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「…お父様」
フィンは音もなく後ろにして、机の上においてあったつづりをとり、ページをめくっている。
「細かいご配慮だ。私も少しは何か手伝えるかと、人に聞いたりもしたが、これがあるなら余計な心配だったね」
ナンナにとっては教科書のようなものでも、フィンにとっては忘られない人の字を追うだけでもうれしいのか、少しく唇を緩めながら、そのつづりを読んでいる。
 つづりが最後の方になって、そのフィンの顔の雰囲気がふと変わる。唇に指をあてるのは、何か思索をしているポーズで、その姿でしばらくあって、彼は「くくく」と、大笑いしたいのをかみ殺すような声を出した。
「この知恵までナンナに直伝されるおつもりだったのか」
「?」
フィンは、開いていたページをナンナを見せる。自分の体を月に見立てよという、あのページだった。
「まだ私が若かったときに」
思い出すように、彼は言う。
「このばあやどのの知恵には、苦い思いをしたし、うれしい思いもした」
そして、
「リーフ様をここにお呼びして、お前はしばらく席をはずしていないさい」
といった。
 部屋の中で、リーフとフィンが何の話をしているのか、耳を澄ましてもナンナには聞こえなかった。でも、あのつづりをそこに残してきてしまった以上、話題にあがるのは間違いあるまい。
「どうか、お父様、許すとおっしゃってください」
扉の前で、手を合わせたとき、扉が開く。
「…何をしてるの、ナンナ」
「リーフ様…
 その、父は、何を」
「ん?」
リーフは、ナンナが余りに真剣な顔をしているのに少し困った顔をして、
「どうってことないよ。君が僕の部屋にいて、迷惑じゃないか、僕の世話はちゃんとできているか、そんな話だけだった」
「あの」
「秘密のことまでは、話さなかったよ」
「…よかったぁ…」
ナンナは、その場にへたりと崩れた。
「僕が信用できなかった?」
支えられて立ち上がり、部屋にまでつれていかれ、椅子に座らされる。
「違います。父はカンがいいから…お話していなくても、分かってしまうのではないかと思って」
その隣に座って、リーフが
「だからあんなところにいたんだ」
といった。
「はい」
「ああそうだ。昨晩見た月の話になって」
「はい」
「旅の間に見た月が綺麗だったこととか…少し話した」
「はい」
「新月に近くなると、ナンナが暗いのを怖がって、なだめるのに苦労したと、フィンは言っていたよ。
 そのせいかな、伝言だよ」
「伝言?」
「旅なれたものも迷う新月間近の夜。怖がる足元を照らすのは、私のかざす光ではない」
詩の一節にも聞こえたけど、何が言いたいんだか。リーフは不思議そうに言った。
「暗いのを怖がるのを、明かりをかざして安心させるのは、もうずいぶん前から僕の仕事だと、思っていたけど」
ナンナが、動きを止めた。
「…ナンナ?」
リーフがびっくりして、ナンナの顔を覗き込んだ。ナンナが、今にもこぼれそうなほどに、涙をいっぱいにためていたからである。
「どうしたの。急に泣いたりして…」
肩を寄せて、よしよしと、子供にするように頭を撫でられるが、ナンナの涙はなかなかとまらない。伝言の意味は、ナンナだけにわかれば、それでよかったのだ。

 「信じられない…ナンナが鼻歌うたってる」
解放軍の厨房で、ナンナがジャガイモをむく姿は、それ自体が喜びのような満面の笑顔だった。
 もともと料理や細かい手作業が嫌いなタチでもない。ナンナが厨房の当番に回った日は心なしか食べ残しも少ないのは、それも彼女のカリスマ効果だろうか。
「何か、いいことあったの?」
と、同じように当番に回っていたリーンが尋ねた。ナンナはは、としてから
「え、どうして?」
「気が付かなかった? 鼻歌歌ってたわよ」
「やだ」
顔に出さないつもりでいたのに。ナンナははた、と顔を押さえた。
「前が私が教えたこと、少しは役に立ってる?」
リーンがさらに尋ねてきて、今度はややはにかんで
「え、ええ」
と答える。
「もっとも、私の知らないところで、アレスがもっとすごいこと教えてるらしいから、負けちゃってないかな、とか思ったりして」
「大丈夫、がんばってるから」
「あはは」
リーンは朗らかに笑った。
「その笑顔なら、確かに大丈夫そうね」
「ええ」
「アレスと一緒に、応援してるからね」
「ありがとう」
でも、さすがに、我慢の年月は終わりそうだと知ったら、リーンもまた複雑な顔をするだろう。

