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翡翠の凪


 シレジアの短い夏が来る。しかしシレジア王国トーヴェの辺りは、北方にそびえる高い山から雪が消えることはなく、山から冷たい風が下りてくるのもしばしばである。
「まだかなぁ…」
トーヴェ城のバルコニーで、ちょこりと空を見上げる姿があった。
「もうじき来るよ」
緑色の風が見えたから。セティはそう言って、同じように空を見上げた。
 セティは、父・レヴィンの訪れる前触れを、「緑の風が見える」と言う。フュリーにはもちろん、フィーにも見えなかったが、確かに、彼がそう言った後、確かにレヴィンは帰ってくるのだ。
「二人とも」
やや奥まったところに座っているフュリーは、二人に
「中にいなさい。山から冷たい風が下りてくるわ」
という。しかし、兄妹の期待は、その山からの風を跳ね返すほど、希望に満ちていた。

 レヴィンは、トーヴェにあたる場所の、はるか上空で、一頭の、角の折れたファルコンに乗って、思索の姿をしていた。
<今のあなたは竜? それとも人間?>
ファルコンが、直接レヴィンの頭にささやく。
「…我と神風が守らんとした土地が、今はこれだけか」
と呟くレヴィンの瞳は、ぼんやり輝いて、瞳の影もなんとなく違う。
<早く、レヴィンに体をお返しなさいな、フォルセティ>
ファルコンはそう言って、ゆっくりと、旋廻を始める。
「レヴィンに選択の余地はない」
フォルセティはそう呟いて、まだ思索を続ける。
「風の力を頼んでバーハラの暗雲を吹き飛ばそうとしたがかなわなんだ。不肖の末裔よ」
<お厳しいこと。もっとも…今バーハラに対抗できる神器は、あなたくらいしかないでしょうけどもね>
バーハラの悲劇に連なる一環の出来事で、継承者が死亡、散逸した神器もある。風のフォルセティだけはかろうじて、トーヴェの一帯のみを自由にすることを許された。
 フォルセティが共有しているレヴィンの記憶の中には、最後に出会ったフュリーの顔が、心配そうに、レヴィンの若葉色の瞳をみつめていた。
『何か申し上げて止まる方ではないことは、私がよく知っています。
 私は、その道々、危険のないことを、ただ、祈るだけです』
「アクィーラ」
フォルセティが顔を上げた。
「人間の女とは、連れ合いが死地にあるいは赴こうというのを予感しても、送り出すものか」
<それが相手の益となるなら>
ファルコン・アクィーラはそう答えた。
<連れ合いが死んだとわかっていても、それを耐えて、新しく指し示された道を歩くのも女。
 連れ合いの使命を果たすために、あえて尖らせた牙を隠して付き従うのも女。
 十人十色よ。それが愛する、と言うことでもあるわ>
フォルセティは「そう言うものか」と言った。思索はもう結論がついたのか、それとも続きはあとにするのか、あきらめたのか、
「では返すか」
と、レヴィンに戻ろうとするのを
<待って>
アクィーラはとめた。
「忙しいな、返せといったり待てといったり」
<レヴィンは、あなたに記憶ごと体を貸している、と言うことを忘れてはだめよ。
 エーギルそのものはフォルセティと共有…>
「どういうことだ」
<お楽しみは、ほどほどにね>
笑うようにぐい、と一度首を高く、アクィーラは伸ばした。
「何だ、そんなことか」
<重要なことよ。強すぎるエーギルは、周りのエーギルを吸い取るわ。まして、交わりなど、自分からそのエーギルを奪うようなこと。
 忘れないでフォルセティ。レヴィンと一緒に風の末裔を遺してゆく人は、ただ人だと言うことを>

