おじい様がお持ちの本は古くて大きいものばかりで、二三冊持つだけで、腕がしびれそうになる。
本当なら、部屋に持ってゆかず、書庫の中で読むものらしいのだが、本が傷まないようにわざと暗くしてある書庫は、そのくらがりから何かが出てきそうで、とても、本を読むほど長い時間、私にいられるものではなかった。
その重たい本を抱き上げて、そろそろと書庫に向かう途中、その荷物が急にふわっと軽くなる。おじい様が、本の一冊を持っていて下さった。
「おじい様」
「最近勉強熱心なんだね」
と仰るので、私は先日の前線での話をして差し上げた。おじい様は、とても面白そうな顔をなさった。
「お前がマスターナイト。なるほど、なれたら歴史に残るな」
「なれるかどうかは分かりませんわ。お借りした魔法の本、読んでみましたけれどもさっぱりで」
おじい様ははははは、と笑われた。
「私だって、わからないよ。この書庫に有るすべての本が、有用なものであるとは限らない。
魔法は、すでに素養か、有る程度の学習をしたものから、実地で教わるのが一番早いと思うがね」
「ええ、私もそう思い知りましたわ」
おじい様に、本を棚に戻していただきながら、私はやれやれ、という顔をしてしまった。まさか、そういった方たちをここに呼びつけるわけにも行かない。やっぱり、自分が早く前線に戻るのがよさそうだ。でも。
「おじい様、私、こんなに羽を伸ばしたような暮らしをしていていいのかしら」
つい尋ねてしまうと、おじい様は
「前線の方々がいうのだ、戻って来いといわれるまではここにいなさい。
そうでないと、私もさびしい」
と仰った。
「いつかのときのように、家で同然に飛び出して、私を心配させないでくれよ」
「はい、今度はちゃんと、お知らせしてから出立しますわ」
私達は思わず吹き出しあった。
魔法の本をあきらめて、片手間に読めるような本を見繕ってもらい、帰る道、私はおじい様の部屋に招かれた。
「どうせ聞きにくるだろうと思ってね、それならば先に話してしまおうと思うのだよ」
「…はい」
「クレイスのことだ」
「お母様のことですか」
そういわれれば、お母様のことについて、聞きたいことが若干あったような気もする。でも、何かと取り紛れて、忘れていた。
「クレイスをまずノディオンに、と思ったのは、ゆくゆくはアグスティの宮廷に上がらせるための、いわば練習みたいなものだったのだよ。
まさか、ノディオン先代陛下のご寵愛があって、お前を身ごもって帰ってきたときには驚いたがね。
しかし、シャガール王子の人となりを思い知らされた今になっては、むしろそれでよかったとさえ思う」
そう仰るおじい様は、一体どこまでをご存知なんだろう。
「お伺いして、よろしいですか」
「何をだね」
「先代の王の愛人を、譲位後の新しい王が、引き続いて寵愛した例は、過去にあるのですか」
「…」
おじい様は、長く考えられた。それからお答えくださる。
「ないとは言わぬ。親子二代にわたって寵愛を受け、それぞれの御子をなした女性の例もあるにはある。しかしそれははるか昔、しかも異朝のことだ。お前が知りたい話の裏づけとしては、不十分だろう」
やっぱり、おじい様はご存知なのだ。メイドがお茶を入れる間の少しの沈黙を挟んで、おじい様が続けられる。
「たしかに、当代の陛下に急遽許婚が決められた、その理由にクレイスがあることは否定しない。しかし彼女のことは理由のあくまでも一端でしかなく、本来の目的は別にあった」
私の胸がどき、と鳴った。
「大陸の西アグストリアに、神器を守る家ありと改めて知らしめるには、他国との縁組を喧伝する必要があったのだよ。内外、特に、アグストリアにね。
イムカ様には当然シャガール王子がおられ、先代陛下には当代陛下。しかし、イムカ様はシャガール王子のご気性を早くから懸念されて、その制動力として、神器継承者という『影の王』がいることを知らせ、王子への牽制になさろうとしたのだ。
もしクレイスがあのままお側にあって、当代陛下の望まれるまま彼女がノディオン宮廷に入るようなことがあったら、その牽制が難しいとご判断されたのだろう」