 むいたジャガイモの後始末をしていたとき、厨房の方で
「ナンナぁ」
と弱弱しい声が聞こえた。
「どしたの?」
「そんなに痛むの?」
ほかの少女たちが、その声をいたわるように集まってゆく。
「いつもより痛い…そんな時期でもないのに」
声が弱弱しく返す。
「ナンナ、お母様のあれ、貸して。もしかしたら、原因が書いてあるかも…」
「わかった、持って来る」
ナンナはエプロンを解いて、
「だから、部屋で寝ていて。おなか、冷やしちゃだめよ」
と、言いながら厨房を飛び出した。

 が。
 肝心のあのつづりが見つからない。出しっぱなしにしていた覚えもないし、この間フィンに読まれていたときも、ちゃんと返してもらって、私物の中に入れていたはずだ。
「どうしよう…」
あんなつづり、盗んでも得にはならない。それより、盗まれたほうにとっては大損害だ。いなくなって何年もたつ母親の、形見も同然のものなのに。
「探し物はこれかな」
と、後ろから見慣れたつづりが出てくる。
「そう、それ!」
受け取ろうとして振り返り、
「あ」
つい、固まってしまった。
「リーフ様」
「ごめん、この間フィンと話をしていたとき、面白そうだったんで、フィンに頼んで持ってきてもらっていたんだ」
「お父様が」
「困ってるの?」
「私じゃありませんけど」
「急ぎなんだね。本当にごめん」
「大丈夫です、なくしてなくてよかった」
「早く行ってあげて」
「はい」
部屋を飛び出すナンナに、つとリーフは呟いた。
「この間の伝言の意味…僕もわかっちゃったって言ったら…やっぱり、だめだよね」

 いつにない腹痛で部屋に押し込まれた彼女は、思ったより重篤な状態だった。医者に後を任せたが、
「…」
ナンナの足取りは重い。
「彼女、どうだった?」
と、部屋に帰ってきたナンナに、何気はなしにリーフが尋ねると、
「…」
ナンナは頭を振る。
「気が付かずに赤ちゃんがいて…形になる前に流れちゃったんですって…」
「え? そんなことあるの?」
「あるみたいです。つづりには書かれていませんけど、フィアナにいる間に聞いたことがあります」
そういうことがなくて生まれてきた私達は、それだけでも幸せなんですよ。ナンナは、少し涙がちに答え、ぽつんといすに座った。
「怖いです」
「怖い?」
「私も、これから、同じ経験をするかもしれないと思うと」
「そうならないようにあのつづりはある。そうじゃないの?」
リーフが至極真面目に言う。
「新月間近の夜は、君を悲しいことにさせないよね」
「え?」
「君への伝言のことだよ」
ナンナの顔が、青くなったり赤くなったりする。そうして、出てきた言葉は
「…今回は、だめです」
だった。
「どうして」
「すぐ近くに、悲しい思いをしている人がいるのに…そんなこと」
「…」
リーフはため息をついた。そして、つい、と指で招きよせる。
「そういうナンナでよかった」
「…」
「人は人、自分は自分で、自分の目先にある何かのためにほかの子の心配なんてしないナンナだったら、僕はどんなに彼が許しても、今までどおりでいようと思った」
「…」
隣に座らせたナンナに、リーフは何かを耳打つ。普段から彼が何気なく使う「好き」の言葉ではなく、もっと深い、甘やかな、彼女だけに使われ続けるだろう言葉だった。

 しばらくあって。
 昨晩のひと時がどうだこうだ、言いながら食堂に向かっているアレスとリーンの姿があった。
「ほんともう、起こすのすっごく苦労したんだからね」
「寝坊させるほど元気だったのはどっちだよ」
「…お互い様」
もっとも、この二人に限っては、決められているはずの朝食の時間に遅れたり間に合わなかったりしても、特別とがめるものはいない。
「何か作る?」
「何か残ってれば、それでいいや」
すでに余人では介入できない世界がそこに出来上がっているからだ。
 まだ眠そうな顔を窓の外の日差しに無理やりさらして、ふと見ると、まだ食堂に人がいる。その顔を見て、アレスは十まで心得た顔をして、簡単に準備をしてきたリーンに、黙ってそのほうを指した。
「リーフ様にナンナじゃない。
 何か変わったことでも?」
なんでもない顔をして、アレスはさっさと食べ始める。少し離れたあたりで、差し向かいで話している二人は、時々何か楽しそうに笑っている。二人がことさらにこう仲がよい風景でいることは、珍しいことではないが…
「…いい感じじゃない」
リーンはそういい、アレスは、
「アレじゃあ秘密になってないな」
と呟いた。

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