 アクィーラが城の物見に降ろしてゆくので、「王のご帰還!」の声は物見から始まる。そして子供達は、レヴィンが本当に、風に乗って帰ってきたと思っているのだ。
「お帰りなさい父上!」
「お父様、何かお話して!」
そう張り付くのを、
「長旅だったんだ、少し休まれてくれ」
レヴィンは苦笑いして、フィーをひょいっと軽く肩のほうまで抱え上げて、廊下を歩く。
 フュリーは、家族団らんの用意を整えさせて、レヴィンが見えると、
「お帰りなさいまし、陛下」
と、恭しく膝を折った。
「こんな見渡して済むようなちっぽけなところで、国王も何もあるものか」
レヴィンはそう笑って、席に着く。
「ねぇねぇ父上、なにかお話?」
その通りに陣取って、何か新しい話をせがむフィーに、セティが
「こら、そんなにねだるもんじゃない」
と言う。
「あとでゆっくりしていただけるのだから、今は休ませて差し上げるんだ」
「…」
そういう兄妹を面白そうに見て、
「…ここに帰ってくる前は、セティが同じようだったのに」
レヴィンがそう呟いた。
「フィーはまだ…一人で歩いて、言葉が少し達者になり始めたころだったか」
「『行ってくる』と『行ってらっしゃい』の区別がつかなくて」
そうだったな。笑うレヴィンの傍らに、すこし温度を下げた茶を、そっとフュリーが差し出す。
「随分長くお帰りがなくて…なにか、残された皆様に何かありましたか」
そう尋ねると、レヴィンは、
「…子供がいる、その話は後でしよう」
それだけ言った。
「はい」
フュリーはそのまま口を閉じる。
「なになに、何かむずかしいおはなし?」
と話に割ってはいるフィーに、
「いや、いない間に、お前が『行ってきます』と『行ってらっしゃい』の区別がつくようになったとか、そんなはなしだ」
「うー…」
フィーが唸る。おそらくこれは、覚えている人がいる限り、一生言われるだろう。
「ね、ね、シグルド様の仲間には、会えたの?」
フィーは、どうしてもその話が聞きたいようだった。
「ああ、会って来た。元気だったぞ」
セリスとセティは三、四歳は離れていたろうか。ティルナノグで見てきたセリスは、ただディアドラに似ている子供らしい時期を抜け、はっと、シグルドの影が見えるほどになっていた。
「…もっと大きくなったら、セリス様は、お父様の敵を討たれるのですよね」
「そうなるかもしれん。だが、それはまだもう少し先だな」
「セリス様、早く会いたいなぁ」
「…」
レヴィンはきょとん、とした。
「何だ、もう嫁ぎ先の心配か」
「ちがうのっ そのときがきたら、私もお手伝いするって、決めたんだもんっ」
確認するようにフュリーを振り向くと、フュリーは微笑して
「そのために、天馬の乗る練習を始めたのです」
ね、フィー。そう確認されて。
「うんっ」
フィーは首が落ちるような頷きで返した。
「…私の天馬…ノエルの子が、ちょうどフィーに合うようで」
「へぇ」
「マーニャって名前にしたの。おば様と同じ名前!」
「…マーニャか」
レヴィンは、その懐かしい名前を聞いて、なにやら胸がちくりと痛む。
「他の名前になさいといっても聞かなくて」
フュリーが付け加える。シレジアにこの人ありといわれた天馬騎士、アクィーラの主。その名前をつけるというのだから、豪胆なものだ。
「意外と、いい天馬騎士になるかも知れないぞ」
「うん。がんばる!」

 「なんにせよ、相変わらずで何よりだ」
フュリーが入れ替えた茶を一口すすり、
「セティも、随分風を使えそうになってきたみたいだな」
「レヴィン様がいらっしゃる前に、『緑色の風が見える』と、そう言いました」
「緑の風、か」
それが見えるようなら、その素養は十分だろう。両親が健在だった頃、父王がレヴィンのところまで来る前には、必ず透き通った、緑色の風が見えたのだ。
「魔法はもうまなばせているのか?」
という問いに、フュリーは
「自分で操ることを練習しているようです」
「進路がはっきり分かれたようだな」
「…はい」
「で? 当の風使いはどこにいる?」
フュリーは少し考え、
「物見ではないでしょうか」
と言った。

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