴこっ
「王女、余りお戯れを仰らないでください、サブリナが困ってます」
「馬と人との間に子供ができるわけじゃないでしょ、ケンタウロスじゃなし」
「それはまあ、そうですが」
会話はすっかりラケシスに主導権を握られていた。そのラケシスが、ほんの少しだけ黙り、耳打つような小さい声で、
「今夜、来る?」
と言った。
「お望みなら」
フィンはそれだけ答えた。

 「…私が倒れたのを、お二人は笑っていらっしゃったみたいだけど」
その夜、ぷう、とラケシスが膨れたような頬で言う。
「本当に、びっくりしたんだから」
「お察しします」
「あなたは、その…ああいう、交配って、見たことあるの?」
「一度、レンスターの御用牧場で見たことがあります。サブリナはその牧場の生まれですし」
「どう思った?」
「…何をですか」
とんちんかんに聞き返すフィンのヒザのあたりを、ラケシスはぱし、と叩いて
「あれよ、あれ」
「あれ?」
「私に全部言わせるの? あなただって持ってるものよ」
「すみません、そのことでしたか」
「で、どう思う?」
「どうと仰られても。
 従順で有能な馬を生み出すために、交配は欠くべからざることですから」
「はいはい、聞いた私が馬鹿でした」
ラケシスが、抱きかかえている枕で顔を隠して、
「思い出したら、すごく恥ずかしくなってきた…」
「はぁ」
「そんな返事しないでよ。
 私、あなたのもよく見たことないのに、イグナシオのを先にあんなにはっきり見ちゃって…まだ思い出せるわ、黒くって、にゅにゅにゅっとして」
「…はぁ」
「あなたは何も思わないの?」
「…必要なのは仔をとることで、正直、その部品のことまでは考えてませんでした。
 それに、馬と人間では体格も違いますから、馬は馬、人間は人間とお考えなさるのがよろしいかと」
というフィンの声は、しっかりしたことを言っている割には頼りなく震えていた。人間のをよく観察したいと言い出したらどう反応すればよいものか。
「男は気楽でいいわね」
「はぁ」
「女の子は最初はすっ…ごく大変な思いして、そこからはじまるのに、そんなこともないし」
ラケシスはぷす、と呟いた。
「それに、結局、私たちがしてることも、ひらたく言えば人間の交配よ」
「それは少々考えすぎでは…」
「そうかしら。
ご神器の血を絶やさないために、何か、私たちの及ばないところが画策して、交配させられてるのよ」
言うだけ言って、ラケシスは枕を抱えたままころん、と背中を向けた。
「なんかしばらく、その気になれそうになれない。もう寝る」
「…よい夢を」
フィンはそう返しはしたが、その枕は、本当は私のはずではなかったんですか。しばらくは年頃ゆえの期待感がくすぶって眠ることもできず、彼女がすっかり眠ったのを確認してから、静かに部屋に戻っていった。

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