そんなことを思い出しながら、そのまま、サブリナに鞍をつけて、私は町の中に乗り出した。ドレスの裾をたらしながら、従者の一人もつけずに馬に乗る娘なんて、どんなにか目立ったことだろう。でも私は、そんなことなんか全然気にもしないで、ぽくぽくとサブリナを歩かせた。
持ち主に無断で連れ出すのもどうかとも思うけど、私は、厩舎でサブリナの顔を見ているうちに、彼女を連れて行きたくなったのだ。
サブリナは、本当に人によく馴れている。手綱を少し操るだけで、すぐ右左をわかってくれる。
町を見下ろせる、丘に来ていた。
小さな町は、自分の足で歩こうとしている。港への馬車道と、新しい家を建てるために林を切り開く光景が見えて、刈り終わった麦の畑が、耕され、来年への種を待っている。
アグストリアの名残が残っているはずのこの町を、オーガヒルの義賊が守っているというけれど、それだけでグランベルが無視しておくとは思えない。おじい様は私に何も話してくださらないけど、たぶん、もっと規模の大きい何かが、この町を守っている。そんな気がしてならなかった。
私は、すとん、とサブリナから降りた。
「疲れた?」
と首を撫でると、サブリナは私に鼻面を寄せてくる。
「こんなの、サブリナにはお散歩にもならないわね、ご主人様を乗せて戦場を駆け回ってるのだもの」
そういう私から少し離れて、サブリナは、丘に生えている草を食べ始める。この辺は、やっぱり馬だ。でも
「サブリナ」
と声をかけると、すぐ私のほうを向いてくれた。
「いいことサブリナ、これは女同士の秘密の話よ」
と、私は言う。
「あなた、自分のご主人様のことは好き?」
サブリナは、耳をぴこ、と動かして、私を不思議そうに見下ろしている。
「嫌いなはずがないわよね。レンスターからここまで、ずっとついてきて、忙しくても自分で面倒見てくれるんですものね」
と言ってから、私ははた、と自分のことを思い返してみた。私も同じだ。ノディオンからずっと、ここに来ても、あの人は私にずっとついてきてくれてる。いつか、馬場で偶然会ったときも、私のことばに意見をさしはさむことはなかった。そういう人のようだ。
それがあの人の今の任務だとわかっているけど、戦場や、大きいお城にいるのと違って、今の家では顔をあわせることも多くなる。
教練でも乗馬でも、私が少しでも上達した様子をみせると、
「お見事です、王女」
と、あの綺麗な青い目を細めてくれる。滅多に相好を崩したりしない彼が、だ。そして、その目を見たくて、気がついたら日暮れまで槍を振り回している自分がいる。
嬉しそうに目を細める彼の顔を思い出して、きゅう、と苦しくなる自分がいた。
おじい様のかけてこられたなぞなぞの答えは、もしかしたら、ものすごく近くにいるのかもしれない。私が、それに気づきたくないだけで。
「ねえサブリナ、あなたは気を悪くするかも知れないだろうけど」
きょとんとした、黒目がちのサブリナを見ながら、私はつい、人間の友達にでも話しかけているように言っていた。
「私、おじい様のなぞなぞの答えがわかった気がするの」
サブリナは、言葉では何も答えない。でも、私を見る目は、たしかに、無垢で人間を疑わない、賢こそうな輝きをしていた。少しく考えごとをしていそうな私の顔を、どうしたの? とでも言いたそうに眺めている。
「許してくれるわよね? あなたから、あなたの大好きなご主人様を取り上げちゃうの」
つぶやいて、丘から西の海を眺めた。ちらちらとする線のような海岸線に、夕日がゆっくり近づいてゆく。
「もう帰らないとね。ご主人様を心配させちゃいけないからね」
もう一度サブリナに乗り、帰る道をたどろうとする途中で
「王女、こんなところにおいででしたか」
と、彼が別の馬に乗って向かってきた。
「王女の馬はいるのにサブリナがいないので、不思議には思ったのですが」
「ごめんなさい、ちょっとこの子と話がしたかったの」
私が言うのを、彼は怪訝な声で答えた。
「話、ですか」
「女同士の話よね、サブリナ」
と言うと、彼女は耳をまたぴこ、と動かした。怪訝そうな顔のままの彼に、
「あなたこそ、ずいぶん急いでいる風じゃない? なにかあったの?」
と尋ねてみると、
「特に、何も。
ただ、そろそろ夕刻ですから、お迎えに出た方がよいと思いまして」
「ありがとう。
サブリナ、よかったわね、ご主人様が迎えに来てくれたわよ」
そう言うと、彼は一呼吸おいて、
「私は王女をお迎えに来たのです」
と言って、
「行きましょう」
