「難しいお話は終わりまして?」
と、お姉様が入って来られた。いつにもまして、身綺麗に装われるのが、登城する兄を見送られるお姉様の作法だった。
「ああ」
兄は私から少し離れ、お姉様と、その腕の中のアレスに向き直った。
「アレスも一緒か…
よく笑うようになったな」
「はい、アレスはお父上が大好きですわ」
ヴェルダン侵攻の前に生まれたアレスは、そろそろ一つになろうとする可愛い盛りだ。兄も、内政の間をかいくぐるように、お姉様達のそばにいることが多い。それがただの体面なのか、それとも、このお二人の間に「しあわせ」が訪れたせいなのか、それは私にはわからないけれども。
兄は、お姉様の腕の中で、不思議そうに兄を見上げるアレスを見ながら、
「グラーニェ。外出がつづいて心細い思いをさせてしまうな。…すまない」
お姉様に、そう優しく言った。
「アグスティについたら、たよりをだそう。なるべく早く帰る」
「はい。お早いお帰りをお待ちしますわ」
お姉様はそうおおようにおっしゃって、お土産の無心など始められる。
そのうち、三つ子の騎士の一人が来て、出立の時刻を告げる。
「陛下、お発ちの前に、アレスを抱き締めて差し上げて」
兄は、それに頷いて、お姉様からアレスを渡される。
「…重いな」
そう笑った。そして、騎士に言う。
「エヴァ、お前達三人は、部隊ごとノディオンにのこるように。俺は居残っているクロスナイツを、人員の交換もかねて少しだけ連れてゆく。
すぐ帰る予定だ。しきたり通りでは仰々しい」
「御意」
アレスを腕の中にして窓の外を望む兄の表情は伺い知れない。しかし…装われたいい口には、やはり、私を不安にさせるものが滲んでいた。
「俺のいない間、ノディオンを頼む」
兄が、三つ子の騎士を部隊ごと残した理由は、…やはり…中央に対する遠慮ではなかった。
ほどなく、兄が投獄されたという報告があり…ノディオンの謀反は疑いなしと、シャガールはヴェルダンとの武力衝突の前に、ノディオンの粛正を決定した。
そして、今、ノディオンの城には、ハイラインからエリオットの手勢が迫っている。地の利からして、早い出撃になるだろうことは予想できたが、まさか第一陣でやってくるなんて。
「陛下の御英断には感服するばかり、それに報いるためにはノディオンは死守せねば」
と、アルヴァ。
「姫様、後事を陛下より託された以上は、我々が命にかえてもお守り致します、ご安心を」
と、エヴァ。
「…御心配なく、我々がおります。陛下との演習を踏まえられて、宜しく御裁可を」
と、イーヴ。
私は、兄の執務室で、広げられた地図に軍勢の位置と大きさを示す印がたてられてゆくのを、冷や汗が吹き出すような緊張感をもって見つめていた。予想されるハイラインとアグスティの勢力にくらべて、我々ノディオン軍の、なんて小さいことか。
「こと、ただいまノディオンに向かっておりますエリオット王子には御注意召しませ、姫様。王子のかねてからの御執心をかんがみれば」
「話によれば、シャガール王は、美姫の誉れ高い姫様のお身柄と陛下とで、取引をも考えられている由」
「しかしエリオットのこと、姫様ははやアグストリアの至宝とまで讃えられておりますゆえに、それに先立っての御乱心の懸念も捨てられませぬ」
三つ子が、同じような声で、地図のそこここをさしながら何か言い合う。私は
「シャガール王はもちろんです。エリオットなど論外です。私は、兄上のような方でなければ、誰の所にも嫁くつもりはありません」
と言った。一度お姉様に言ったこの方便は、子供じみたいい口ではあったが、それ以上この話をさせない為には実に便利だった。
「姫様、弟達に釣られませぬように。今は姫様よりはご裁断を仰ぎたく」
案の定、イーヴが苦い顔をする。
「いかがされますか? エリオットは愚将ですが、愚かゆえになにをしでかすかわかりませぬ」
私は、こうしている合間にも、エリオットが、自らに吹く追い風に頼んで、脂下がった顔を妄想にゆがめながら迫ってくる形相が想像されて、不快なものに突き上げられる胸を抑えてしまった。
「…アグストリアの内に、ノディオンに友誼を感じている勢力はないの?