「…」
おじいさまは、熱いお茶を一口含まれた。
「しかし、先代陛下がクレイスを寵愛なさる必然性はそこにはない。
だから、ここだけは私の想像だ。先代陛下のご意向に、コトをアグストリア国内で完結させてはならぬと憂えた一部廷臣の策謀が、偶然の一致を見たのかもしれぬ」
「…」
「神器を扱うものも、人より生まれた人の子。自制できなんだこともあろう」
私は、長く黙った。そして、もうおじい様はご存知に違いないけど、お母様が逝かれたあとの兄の様子を話した。
「…私がもし生まれていなかったら、お兄様はお母様を本当の王妃にするつもりがあったと思われますか?」
「難しい質問を立て続けにぶつけてくるものだね、この子は」
おじい様は苦笑いをされた。
「あの方のお考えは、私などには推し量る由もないが、あの方のことだ、『継承者』としての使命を果たした上で、そうなさることはあっただろうと思う。
もちろん、王妃ではないがね」
王妃として迎えられなければ、それは「公称愛人」だ。
神は、一人の夫に一人の妻しかお認めにならない。その中で、あえて愛人としてもう一人の妻を提示するのだ。純粋に、「しあわせ」のための愛人もいれば、何らかの政争の影響で仕方なく、ということもある。それでも、なにがしかの権力を少し与えれば、その権力にといりる者も出てくる存在。
でも、お姉様に王妃の椅子を譲られた後、最期まで表に出ようとしなかったお母様には、仮にご病気がなかったとしても、お姉様と妍を競われるおつもりは…おそらく、いえ絶対に、お持ちではなかったはずだ。
お母様は称号や権力がほしかったわけじゃない。
おじい様は私の考えと、ほとんど同じことを仰った。
「しかし、クレイスは、先代陛下の同様のお扱いをお断りして、このマディノに帰ってきた。
当代陛下にしても、彼女の答えはそこから推して量れるだろう」
「…私」
私はドレスの上で重ねていた手をくっと握った。
「もしかしたら、私は邪魔だったのではないでしょうか。お兄様は、私に『娘として出会いたかった』と、言いました。
お友達のお二方も、ご自分が望まれた方と結ばれました。それなのに、何故、お兄様は」
今になって改めて、思い知らされている。私はお母様を映す鏡で、魂の器だった。そうして生きてきた数年の間、お母様に向けられるはずだった言葉のあれこれを思い出すたびに、本当はご本人にいいたかっただろうにという切ない心が、私には少しずつたまっていた。
今私の体には大きな穴が開いて、埋まることはない。その穴に寂しさが吹き込んでくるのが怖くて、マスターナイトの修行に打ち込んでみたりはするけど、気がついたら、その穴に気がつかされて、私はそのむなしさにぼんやりとさえする。
「お前が、クレイスのいなくなった後に、どれだけ大切にされていたか、私も聞いているよ。世間は口さがないが、本当を知るお前は雑音だと思ってほうっておけばよい」
黙ってしまった私に、おじい様が仰る。
「そして、その雑音がお前に何の枷をかけることもないし、お前本人が枷に思うこともない。
それにかかずらい、お前を敬して遠ざけるような態度があったとすれば、それはそれまでと思って見切ればよいことだ」
「…はい」
「わかるね? 今のお前には、それがお前の意思でできるのだよ」
おじい様は、なぞめいたことを口にされた。顔を上げると、おじい様は笑っておられる。
「同様に、お前にどんな噂があったにしても、それを意にも介さない奇特な男も、捜せばいるかもしれないね」
「…そうかも、知れませんね」
私は、おじい様のなぞ解きのような言葉の意味を、はかりかねながら答える。とはいえ、子供ではない。私は私の意志で夫を、私から選ぶことが可能だ、と言うことだ。わからなかったのは、おじい様の笑顔と、いつかのばあやの思い出し笑いとに、なんとなく、同じものを見たということだ。
「ばあやも、同じような顔で笑っていましたわ」
私は、その憮然とした気持ちを、そのまま口にしていた。
「おじい様は、何かをご存知みたいで、そうでない振りをしてらっしゃる。ばあやもそう。
