「あのねナンナ…一度、確認したいのだけど」
その夜、寝台の上で膝をつきあわせて、リーフはナンナにつと訪ねる。
「僕とこうしている理由…わかっているよね?」
「はい」
ナンナはいとも朗らかに
「お母様とのお約束を、リーフ様は守ってくださっているんですよね」
と言った。
「…うん、確かにそうだね」
リーフはまず、それにうなずいた。いまはもう、どちらも脅威ではなくなってしまったが、トラキア半東北部を支配していたフリージ王国や、南部のトラキア王国、そういったものから本来守られる立場のリーフに感じるところがあったのか、幼くして別れなければならなかった娘を、彼女はリーフに託していった。それがリーフの心の成長に多大な影響を与えていたとは、今は、誰も悟れるはずもない。
「でも、フリージもトラキアも怖くなくなった今、僕たちがことさらに一緒にいる理由なんてないんだよ」
「そんなことありません、リーフ様は、今でもちゃんと、ナンナを守ってくださってます」
「そう?」
「リーフ様がそばにいらっしゃるから安心できるって、お父様も言っているんですよ」
違う。それは何かが違う。リーフはそう混ぜ返したくなるのを、苦笑いでこらえる。
「それに、私、男の人と話すのはあまり得意じゃなくて… 何でもお話できるのはリーフ様とお父様とお兄様ぐらいなんです」
「そうかなぁ」
トラキア半島の某所でナンパしてきた吟遊詩人をびんた一発で自軍に引き込んだ武勇伝を知ってる人間に、「あまり得意ではない」も何もない。
「あのねナンナ、僕が、ずっといてほしいって言うのは、全部終わって、レンスターに帰って、それからもずっとってことだよ」
「はい。私も、ずっと、リーフ様にお仕えします」
「そうじゃなくて…」
リーフはしばし言葉を見失って、髪をかくように頭に手をやった。それから、おいでおいで、と手招きをする。
「もう言葉じゃおさまらないよ」
言われるままに目を閉じたナンナのあごを引き、下唇を指で軽く開く。その開いた隙間を埋めるように、リーフの唇は、吸い付くように重なった。
何か言いたそうに、ナンナの唇が震えている。しかし、リーフは両頬を押さえて、それをすぐには離さない。手と唇を離すと、ナンナは後ずさって、うずくまるように口元を押さえた。
「わかった? 僕は少しも安全じゃないよ。
僕は狼。君は羊。いつ、僕は君を食べちゃうかわからない。多分、フィンもそれをわかってると思う。
でも、彼は君を僕に任せてくれた。ちゃんとお披露目できる日まで、大切にしてくれるハズだからって」
「…」
「でも、今ので…二人の秘密ができちゃったね」
「…」
「裏切られた? 僕は、ずっと優しいお兄ちゃんでいてくれると思った?」
ナンナの目が、潤み始めている。そして小さく首を振った。その手を引くと、ナンナは、何かになびかれるようにリーフの腕の中に納まってしまう。
「それとも、いつかこうなると思った?」
のけてあった布団を二人の上にかぶせながら、リーフが尋ねると、胸元でナンナが頷くようなしぐさをした。
「安心していいよ、今日はこれ以上何もしないから」
子供でいた間だって、こんなに密着して眠ることなんてなかった。リーフはしみじみと、腕の中のやわらかさをかみ締めつつ、眠ろうと思っても眠れなかった。
あの部屋の中でのことは二人の秘密。その言葉が、ナンナのどこかを確実に変えた。
ナンナも、ある程度の覚悟はしていたんだ。リーフはそう思うと、今までは要らぬ我慢だったと、なんだか自分が情けなくなる。でも、待った甲斐はあったと自分を慰めてもみる。彼女が何も知らないで自分があんな行動に出たら、まず怖いドラゴンに筒抜けだ。
「それにしても…やわらかかったなぁ…」
ぼんやりと、彼女の手触りを思い出してみる。夜が待ち遠しいと、今の段階から思ってしまうのは、やっぱりまだ自分は経験が浅すぎるか。
「その顔だと、まずまずの首尾だったらしいな」
後ろでアレスの声がした。
「どうだった? 押してみた感想は」
「少しは、手ごたえがあったかな」
「余裕だね」
「アレスがああ言ってくれなかったら、まだ僕は一人で悩んでいたと思うよ、ありがとう」