マディノは?」
「…マディノは、援軍を要請するには時間がかかりすぎます。アグスティを通過するのが最短距離ということもかんがみましても、マディノからの援軍は、期待されない方がよろしいかと」
「イムカ様に従っていた古い勢力は、飛ぶ鳥落とすシャガール王の勢力におされて、鳴りを潜めております。元来、イムカ様はいたずらに激しいことはお好みになりませんゆえに…」
苦しい声だった。
「ノディオンの周りがどうなっているか、ちゃんと教えて」
「は」
イーヴが、長い棒で地図のあちこちを押さえはじめた。
「ハイラインはご存知の通り、アグスティの先鋒となって、ノディオンに兵をすすめております。
アンフォニーとマッキリーは、優位になる勢力を見極める意図が有るものと思われ、今はこの動乱にに表立っての立場をしめしておりません。が、いずれ、シャガールの命によって我々に敵対することは明白と考えます。
クロスナイツは大多数がアグスティを守護する特別部隊として、かの地にて、陛下のお身柄に危害を加えない条件として、シャガールの身辺護衛を命じられています。
事実上、ノディオンを守護するのは、クロスナイツの残存部隊とわれわれの部隊のみ、と、いうことに」
私は、奥歯を噛んだ。ここまで劣勢なことなど、今までの演習にはなかったことだった。本当なら、ここで、アグストリアに対してあるだけの呪いと罵りの言葉を吐き出したかったが、そうした私の取り乱す姿は、きっと周りを不安にさせることだろう。
わずか残された勢力でノディオンをまもりきることができるか。そういう問いに対して、私の頭の中は、絶対的に不可能と、叫び続けている。
「姫様、難しいとは重々承知ですが、ご裁断を」
そう促されて、私は、
「アルヴァ、ここからエバンスまで、一番早い伝令でどれくらいかかる?」
そう口にしていた。
シグルド様は、このおこりはじめた動乱の一因として、アグストリアでは必ずしもよくは思われていない。その方に援軍を依頼するのは…兄としては、望んでいなかったやり方だったかと思う。間違いなく、かの方達を、もっと激しい、そして本来かかわりのない望まない政争に巻き込んでしまうからだ。
だが、私と三つ子の出した結論は、それしか、私達が生き延びる方法はないと言うことだった。
「エバンスのことがあります、シグルド様はきっと来てくださいます。だから、それまでの辛抱…
エリオットの軍勢が来ても、こちらから攻撃はしないで。よくて?」
「かしこまりました、姫様」
三つ子は、私に、兄にするような最敬礼をして、執務室を出て行った。私もそこを出て、城の東の棟…お姉様とアレスの所に向かう。
兄を襲った不幸の報を受け、お姉様は卒倒されてしまった。お気がつかれても、そのまま、起き上がられる気配もない。
私が、ご様子をうかがいにお姉様の部屋に入った時、お姉様は、私をごらんになるなり、泣き崩れられた。
「もう、私、どうしたらよいものか、もうわかりません。
アグスティの盟主陛下をうらみます…
私の陛下は、アグストリアのおためを思えばこそ、あえていろいろ申し上げおりましたのでしょうのに」
お姉様の枕は、涙で色がかわっていた。レンスターから直接ノディオンにお入りになって、国内の事も良くわからないのに、今回の動乱… おそらくお姉様のお心は、それまで経験されたことがない程押しひしがれていることだろう。そして、カルフ陛下やキュアン様に比べ、シャガールとその周辺がいかに愚かしくて、兄がその中でそれだけ奮闘してきたのか、思い知られたのだろう。
「今、援軍を要請いたしました。
もう、アグストリアの中に味方はおりません、エバンスのシグルド様なら、きっとこのノディオンの窮地に、ご友誼をもって救援に来られるはずと、私と近衛騎士の三人とで決定いたしました。
その到着まで、持ちこたえることができれば、ノディオンに、活路はございます」
そう言うと、お姉様は少し安心されたお顔で、
「よかった…ノディオンは助かりますのね…陛下も御安心になりますわ」
とおっしゃった。
「ノディオンが無事であれば、陛下がお帰りになる場所がありますものね…陛下さえお戻りならば…全て元の通りになりますのね…」
「申し訳ありません。兄上の御身の上が穏やかならないことはうすうす気がついていましたのに…もっと私が強くお引き止めしていれば…」