と馬を回頭させた。走り出した馬にあわせて、サブリナも足を早めた。
夕日がこの人の横顔をてらしている。その夕日に負けない、落ち着いた青い輝きの瞳がす、と動いて、
「いかがされました?」
と私に尋ねた。
「なんでもない」
私は、ねぇ、サブリナと、サブリナの首をぽん、とたたいた。サブリナはただ耳を動かしただけで、何も言わなかった。
その日は、夕食に彼が同席していた。
「いまさらのように、そんなおかしな顔をするものではないだろう」
とおじい様が仰る。でも、あの決心をした後に、こういうことになるなんて、いくら私でも心の準備が間に合わない。おじい様は、彼が国許ではどういう位置にある人物なのかをあらためて、私に説明されるけれども、私はそんなことは右から左に抜けていた。その日の夕食が、どこに入ったかも分からないほど、緊張していた。
そして、長く席をはずしたおじい様が
「去年がちょうど当たり年だったのですよ」
と、ワインを一本持ってきたときに、「いけない!」と思わず言いかけた。夕食についていたワインでさえ、ほとんど口を付けなかったのに、それでも持ってくるなんて。私は目で彼に確認した。それなのに彼は答えもせず
「良し悪しも分からない私ですが、それでよければご相伴を」
と言って、…結局、グラスの半分で、椅子から転げ落ちた。
メイドたちがきゃ、と声を上げる。
「おじい様、この人、お酒の類は全然だめなのよ」
と、抱き起こそうとしながら私が言うと、おじい様は悪びれもせず
「いや、それは知らなかった」
と仰る。とまれたおれた彼を別の部屋に移し、酔いを覚まさせる用意をさせ、
「お前がみていて差し上げなさい」
つい、後衛で傷病兵の看護をするような心持ちになっていた私は
「はい」
と答えたけど、おじい様はすべてご存知の上だったに違いない。そして私も、あまりにあっさり答えたものだと思う。
途中、目を覚ました彼と少し話をしたが、彼はまた眠ってしまった。
私も眠らなければ、酔いが残りそうだった。
私の膝のかわりに、椅子のクッションをあてがう。
頭の痛みが取れないのか、時々眉根を寄せながら眠る彼の顔は、よくみれば、まだ私と同い年相応に、子供しいところがある。こんな無防備な顔、初めて。
「可愛い」
とさえ思った。驚かれないようにそっと顔を近づけて、ほんの軽く、唇をあわせた。こういう勇気も、この人だから出せる。
「次は、あなたから求めてくださいましね、私の騎士様」
そうささやいて、私は部屋から出た。
それから二三日もしなかったと思う。
寝入りばなの私の耳に、物音が届いて、私は心臓が飛び出すような思いで跳ね起きた。
枕の下から、護身用にしのばせていた短剣を取り出し、鞘から抜く。音のするほうに、ちらりと明かりが見えて、
「誰!」
とその短剣を突き出した。
「わっ」
というその声に、いやにききなれた感じがして、寝台のわきにかけてあった明かりを取り、照らしてみる。
「なぜ、あなたがここにいるの?」
聞けば、自分の部屋の壁に、不自然な隙間を見つけて、それがどこかへの道になっているように見えたから、
「道なりにのぼってきたら、こちらにたどり着きました」
「何でこんなところにこんな仕掛けが」
私が、空いたままの扉をためつすがめつしていると、
「珍しい仕掛けではないと思います」
彼はいくらか冷静さを取り戻した声で言った。
「万一のときに、貴人を逃がすための避難路だとすれば、納得が行きます。レンスター城にも、何本かあると聞いています。詳しい場所は知りませんが」
でもまさか、自分が見つけた抜け道の先が、私の部屋だとは思わなかった。彼はそんなことを言った。
「お休みのところ、失礼しました。私は戻ります」
と言って、きびすを返そうとする手を、私は思わずとっていた。
「どうなさいました」
「その中、どうなってるの?」
「王女のご興味を取り立てて引くものは何もありません、ただ、石の階段と廊下があるだけです」
「入ってみたいのだけど、いい?」
「構いませんが、足元がだいぶ暗いので、私の手を離さないようにお願いします」
中は、本当に真っ暗だった。明かりなんて、やっと人影を浮かび上がらせるだけで、遠くまで照らせるわけではない。私は数歩歩いて、自分の好奇心を後悔した。
「どうされました?」
私が動かないのが不思議なのだろう。振り返った声がする。
「忘れてた…暗いの、怖くて」
「大丈夫です、お手を離さずに」
彼の手が、いっそう強く、私の手を握った。