差し支えがないならば、はっきり仰ってください」
「まあまあ、そんな怖い顔をするものではない」
おじい様は、当てられないなぞ解きを楽しむままのお顔で仰った。
「そのときになれば、自然に分かる。
その綺麗な目を開いて、明かりをともして、よく探してごらん」
そんなことを言われても、その探し方さえ分からない。
私は、中っ腹のまま、庭を回っていた。
いつの間にか、厩舎のあたりまで来ていた。中を覗いてみたが、誰もいない。私の馬が、私を見つけて、じっとこちらを伺っている。
服の裾は長いままだけど、しばらく散歩代わりに乗っていようかしら。そんなことを思い始めたとき、ぶるる、と泣き声がして、見慣れた鼻面が肩の辺りに触れた。
「あら、サブリナ」
サブリナは、あの人の馬だ。エスリンさまがその名前をつけてくださったらしい。最初その話を聞いたのは、シルベールに向かう道の上のことだったけれど、私は場所柄もわきまえず笑いが止まらなくなって、彼を少し怒らせてしまった。
でも、サブリナそのものは、あの人から話を聞く前に見知っていた。
アグスティで、停戦が試みられていた半年の間、私はあまり人目に出ることが楽しくなくて、ひとりになれるところを探していたものだ。
どこか、そんな場所はないかと探していて、見つけたのが、城から少し離れた厩舎だった。
騎士の方々の馬と、荷物などを運ぶ馬が、一同に並べられて、いつか来る出撃を待っている。その間、馬の健康を保つために、従騎士や馬の係りの人が、その世話をしているのだ。
馬の顔をじっと見比べてみる。誰の馬ともわからない。かろうじて、私が移動のときに乗る馬はわかった。その子は、私が来るときは、何かおいしいものが食べさせてもらえると思って、催促するように足を鳴らすからだ。
「あら、あなたはこんなところにいたのね」
といっても、私は馬の引き出し方も鞍のつけ方もわからない。飼い葉のかごの中から、この子のすきな物を選んで食べさせていると、じっと、私に向けられている視線を感じた。
「いい子でいるのよ」
私の馬の鼻面を、軽く撫でてあげてから、私は、その視線の主を探す。
「だれか、いるの?」
でも、人の姿はなくて、音がするとすれば、時々、馬が体をゆすったり、私の馬がもっとおやつを欲しがる物音がするだけだ。
それでも探していると、特に綺麗に手入れされた馬が一頭いて、その馬が、私を柵から乗り出すようにしてみていた。
「私を見ていたのはあなた?」
と聞くと、馬はそうだ、とでも言いたそうに、耳をぴこ、と動かした。手をゆっくりと差し出すと、自分から鼻面を当ててくる。
「あら、人懐こいのね」
それが、サブリナだった。でも、そのときは誰の馬かわからなくて、でも、手入れに手の抜いたところがないから、誰か、公子さまが使っている馬だと思っていた。
でもそのときは、あまり馬に興味はなくて、厩舎の中の馬の顔を、一頭ずつ眺めながら、私は考え事をしていた。
お姉様がレンスターに行かれることに首を縦に振ってくださらなくて、どうしたらいいのか、それ考えていた。
もうお姉さまの家はレンスターではなくて、ノディオンになっていたのかも知れない。後になって、レンスターにあったご実家のことを考えると、もしかしたらお姉さまは、政局のことを抜きにして、お帰りになりたくなかったのかもしれない。
私は、お姉さまがあのようにお心弱くなる前、私をとてもかわいがってくださったことを思い出していた。お姉様からいただいた服も、特に気に入りは必ず道行きの中に入れていたし、お姉様から教わった歌も、歌詞のひとつも間違いなく覚えている。
ついその歌が口に出る。お姉様にも、もしかしたら、待つのをやめようと思ったことがおありなのかも知れなかった。
『遠いところのいとしいあなた
交わした言葉は永遠と
思う私はいけないのでしょうか
辛さ悲しさ心に秘めて
降る星空にあなたを探し
あきらめなければいけませんか
この言葉もし届くなら
いとしいあなたお返事を』
そして、お姉さまは歌のとおりに、ノディオンで待つという希望をあきらめなければならない瀬戸際におられた。
続きを口ずさんでいると、