「ええ、ええ、あなたはいいのよ…それより方法がなかったと言うなら…陛下も御責めにはなりませんでしょう…私はここで、陛下のためにお祈りをするだけ…」
お姉様のお目は、どこかを見ているようで、どこも御覧になっていなかった。おそらく…どんな話をしてもきちんと聞いては下さらないだろう。お姉様の側を、離れるべきか否か、ふと迷った時、アレスの泣き声が聞こえた。侍女が遠慮がちに進み出てきて、
「お妃さまを」
と言う。でも私は、
「お姉様は、少しゆっくりさせて差し上げて。私が行くわ。
「アレスはずいぶんご機嫌斜めそうね、ここまで泣き声が聞こえてくるわ」
「はい…申し訳ありません」
アレスは、お姉様とは少し離れた部屋にいて、私が入ってくると、確かに彼は、侍女とおもちゃに囲まれながら、不機嫌をまき散らすように泣いていた。
抱き上げると、しっくりと重い。こんなに小さいのに、この子には、もう、魔剣とノディオンを継ぐ運命が決められているのだ。でも、その運命も揺らぐような今の勢いを考えると、運命なんていうものは、案外にアテにならないものなのかもしれないけれど。
アレスは泣きやんで、間近の私の顔に、小さな手でふれてくる。私が指先で頬に触れ返すと、彼はにっこりと目を細めた、その顔立ちも瞳の色も、兄にそっくりだ。
「もうごきげんなの?」
と言うと、アレスはこっとりと、私の肩に頭を預けてしまう。
「そう、おねむまで、誰かにいてほしかったのね」
背中を叩きながら、彼の眠りを促しながら居ると、脇の方から侍女が
「あの」
と控えめに言ってきた。
「何?」
「姫様、どうか、お妃様に、少しでも王子様の元にいらっしゃるようにおっしゃってくださいまし」
「どういうこと? お姉様、ここにいらっしゃらないの?」
「はい…陛下の事がございまして以来は…」
それができるお姉様が、正直羨ましかった。私は、自らが望んだとは言え、兄の代わりにノディオンをまもると決心した。兄はきっと不安だろう。いくら私に内政の手ほどきをしたとはいえ、まだまだ判断を誤ることも多い。今がまさにそうだ。
「そっとしてさしあげて。お姉様は、兄上が心配で心配でたまらなくてらっしゃるのよ」
「はあ、ですが」
「あなたたちも、兄上がこんなことになって、不安なのもわかるわ。でも、兄上がおられない間を、淋しくさせないのも、貴女達の仕事でしょう?」
「は、はい…申し訳ありません」
「ごめんなさいね、少しの辛抱だから…不安もあるだろうけど、お姉様のご心配されるようなことは、あまり口には出さないで」
「はい…」
私は、アレスを侍女にあずけて、東の棟を守る兵士を二三呼び、ここでは戦局を話題にしないようにいい、そのまま執務室の前を通り過ぎてしまったのか、気がついたら、お母様の部屋の前にいた。
うすぐらい部屋のカーテンをあけると、ふわりと光が入って、それまでと変わらない部屋があらわれた。お母様が、どちらかにお出かけになったままになっているようで、居心地が良かった。お母様の微笑みが、私を見下ろしている。
「お母様、ノディオンと、兄上を守ってくださいましね」
つい言葉になった。何もおっしゃらないけれど、私の体の内側には、暖かくともるものを感じていた。このあたたかさのうちに、いつもお母様がいらっしゃると、私は信じている。私はそれで、兄上を守っているのだから。
エリオット隊は、援軍の一足先にノディオンを包囲した。こちらの戦力を試すような、小規模な小競り合いがときどきおこる。とはいえ、ノディオンが赤裸同然なのは、クロスナイツが動けないと言うだけで、エリオットの頭でも自動的に導かれることであったから、おそらくは、強硬的に突入して、私の身柄に万が一のことがないように、あるいはこちらの白旗を待っているフシもあるのだろう。
私は、その日も城の塔に登って、形の変わらないエリオットの布陣を見て、ため息を付いていた。一体、彼の頭の中では、何度私はこの身ぐるみを剥がされたのだろう。それを考えると、悪寒が走った。
それを見たくなかったから、意識的に反対側に視線をそらした。その時、きら、と、光が入って来た。
「なに?」
顔をあげる。東の方から、誰かが捧げ持ってくる槍の穂先なのだろうか、あきらかに金属的な輝きが向かってくる。
直感した。
援軍だ!
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