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<○月×日
 フローラが言うには、奥様が夕食に着る服の相談を持ちかけて来られる日がご領主の帰ってくる日なのでとても分かりやすいらしい。>
「ああ、これはこの間着た。これはその前に来た。これはその前の前に着た。これは…とんでもない、お母様のなんて着られないわ」
衣装を部屋いっぱいして、ラケシスがその真ん中で考え込んでいる。
「ねぇフローラ、どれがいいと思う?」
「まだお召しになっていないのなら、こちらでもよいと思うのですが…」
「だから、お母様のなんて、着られないわよ」
この場合のお母様、はラケシスの、ではなく、フィンの、である。
「ですが、ご領主様は、自由にされてよいと仰ってますよ」
「なおさらよ。確かにお母様の服はとっても趣味がよくて、私も好みだわ。
 でも、着たら比べられるでしょ」
「はぁ」
「…あの人のお母様って、どんなかただったのかしらね。こんなに趣味のよい服をもっておられて」
「私は、何も聞いておりませんが」
「私も、ね。でも服は、着ている人の心を表すのよ。お母様はとても深い心でいらしたんだわ」
ラケシスは、衣装の中のひとつを取って、いやにしんみりといった。と、ほかのメイドが入ってきて、
「奥様、レンスターの城下町の仕立て屋からおとどけものが」
と、前が見えないほどに衣装箱を抱えてくる。
「え?」
頼んだ覚えはない、というと、
「私からですよ」
その後ろから、ひょこりと、フィンが顔を出す。が、その顔面にはすかさず枕が投げつけられた。
「見ないでっ」
その枕を、衣装箱の上に重ねて、フィンは自分の部屋に戻ってゆく。
「まったくどうして、あの人は、デリカシーがないのかしら」
「奥様、申し上げにくいのですが」
フローラがたまりかねていった。
「…ビスチェをお召しになっただけで服を選ばれるのは、お控えになったほうがよろしいかと」
<…僕にはフローラの言葉で、そこだけはよく分からかった。ただ、彼女が言うには、ご領主は、誰からも奥様の服の寸法を聞かれたことがないという。しかし、仕立てられて届けられる服は、いつもぴったりと合うそうだ。>

<○月×日
このごろ、城の行き帰りがずいぶん寒くなって、馬の上だと頬が切れそうだ。
帰ってきて、書類の箱を執務室に置いたら、奥様が熱心に何かを読んでおられた。>
「うー…」
ラケシスの顔が渋い。そう難しそうな本にも見えないが、彼女の手元には、「レンスター語?アグストリア語辞書」などという、ご大層なものがおいてある。
 シュコランの隣でそれを見ていたブランが、
「奥様、差支えがなければ、私たちが読みましょうか?」
と尋ねると、ラケシスは本をぱたん、と閉じて、
「いい、大丈夫、一人で読んで見せる。辞書もあるし、ね」
と、それらを抱えて、パタパタと部屋を出て行ってしまった。
「珍しいな、奥様があんなにあわててるのは」
「そうだねぇ」
普段、彼女が整理しておくはずの領主の書類は、今日に限っては、整理することもなく、投げ出されている。

<○月×日
 奥様が、また厨房をお使いになりたいといって、ご領主はだいぶ渋い顔をされておられたが、結局拝み倒されたらしい。>
「この間みたいなことに、ならなければいいんだが」
執務室の机で、フィンが所在無く呟いた。
「奥様は、お料理に関してはどれほどの腕をお持ちなんでしょう。槍はご主人様と同じほどに使われますが…」
ブランが言うと、フィンは
「正直なところ、私にも分からない」
と肩をすくめた。
「しかし、見に行ってもだめというのは…」
そして、ため息をつく。
「この間の髪のおコゲだけですめばいいのだが」
「フローラもついていますし、今日訪ねて来た母上もついていますから、そうあぶない事故はないと思うのですが…」
「叔母上もいらっしゃるのか」
とフィンが裏返った声を上げる。叔母上とはすなわち、ブラン・シュコランの母である。
<しかし、ご領主様も、奥様の料理の腕をご存じないとは、不思議な話だと思った。
よほど自信がなくて今までお見せになっていないのか、それとも、今までたまたま見る機会がなかったのか。それを後でブランに言ったら、「そうじゃなかったら、奥様はいままでご自分でお料理なんてところから縁遠い、とてもやんごとない人か、どれかだな」と言った。>
 しばらくして、双子の母にしてフィンの叔母・レーナは、
「ええ、一度はどうなることかと思いましたけれど」
といいながら、厨房の方から出てきた。
「お怪我など、ございませんか」
「ええ、私に怪我はないけれど、ケーキの焼型がひとつ大怪我を負いましたわ」
「焼型ぁ?」
執務室にいた男三人は、裏返った声を上げた。しかしレーナはそんなことはなんでもない、というようにほっほ、と笑う。
「奥様は少ししょげて、今はお部屋におられますけれど、余りそのことには触れないで差し上げてくださいませね」
ああ楽しかった、私にもあんな娘がひとり欲しかった…呟きながらレーナは、楽しそうにかえっていた。
<後でフローラから話を聞いたら、いつか奥様がお読みになっていたのは、お菓子の作り方の本だったそうだ。>