「途中、階段などありますから、お気をつけて」
そろそろと歩き出す私に、彼は言う。
「ねえ、あなたは怖くないの? こんな暗いところ、どこから何か出てきたりしたらどうしようって、思うこと、ない?」
「特には。
明かりが二つになりましたから、来た時よりもむしろ明るくて結構ですよ」
彼の返事は、とても現実的だ。それでも、私の手は離さない。それが、明かりにぼんやり見えている。それが頼もしくて、私は、それを頼りに、足を動かすことができた。
長かったのか、短かったのか、息が詰まるような時間の果てに着いた彼の部屋は、必要最低限の、質素な調度しかない部屋だった。
「この部屋は少し冷えますので、これを」
寝台に腰をかけた私に、彼はまたローブをかけてくれる。この寝台には眠っていた跡はなく、持ち込ませたらしい書見台の明かりだけが煌々とともっている。持っていた蝋燭の一本をそこに足し、彼は書見台の椅子に座った。
「ずいぶん夜更かしなのね」
と言うと、
「領主殿はなかなか博覧でいらっしゃるので、ついあれこれと借り受けてしまって」
と、彼は本のページを撫でながら言う。
「私も、おじい様がこんなに本が好きだとは知らなかったの。ここにいたのが、小さいころだったからかしら」
そういう間にも、私は部屋を見回していた。壁紙には装飾らしいものは何もなく、作り付けの衣装かけには、着つぶされた教練着と、いつもの制服がかかっている。その真下に、個人物らしいものが鞍袋ごと投げ出されている。質素が身上なのか、それとも、単に自分のことには無頓着なのだろうか、その辺の感覚は私ははかりかねていた。彼も、たぶん私の勢いに負けてここにつれてきてしまったのに戸惑っているみたいで、会話が続かない。
出てきた抜け道の扉は開いたままだ。でも、一人であの暗がりを戻って帰る勇気はない。そらおそろしくなって、振り向くと、
「あら」
いつものお仕着せとはすこし意匠の違う服がかかっていた。真新しくて、見慣れないけど、ついている徽章にだけは見覚えがあった。
「デュークナイト徽章?
これもしかして、レンスターのデュークナイトの制服?」
つい声が出ると、彼は
「はい」
とだけ言った。
「まだ、着てないのね」
「いえ、何度か着ましたが、今は必要ないので」
「そんなことないわよ。徽章だけでも付けてたらいいじゃない。前線に帰ったらみんなこれまで以上に一目置くわよ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
私は立ち上がって、ローブのスソを引きずりながら、徽章に触れてみた。
「あなたの働き振りを、キュアン様が正当に評価してくださった証よ。上級騎士は推薦がなければなれないのだから。
すごいことなのよ」
「私はただ、万一のことがないように、王女をずっとお守りしていただけです。大役とは思っていますが」
「あら、私の護衛だけで徽章をもらったとでも思ってるの?
私の護衛が必要ないところで、前線で戦ってる姿は、吟遊詩人が『レンスターの青き槍騎士』って歌うほどなのよ」
「まさか」
「まあ、グラスワイン半分でつぶれちゃう人が出入りできる場所ではないですものね、酒場は」
「ああ、そのことですか」
彼は少し複雑そうな顔をした。困っているのか、恥ずかしがってるのか。
「折角よいものをご用意してくださったのに」
「気にしない。そのうち飲めるようになるって、おじい様仰ってたわ。
ね、それよりも」
「何でしょう」
「この制服、着てみて」
少し無理なお願いだったけれど、私も相応の服装で迎えたくて、新しい制服を着た彼の手につかまるようにして、部屋に戻ってくる。
「ちょっと、待ってて」
といって、クローゼットの中で悩むことしばし。今は、お姉様の服が、この雰囲気の中では似合うかもしれない。
着替えて出てくると、部屋に足された明かりのなか、制服のデュークナイト徽章をちらりと輝かせながら、彼は立ったままでいた。
「やっぱり、そのほうが格好いいわ」
と言うと、はにかんだ顔で
「王女も、お綺麗ですよ」
と答えてくれる。その言葉が、私を耳まで熱くさせた。「綺麗」なんて、お世辞にしか使わないような言葉が、この人から出ると、心底からそう思って言ってくれるのだろうと、思えてしまうから不思議だ。
なぜかわからないけれど、今の私は、一人で勝手にどんどん高揚してきてしまっている。別の部分の冷静な私がそれを笑ってみている。その私は、多分、昔表にあった「器」の私。でも今の私はそんな笑いなんか聞こえないふりをして、隣り合わせの椅子に彼を招き座らせた。