『誰かおいでか?』
と、聞きなれた声が、でも、私の全然知らない言葉で、聞こえた。振り向くと、サブリナのそばに、その人はいた。
「あら、この子はあなたの馬だったの」
「はい」
「あまりに綺麗だから、誰か、公子様の馬かと思ったわ」
「毎日、手入れと訓練は欠かさないようにしております」
「自分でしているの?誰かに頼めば面倒がなくていいのに」
「いえ、それも騎士の修養のうちですから」
彼はそういって、鞍を持ち出してくる。
「王女、ぶしつけな質問とは思いますが、何故こちらに」
「一人になりたくて」
そう言うと、彼は少し思案するような顔をして、
「私は、失礼いたしましょうか?」
「その子を馬場に出してあげるのでしょう? 私はそのままにして、自分のことに集中して」
「わかりました。失礼します」
彼が鞍をつけると、サブリナは、馬場に出られるのがうれしい、そんな目をしていた。
「不思議な子ね」
と、私はつい言っていた。
「何か?」
「気のせいかもしれないけれど、この子、私が言うこともわかるみたいだし、なんとなく、この子がどんな気持ちでいるのかも、わかる気がするの」
「王女もそう思われますか」
彼はそういう。聞けば、彼もそういうことを思うらしい。
「もしかしたら、ほかの馬より、特別賢くできているのかも知れないわね」
「だとしたら、私はよい相棒に恵まれました」
彼は言う。私達の話し声が聞こえたのか、私の馬がまた身震いをしている。
「しようのない子ね」
私は馬の前に戻って、機嫌をとりながら、
「あの子を見習いなさい、あんなにおとなしいのよ」
というと、
「お待ちください」
と、彼が鞍を持って近づいていた。
「もしかしたら、この馬も、馬場に出たいのかもしれません」
「あの子が言ったの?」
「いえ、これは私の予想です」
彼は、さっと柵の中に入り、鞍を乗せようとする。そうしようとしてから、
「王女、そのお衣装で乗られますか?」
といった。私は
「ああ…そうね」
と、自分の服を見た。
「平気よ、こんな格好で乗ったこと、ノディオンであったもの。
それよりも、鞍の乗せ方を教えてくれる?」
「私がですか?」
「誰もいないここで、ほかに誰がいるの?」
「それも、そうでした。
では、ご自分でなされますか。広い場所でつけましょう」
訓練に使うような服を私も着ていたら、多分、本格的な騎乗の訓練になっていたかもしれない。
でも、私の格好と乗り方では、歩くよりできなかった。それでも彼は不平もなく、私の馬に合わせて、自分の馬を歩かせている。
「先ほどの歌は」
その中で、珍しく、彼の方から声をかけてきた。
「貴女がお歌いでしたか?」
「ええ。
お姉様に教えていただいたの」
「あまりお見事なので、レンスターより誰か来たものと思い、つい母語で誰何してしまいました、失礼をいたしました」
「気にしてないわ。
それと、ほめるなら、お姉様をほめて」
私は、まっすぐ前を見た。
「お姉さまは、最後まで、ノディオンにおられることをあきらめないと思うの」
「はぁ」
「それを、無理にでも返そうとしている私やシグルド様は、きっとお姉様にうらまれているでしょうね」
「私はグラーニェさまを詳しくは存じ上げませんが」
と彼は返してくる。
「エスリンさまのお話によれば、柔和で、人を恨むような方ではないと。
まだ、事態の好転する希望の残っているうちはと思われているのは、尤もかと」
「そう、よね」
お姉さまも、まだ、希望を抱えていらっしゃる。私が悲観してはいけない。
「レンスターへお移しするかどうか、ぎりぎりまで、お答えを待ってもいいかもしれないわ」
「…ご随意に」
彼は、それだけ言った。私は、歌いかけていた歌の続きを、つい口ずさんでいた。
『遠いところのいとしいあなた
あなたが勇気をくれました
思いの揺れた私へと
責めずに優しくお言葉を
星に託してくれました
あなたの言葉を胸にして
そのお帰りをいつまでも
いついつまでも待ちましょう
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