そんな覚えも無いのに、お母様が抱き上げてくださっているような気がして、私は、一面のミルク色の中にいた。
離れながら、目を閉じて、開いたらここにいる。
ここはどこなんだろう。考えることも、もうやめた。
今はいつなんだろう。そんな事も忘れた。
わかっているのは、このミルク色の中で、私という存在が漂っているだけだ。
でも、何もかも、忘れてしまったわけではない。私がここまで来るまでの記憶は、ほとんど完全な形で残っているし、私の「体」には、何度昼と夜が訪れても、会いに来てくれる人は現れない。
ましてや、私が本当に待っている人は、私を尋ね当てることもできないだろう。あの場所は、かろうじて砂漠の街道となっている道から、少し外れていたから。
私は天も地もないミルク色の中を、つれづれに、ただよっていた。
ある時。
時間の流れも忘れたまま、私はこのミルク色の中に漂っていた。世事の憂いことなど全く耳目に入らない、私はただの、いつ来るかわからない騎士様を待つ眠り姫。
でも、そのときだけは、違った。足が引かれる感覚がする。ゆっくりと、私の体は下がり始め、ミルク色は薄くなってゆく。
気がついたら、私は、どこかの地上のはるか上のほうに、放り出されるように浮かんでいた。
最初、そこかどこかはわからなかった。上を見上げると、雲ひとつない夕暮れの空は、深い空の青をうつして、地平に近づくほどに、その色は変わり、やっと見える地平線では、真っ赤な色に変わっている。天球そのものが、まるで虹になったかのような鮮やかさ。でも、体感的に夕方と感じたのは、その山の稜線らしい地平線に、太陽が真っ赤な色でいたからだった。
これまでいた世界だということはすぐに気がついた。でも、ここはどこなんだろう。ゆっくりと体が落ちてゆく。このままどこかに降り立つのかしら、そんなことを考えていると、突然ぎゅん、と視界が横にぶれた。
「!」
振り落とされても、「体」は全然別のところにあるのだから、死ぬことはないのだろうけれども、反射的に、私は触ったかぎりに見つけた突起物につかまった。
「そう、捕まっておれ。いかに我とても、今見失えば見つけることはできぬからな」
そういう声もした。
「誰?」
やっと、流れる景色に目がなれて、尋ねると、
「お前が今乗っているものだ。今に降りるにより、おとなしくしておるがよい」
そういう声が返ってきた。
やっと、落ち着ける場所が見つかったのか、ゆっくりと旋回しながら降下し、やがて、その場所で降りる。
「あなたなの? あの世界から私をここまで呼んだのは」
尋ねてみる。落ちつつある夕日に玉虫色に輝く、でも本当は、翡翠色の綺麗な緑のうろこの竜は
「いかにも、我がお主を喚んだ」
と言った。
「私でないといけないの?」
「うむ」
答える前に、竜は私に息を吹いた。ほとんど裸同然の私に、取り急ぎの衣装がまとわされる。
「いにしえの女神の名持つヘズルの姫、わが主の願いをかなえてはもらえぬだろうか」
「あなたのご主人様の願い?」
竜は一度ゆっくり目を閉じて答えた後、
「ここはトラキア」
と答えた。
「わが主は、今我を解き放ち、次の主を求めよと言った。
彼は、『歴史』にならんがために、最後の戦いに挑んでいる」
「歴史?」
「いかにも、ヘズルの姫、お主の兄がそうなったように。
彼はその運命に流されるままであったが、わが主は、天槍を跡に譲り、自らその歴史にならんがために、ここまで来た」
「…天槍?」
「見よ」
竜が、長い首でその方向をさした。城らしい建造物があって、時々、ちかちかと何かが光っている。
「天槍、といったわね。それなら、あそこにいるのはトラバントなの?」
「そうだ。しかし」
「何か問題でもあるの? 私に、トラバントに死なないでと説得してほしいの?」
私が言うと、竜は「そうではない」と言った。
「わが主は、己が言葉を必ず実行に移す。しかし、主の願いは、自死にては叶うことではなく、相手が必要なことなのだ」
「だから、この城まで来て戦っているのね」
「しかし、あの相手の男に、トラバントに引導を渡せようか」
「誰と戦っているの? あなたには見えるのかもしれないけれど、私には見えない」
そういうと、竜は私をまた乗せて、もう少し城に近いところまで移ってくれた。
「ここまでくれば見えようか」
とおろしてくれたところからは、城の物見らしい所で戦う、トラバントらしい人影と、もう一人が見えた。トラバントはなまじの実力をもてあましている。彼が本気を出せば、その辺の相手なら、一撃で瀕死に追い込むことだってできるはずなのに。
でも。私は、トラバントの相手をしているその槍さばきに、頭の中をかき乱されるような心地がした。私はあの人を、知っている。
「トラバントは、誰と戦っているの?」
それでも、確信は持てなくて、私は竜に聞いていた。竜は
「グングニルの対なす槍に与するもの」