「叙勲式はしたの?」
とたずねると、
「式といっても、仮のことですから、改めて誓約をしなおしただけで、ほかには何も。
王女はまだお目を覚ましでいなかったので」
「そうだったの。
でも、よかったじゃない。
もう見習いでも、その辺にいる騎士とも違うのよ。もっと、堂々として」
「…そう、ですね、ありがとうございます」
こんなに困惑して、恥ずかしがって、うろたえてるこの人なんか見たことがない。私はおかしくて、ふき出しそうなのをこらえていた。
この人の目が、ひらいたり、閉じたり、細くなったりするほどに、私はその瞳に吸い込まれそうになる。そして、この人の視線はまっすぐ、私を見てくれている。その証拠に、この人の瞳に、私の影が見えているもの。
「ねえ」
私は、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「騎士の誓約、もう誰かにお願いされた?」
「誓約、ですか」
彼はきょとんとした。そして、頭の中でその文言を思い出すようにしながら
「我はわが主君に忠実なる者なり。主君には名誉を、貴婦人には敬愛を…」
とはじめるのを、私は止める。
「違う違う、それは騎士叙勲の誓約よ。
んー…言葉が足りなかったわね」
私は、そばのテーブルにあった、片手間に読めるとおじいさまから借りた騎士物語を見せた。ちょうどそのあたりを読んでいたはずだ。
「自分からその人に誓ったり、その人からお願いされて、絶対に破らないって約束されるもうひとつの誓約があるの」
ページをめくらせながら、私は軽く説明する。どうにも奇妙な雰囲気だけど、それもこのひとらしくて面白い。
ひとしきりページをめくってから、彼はややあわてたような顔で、
「こういうことを、言わなくてはいけないのですか」
「大層なものじゃなくていいの、自分の言葉なら。どう言えなんて、私から指示はできないわ」
といっては見るが、彼はその言葉が思い浮かばないようだった。
「じゃあ、…私から、約束させて」
私は、改めて彼の手をとった。
「私の騎士様、私の言葉を誓約として、必ずお守りくださいませ。
どうか私の、騎士様への思いを、受け取ってくださいませ。
私が騎士様の背中を守れるその時まで、私を見守ってくださいませ、
天がお定め給うたその時まで、どうか私とともにいてくださいませ。
私のために死ぬと、仰ってくださいませんように。
私の心は、今より騎士様のみ許に。
この唇をもって、誓約の証に」
そして、彼の指に、私は唇を押し当てた。
「これでおしまい…約束、破っちゃダメよ」
顔を上げると、彼は完全に固まっていた。私が手を離しても、自分の手をもとに戻すことすらしない。
「…大丈夫?」
私は、彼の顔を覗き込んだ。明らかに普通じゃない反応で、どうにかなってしまったのかと思った。しばらく見ていると、彼の手が、かくかくと人形のように動く。
「よろしいの、ですか」
そして、小刻みに震えた声が返ってくる。
「そのような、大切なお言葉を、私などにかけられて、よろしいのですか」
「いいと思ったから言ったのよ」
そう答える。すべてはもう、謎でもなんでもなくなっていた。私は、明かりのかざし方を少し間違えていただけなのだから。
真顔を向けた彼の瞳から、涙が一滴落ちた。
「なんとお答えすればよいのでしょう」
呆然とした声。落ちた涙を指でぬぐってあげながら、私は
「いやなら、拒んで」
それだけ言った。それだけは、彼の権利だから。でも、少しだけ期待した。
彼はゆらりと立ち上がり、私の手をとって立ち上がらせた。そして、ぎゅうっと、音がしそうな力で私を抱きしめた。そのまま、彼の誓約が、私の耳に響く。
「わかりました。貴女の誓いをお受けします。
代わりに、私の心をおあずかりくださいませ。
王女を守れるのは私よりないと言われるよう精進します。
天が定め給うたその瞬間まで、私は貴女の騎士として、そのみ許にあります」
全身が震えた。この人からこんな言葉を聞けるとは、思わなかった。怖くても、あの時一歩踏み出してよかったと思った。私とこの人とが、ほとんど同じことを思っていたなんて。
腕が解かれて、指が私の涙をぬぐってくれる。そして、
「この唇をもって、誓約の証に」
その唇が、溶けてしまいそうなほど、心地よかった。
「はい…私の騎士様」
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