「礼は、お前が望んでるところまで進んでから言ってくれ」
『お前は狼、彼女は羊。いずれ食う運命なら、今から一口味見してみな』。アレスはそう吹き込んだ。
「それと、叔父貴にばれたときは自己責任で頼むぜ」
「わかってるよ」
「は? 私がどうかしましたか?」
『わっ』
さらに後ろからかかった声に、二人はわわ、と口を閉じる。
「二人で、今度はどこへいらっしゃる相談ですか?」
二人の間にさしはさむように、フィンの首が入ってくる。
「もうあんなことしないよ、見回りはちゃんとするよ。共同作業だし」
「それは結構」
「ナンナやリーンに悪いことしたと思ってさ、どう機嫌をとろうか話していた最中さ」
方便というものである。リーフは
「そうだ、いつかお前が話してくれた、母上のパールのティアラ。
あれなんかどうかな。リーンとおそろいで」
「悪くはないと思いますが、リーンはともかく、ナンナにその価値と意味がわかるでしょうか」
フィンはそういうがその口元はなんとなく緩んでいる。
「いくらなんでもわかると思うがな」
アレスがそれを混ぜ返す。
「いずれにしても、あまり突飛なことはなさらないようにお二人とも。ご身分をわきまえて」
フィンはそういい残して、その場を去る。
「…飴玉でも喜ぶと思ってるような顔だったな」
「そう見えた?」
「体はともかく、中身はまだコドモだと、信じきってるように見た」
アレスは処置なし、というようにあきれた顔をした。
「お前がどこまで彼女にしたか、そこまで詮索するつもりはないが、知ったら卒倒するぞ」
「そうかな」
ことを急ぐつもりはまったくない。自分の気持ちをあらわす方法に、ほんの少し手段が増えただけの話なのだから。はじめのうちは、寝台の中で引き寄せられるたびに、息もあがりそうなほど真っ赤になっていたナンナも、しばらくするとそれが普通になってくるものか、
「リーフ様、私、本当の今のままでいいのですか?」
あるときぽそりとつぶやいた。リーフは半分寝入りながら
「いいんだよ。だって、僕が好きでしてるんだから」
と答える。
「それとも、もっと何かされたい?」
「いえ、そうではなくて… 何か、お返しを、と思って」
「そんなものいらない」
僕はもうこれでいいから…すぅ。リーフは完全に寝入ってしまった。ナンナが、そっとその手から抜け出しても、気がつく気配はない。
ナンナも、同じようなことをずっと言われていた。
『狼に羊の見張りをしろって言うようなものじゃない。いくらリーフ様が優しいっていっても、そのうちきっと食べられちゃうからね』
食べる、の意味もよくわからなかったが、いろいろ少女たちの話にまざっているうちに、食べる食べられるというのは比喩表現で、実際にはリーンとアレスみたいな関係になることだと、今はもうわかっている。
リーフだって、これで満足していることなんか、絶対にないだろう。一緒だった朝食の時間がずれるのは、自分のいないところで物足りない気持ちを落ち着けているからなのだ。
「私にもできること、きっとあるはずよね」
うん、あるはずだわ。
「お父様に相談…」
とつぶやきかけて、は、とナンナは自分の口を押さえた。「ここであることは秘密だよ」というリーフの言葉を思い出した。
「どうしよう、お父様に相談できないなんて」
フィンがだめとなると、当然デルムッドもだめだろう。解放軍の女の子たちに話をしたら、それがきっかけに広まるということだってある。お父様はさっそく、こんなことやめなさいというに違いない。
「そんなのいや」
ナンナは小さくつぶやいた。「こんなことするのは、ナンナにだけなんだよ」と言いながら、小さい秘密を重ねることに、ナンナ本人も離れがたいのだ。
ではいったい誰に相談しよう。話をわかってくれそうで、それで、自分の質問に的確に答えてくれそうで、秘密を守ってくれそうな、そんな人。
「それで、結局俺になったのね」
アレスは、やれやれ、とでも言いたそうな顔をした。アレスが相手なら、フィン達も深い詮索はしまいという打算も、結果的についてくることになった。
「確かに、リーフをたきつけたのは俺だけども、まさかこんなことになるなんてなあ」