と言った。
「しかし、あの男は優しすぎる。わが主とは違う。『殺さぬ』男だ」
「あなたが行って、トラバントを討ち取るように、言うことはできないの?」
「無理だ。我の言葉は、ただの人には言葉に聞こえぬ」
「私は?」
「お主は人であって人でない」
私はつい、いま、自分に肉体がないことを忘れていた。
「それじゃあ、私は今どういう存在なの?」
「エーギルだ」
竜の返答があまりにも単純すぎて、私はもう少し深く、尋ねてみる。
「エーギルって、魂みたいなものよね」
「そう説明するのがわかりやすかろう。しかし、神器に近いもののエーギルは、他のそれより堅牢にできている。
ましてや、ヘズルの姫、お主は定められたエーギルを使い果たさぬまま、暗黒魔法で身とエーギルを切り離されたのだ。戻る場所が確保されている限り、その体が形を失うことはあるまい」
「問題は、それをいつ誰が見つけてくれるということだけれども」
その混ぜ返しに、竜は何も言わなかった。空を見上げ、
「時がない…」
と言い、私の前に長い首を落とした。
「この通りだ。わが主の願いを聞き届けてほしい」
「…どうすればいいの?」
エーギルの話をまだ聞きたかったが、その時間はないようだった。
「…砦の戦士に武器を渡した竜の血は、一方で神器と呼ばれるようになったその武器を継承するために、濃く保たれている。
一方で、長い時間をかけてごく薄まった血が世に馴染み、血の持つ特殊な力が本人も気がつかないまま保たれ、時に天賦の能力として現れることがある。
わが主と戦っている男は、そういう類の男だ」
「それで?」
「相手の男に伝えよ、『祈れ』と。眠っているその血が、きっとわが主の願いの助けになるだろう」
ミルクのようなエーギルの世界とは全然違う、薄い大気の中、私はするすると移動していた。
近づくにつれて、私はざわざわと予感の的中を身震いして感じていた。
やっぱり。
あの人が、トラバントと戦っている。
リーフ様ではないの? そんな疑問なんて、出る間もなかった。私には、あの人がトラバントと戦う必然性を、十分知っている。でもあの人が、竜の血を持っているなんて、にわかには信じられなかった。レンスターの旧家なら、もしかしたら、過去に王家とご縁があったのかもしれないけれども、…ああ、もうそんなことはどうでもいい。私は、二人の戦いを、見ていることしか出来なかった。
どうか危ないことにならないで。私のほうが、祈ってしまう。あなたになにかあったら、誰が私を探してくれるの?
日暮れが近い。時間がない。夜の闇の中で一騎打ちなんて、到底無理な話。
「ああっ」
その瞬間、私は顔を覆っていた。トラバントの槍が、あの人のわき腹をしっかりと捕らえた。膝をつくように崩れ落ちて、私は、その後ろに回る。体さえ取り戻せば、私はこの重傷だって治してしまうリカバーの杖も使えるのに、私は、この人のエーギルが天に上ってしまわないように、抑えていることしかできない。薄暗い中にも、血が真っ赤に、デュークナイトの制服を染めてゆく。
「立たぬか! レンスターの青き槍騎士と、二つ名など大仰に奉られて、思い上がったか! お前はそれだけの男か!」
トラバントの声が容赦なくかかる。でも、あの理由が言うとおり、その言葉の中に、自分へ引導を渡してくれることへの期待を感じた。
この人は動かない。槍の石突きを石の床について、倒れないようにしているのが精一杯と言う様子だ。
「立ちなさい!」
私は声を上げていた。
「トラバントがああ言っているのよ、立ちなさい!」
そして、この人に、私の声は通じた。顔を上げて、わずかに左右を見やる。大丈夫、この人のエーギルは、体から出て行く気配はない。
「あなたは、こんなところで死んではだめなのよ」
わずかに、向けてくる顔に向かって、私はそう言う。
「顔を上げて。私がここにいるから」
この姿を見せることが出来るだろうか。思った瞬間、勝手に体に淡い光が宿る。どこかでこれを見たことがあると思った。お母様が、兄を迎えに来たとき、こんな色だったような。
私がここにいるとわかった彼の顔は、傷の痛みさえ忘れたような、驚きの顔をしていた。
「あなたが危なくて見ていられないのよ」
と言うと、彼は
「え?」
と問い返してくる。
「話は全部聞いているの。トラバントは、『歴史』になりたいの。そのためには、今戦っている、あなたの力が必要なの。
…あなたにとっても、キュアン様とエスリン様の仇なんだもの、ここにいるのは当然よね」
「でも、どうすればよいのでしょう…私に、その力が残っているかどうか」
「私がいるわ。
祈って。そうすれば、私はあなたを助けられる」
ターラで別れて、一体この人の上には何があったろう。祈りの言葉が体に染みとおってゆくのを、ほの暖かく感じながら、そんなことを思っていた。
子供達は、無事にあなたと会えたの? リーフ様はご無事なの?