 <○月×日
 年末が近づくと、お城もさりながらアレンの街もなんとなく落ち着かない。年が明けたらすぐご領主のお誕生日なのだ…>
「年が明けたら、いくつになりましたっけ」
レーナ夫人は、このごろはかなり頻繁に領主の館に出入りしている。ラケシスからの頼みであれこれ手伝わされているのだろうとはフィンは感づいてはいたが、その内容までは知らない。とにかく、そう言う夫人の問いかけに、
「にじゅう…いちになりますか」
といった。
「本当に、あなたのうまれた日は雪がすごい年で…」
といって、レーナ夫人は後は余り話したくないように、しんみりとした。
「昨日のよう」
「私もびっくりしてますよ、王宮に上がるときには、自分で歩くのもおぼつかなかった二人が、私の手で騎士になりたいというのですから」
「当たり前です、二十歳を待たずにデュークナイトになった例など、レンスターの歴史長しといえどもあなたが初めてでしょう」
「もったいない…」
と口に仕掛けて、ふと見ると、ラケシスがひょこりと、困った顔でいる。
「レーナ夫人、どうしても分からないところが」
「はいはい、今参りますよ」
「何をなさっておいでなのです?」
フィンがそう尋ねると、ラケシスはまた顔を出して、
「秘密」
と、それだけ言った。

<1月×日
 今日はご領主様の誕生日ということもあって、館はとてもにぎやかだ。街のみんなに領主館が解放されて、領主は挨拶を受けられている。隣にいらっしゃる奥様を、うっとりと眺めて行く人も多い。>
「母上」
と、シュコランが言った。
「奥様に、今まで何を教えられていたのです?」
「それは、奥様から秘密といわれているので、私からは言えません」
レーナ夫人はほほ。と笑った。
「まあ、運がよければ、あなたたちにもその秘密の分け前に預かれるかもしれませんね」
「はぁ」
<街はまだまだ騒いでいるみたいだけど、僕たちはご領主が特別にお許しくださって、母上と一緒に領主館にいられることになった。部屋は全然違うけど、一晩フローラと同じ屋根の下っていうのは、初めてで少しどきどきする>
血縁のほとんどいないフィンにとって、叔母と従兄弟はただの一族以上に特別な存在らしかった。
「ははは、まさか、こんなところに俺も呼ばれるとは、少しびっくりだね」
と、ベオウルフが珍しく歯が浮いたような顔で言った。
 面々がいるのは、領主の家族が使う、いわば食堂のようなところだ。屋敷にいればラケシスと使い、屋敷にいなければ、ラケシスが使う部屋だ。
「フローラ、あれ、そろそろいい時間ではなくて?」
と、ラケシスが言った。
「はい」
とフローラが言って、たた、と部屋を出る。
「さ、奥様、渡して差し上げてくださいな」
レーナ夫人が進めるようにしていい、
「あのね、これ」
と、ラケシスの手から何か渡される。
「寒いでしょ。仕事の時冷えないように、ひざ掛け編んだの」
「え」
フィンは一瞬ぽかん、とした。レーナ夫人だけがくつくつと笑う。
「びっくりした顔は子供の頃と全然変わらないわ」
「教えてもらってやっと編んだんだけど、目が飛んでるし、あんまり格好もよくないし」
「え、あ」
余りのフィンの突然でどうしていいか分からない、という顔に、ブランとシュコランは噴出しそうな顔をしたが、夫人に同時に脇をぐりっとつねられる。
 その間に、
「奥様、成功ですよ」
といいながら、フローラが何かをもってきた。広げた小さな布の上で、こんこん、と焼型を叩くと、ころん、と四角い何かが転げてくる。
「よかったぁ、おこげなし」
ラケシスが脱力して言った。
「一晩冷ますと、ちょうどいい具合になりましょうね」
レーナ夫人がその四角いケーキの天地をなおし、
「さ、明日のお十時には、奥様お手製の美味しいケーキをいただきましょうね」
と、自分を含めた外野をさあさあと、部屋から出した。

 <母上がこのごろ頻繁に領主館においでだったのは、奥様のたってのご希望で、ご領主の誕生日に何か贈り物をと、その相談に乗っていたのだと、あとになって教えてもらった。
 おがんばりになるお姿の前には、ケーキの焼型など、何度壊してもいいんです。母上はそうとも言った。
 ご領主が、あの突然の贈り物に、どんなお言葉をかけられたか、僕は聞いたけど聞かせてもらえなかった。でも、お城に行かれる荷物の中に、奥様のひざ掛けがいつも入っているのは確かだ。夜、書類を見る間に仮眠を取られている間は、体にいつもかけられている。
 グレイド卿が、奥様お手製とは知らず、「ずいぶん雑な作りだ」とそれをみて仰ったら、ご領主はものすごく機嫌を悪くされた顔をされて、その日一日、グレイド卿と口を聞かれなかった。>

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