「できるだけ、びっくりさせてみたいんです。何か、方法ありますか?」
「方法ねぇ。ないでもないけど」
「教えてください」
「口じゃ説明できないから、今から俺の部屋に来るか?」
アレスが真顔で言う。しかしナンナはそれが冗談に聞こえなかったのか、
「あの…アレスさまも…リーフ様みたいになさるんですか?」
「お前にはしないよ。今のは冗談だ」
兄妹して混ぜ返しがいがある。アレスはそんなことを思った。
「俺はリーンだけにしかそういうことしないの」
そういいおいて…予約札付きの羊を自分で食べるわけにもいくまい…アレスは、少し離れた場所にしたリーンを、ちょいと指で招いた。
「なに?」
踊るような足取りで近づいてくるリーンを、素直にナンナは綺麗だと思う。
「ずいぶん熱心に何か話をしてると思って、今まで遠慮をしていたのだけど、私が必要なことでもあるの?」
「本当なら、お前の手は患わせたくなかったが、女同士のほうがこの際話しやすいだろう。
ナンナ、リーンなら、何かいい知恵があるぞ」
「は、はい」
アレスはもう、隣で聞いて聞かないふりだ。しかしナンナは恥ずかしがるということも一切なく、自分のうえにあったことを説明する。
「そう、リーフ様が」
「はい」
「大切にしてくださってるのね」
「…はい」
「それは、お返しを考えたくなるわねぇ」
リーンは、少し首をかしげた。
「そうねぇ…ナンナなら…」
アレスはその様子を、だいぶ苦笑いをして見ていたが。
リーンに教えられたことを反芻するようにして、
「リーフ様」
ナンナは夜を迎えていた。
「今夜こそは、今までのお返しをしたいと思うのです」
「そんなの、必要ないって、言わなかったっけ」
リーフはきょとんとして、ナンナに返す。
「私も、いつまでも何も知らないわけには行きません、受けた分だけ、お返しします」
「気にしなくていいのに」
といいながら、ナンナの頬やら耳たぶやらを軽くはんでいる。と、
「ん?」
ナンナが布団の中にもぐりこむ。とたん、リーフの顔が硬直した。
「な、なにしてるのナンナ、そこは」
「やっぱり、こんなに我慢されてて…」
じかにナンナの手が触れている。
「いいんだよ、それは、時間がたてば勝手におさまる」
「でもそれは…お辛いでしょう」
「ナンナのために我慢してるんだよ。
確かに、本音を言えば、今すぐにでも全部食べちゃいたいよ。
でも…ぅ」
やんわりと握られて、リーフはそれ以上の返す言葉を失う。ナンナは、少し高潮した顔を一度あげて
「私、…お役に立ちたいんです」
といった。
「お辛いときは、どうか、おっしゃってくださいましね」
ややあって、ナンナが湿した布で手を拭きながら言う。
「そういうリーフ様を見ているほうが、私も辛いんです」
リーフは、まばたきも忘れて、まるで人形のように硬直している。まさかナンナがこんなことを…
今まで自分がしていたことを他人にされた開放感と、それをナンナにさせてしまった罪悪感がない交ぜになって、すぐには次の行動を起こせない。
「リーフ様、今夜も少し冷えますよ」
掛け布団を寄せあげて、ナンナが隣に滑り込んできた。そして、耳打ちする。
「お父様には秘密、ですよね」
一度弾みがついたものは、もう収まりがつかない。周りの話を聞きかじるままに、最後の一線手前にできることをあらかたお互いの体で試してみるようになるのに、時間はかからなかった。だんだんと、ナンナが寝台での機微を覚え始めてくるのがわかるにつけても、なおいっそう離し難くなってくる。
「ねえナンナ」
夕方、リーフが、廊下を行くナンナの手をとって、合図めいたことをそっと描く。ナンナはそれを握り締めて、
「はい」
と答えるのだ。その顔はほんのりと赤らんで、装わない彼女を、ことさら艶めかせる。
ナンナの一番怖いドラゴンがその様子を見ることがあったら、おそらくは、驚きはするが観念するよりないだろう。その合図の方法は、昔、その意思が口でいえなかった自分がやっていたのと、まったくかわりがないからだ。
をはり。
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