聞きたいことは、今はしまっておこう。
私は、祈りを全身に受けて、彼の体を、一つに融けてしまうように抱きしめた。
立ち上がった彼を、トラバントは歓喜の表情で迎えた。迫る夕闇に、許されているのは、後一撃だけ。その一撃だけでも、彼を守れるように、私は彼の中で祈る。目を閉じていても、その光景は、私にはよく見えた。
振り上げてくる槍の軌道が見える。その軌道を、彼はいなしてよけた。そして、あの人の持つ勇者の槍の穂先は、トラバントを切り、そして、胸の真ん中に、深々と刺さった。
倒れたトラバントから、ゆっくりと、何かが抜け出てくるのをみた。トラバント本人。でも、体は私のように半分透けていて、彼のエーギルであることは疑いようもなかった。
「まさか、君がいるとは思わなかった、ノディオンのプリンセス」
彼はまず、私を確認してそういった。
「あなたの竜にお願いをされたの、あなたを、あなたが望むように、『歴史』の一部にしてほしいって」
「ほぅ」
トラバントは、少し感嘆したような声をあげた。
「アイオロスがそんなことを…
やはり、ダインをじかに知る竜はすることが違う」
そして、まじまじと私をみて、
「しかし、何故君はこんなところに?」
「いろいろありすぎて、何を何から説明していいのかわからないわ」
「まあよい、これからエーギルに戻る私には、知ったとて何の役に立つことではない」
自嘲するように笑った。
「奴の槍は」
そのあと、ゆっくりと話し出す。
「守るものを知っている槍だ。私のように、行く先を見失ったもののそれとは違う」
「お褒め頂きありがとうございます」
「アルテナも、安心していられるだろう」
「アルテナ」
私は、少しだけ虚を疲れた顔をしてしまう。
「アルテナといえは、キュアン様たちの姫様のお名前、何故それを」
「イード砂漠で私が保護した。思えば私もまだ若かった。絶命した女の腕の中で泣いているあの子を、放って戻ることは出来なかった。
実の親ほどには愛することは出来なかっただろう。それでも、できることはしたと思っている」
「いえ、今の言葉で十分わかります。アルテナ姫様は、よいお子にお育ちと思います」
「それならよいが」
またトラバントは、さびしそうにわらった。その姿が、一層薄くなってゆく。
「…私に残された時間はもうないようだ」
「エーギルに戻るのですか」
「そのようだ」
トラバントは、ゆっくりと浮かんだ。何かの声がした。
「アイオロスが、私を送ってくれるか」
彼はそうひとりごちて、
「次の命で、また出会わんことを。ノディオンのプリンセス」
消えていった。
あの人は、まだそこにいた。
「あれでよろしかったのですね」
そういったので、私は
「そうよ」
と返した。
「あなたはこれからも『未来』を見つめてゆく人なのでしょうけれども、それは同時に『過去』を抱えていくというとてもつらいことと背中合わせ」
「わかっておりますよ、それは」
「それならば、いいのだわ」
私はついと、床を蹴り上げた。そこに
「お伺いして、よろしいですか」
と声がかかる。
「なに?」
「これまでのみちみち、貴女はご存命と伺っておりましたが…
今何故に、そのようなお姿で?」
すべてを話すには、長すぎて、私は彼の体が心配だった。今の彼は何にかの高揚心だけで、かろうじて立っているのに。
「あなたがいてほしいときには、私はすぐにでもここに来るわ。
それでは答えにならない?」
彼は、まるで母親においてけぼりにされる子供のような、実にさびしくて、かわいらしい顔をした。
「子供達は、無事二人、私の元におります。
できることなら、貴女にお見せしたいのに」
「今すぐ横にならなければいけないような人が、わがままを言ってはだめよ」
そういって私は、少し視線を動かした。物影から、その子供達が、心配そうな顔をのぞかせている。
かわいらしいこと。私はふと笑みが漏れてしまう。彼が、
「どうしても、今おいでの場所を、私に教えてはいただけないのですね」
と、口惜しいように言った。私は、ことさらに、彼に顔を寄せて、
「それほどに私に逢いたいなら、探しに来て。
私はあの場所に、ずっといるから」
そう囁いた。
トラバントの竜につれられるようにして、私はエーギルの世界に戻ってゆく。あまり長いこといると、私の体もこの大気に溶けてしまうからだ。
「トラバントは、どうなってしまったの?」
「エーギルとなり、消えた。いつか、何かの形でめぐり合うこともあるだろう」
「私はそれに、出会うことが出来るかしら。
「すべてはめぐり合い」
竜はそれだけ言った。
「おぬしに残されたエーギルが尽き果てるまでに、出会うこともあるかもしれぬ。
しかし、お主がそれをトラバントと知ることはない」
「そんなものなのね」
私がいるべき、ミルク色の世界が見えてきて、私は尋ねていた。
「あなたは一体何者なの?」
「ただの竜では不満かね?」
「そうじゃないけれど…」
「…伝説には、ダーナの砦に光の竜が現れ、それぞれにゆかりの武器と血を授けたというが」
竜は少し笑いを含むような声で言った。
「中には、この大陸に降り立ったとしても、取り立てて何もせなんだ竜がいたというだけのことだ」
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