降臨前夜

ゆかこさんに。

 私は、そのことを、あまりにはっきり、覚えている。
 何かいいたそうな左右をさり気なく…しかし毅然と気高く…制した後、ディアドラは、言った。
「アルヴィス様…私…身ごもりました」
毅然とした顔は緊張の裏返しだったのか、そのあと、彼女は、見たことがあるような儚なげなほほえみに戻って、菫色のひとみから涙を落とした。

 彼女は私にとって、人生のうちで最良の時代を具現した物だったに違いない。
 長い一瞬の午睡の後、私は、それが夢であったことに気がついた。
「陛下…?」
そこに、声がした。バーハラ宮殿の中庭…皇帝の公私をわける花園の、あずまやでのことだ。
「誰かいるのか?」
聞くまでもなく、視界に影が入っていた。
「お前は確か」
この時点以前のある日に、私は、眷属であるところのヒルダから、彼女の娘を紹介されていた。
「イシュタル、だね。ヒルダの娘の」
「はい」
…『わが子』よりは少しは年嵩と聞いた。ヒルダは、このイシュタルを、後宮でしばらく行儀見習いをさせてほしいと言って、残して本国に帰ったらしい。後宮で『わが子』に従う侍女の話では、文句のつけようのない貴婦人ぶりだと言う。
「ほんとに、ヒルダ様を反面教師とされたような」
そう口を滑らせものもいるほどだとか。
 しかし、いかに教育が良かったとは言え、このイシュタルとて相応に、親元を恋しがることもあるのだろう。
 イシュタルの目は、今し方までどこやらで涙を拭っていたという風情だった。しかし、イシュタルは、それを棚にあげたように、やや驚いた声をあげた。
「陛下、泣いていらしたのですか?」
「なに?」
言われて、気がついた。私は、涙していたのだ。
「…よろしければ」
イシュタルは、その私の涙を見て、そっとハンカチを差し出してくれた。
「…私、部屋に戻ります」
そう言って、駆け出そうとする彼女を、
「待ちなさい」
私は制していた。
「少し、話をしよう」

 イシュタルは、アルスターに残してきた小さな従妹が心配なのだと言う。
「…ティニーは、この間お母さまをなくしたばかりなのです。そのことを、私は、ティニーのお父様にも知らせて欲しかったのですけれど、お母さまとお父様はその必要がないとおっしゃいました」
たしかブルームには二人妹がいた。早くに家を出て行方が知れなくなったエスニャと、…「反逆者」に与したと言うティルテュ…彼女の話の少女は、いずれかの子なのだろう。
「…私のお母さまは、ティニーのお母さまを好きではありませんでした。ティニー、ひどいことを言われていなければいいけれど…」
イシュタルは、そうして、また涙を落とす。私は、彼女に、渡されたハンカチを返した。ヒルダが人をほめることなどまずあるものか。私は心の中でそう呟いた。私が当主でなければ、ヴェルトマー一族の総意などとかいうだろうものでもって、私と縁付くかも知れなかった女だったが、…私は彼女の性根を生理的に受け付けることができなかった。
「泣きたければ泣きなさい」
「…」
イシュタルは、しばらく、声を殺してすすり上げていた。それがおさまった頃、
「…御心配をおかけします。お后様とユリアさまのことがございますのに…」
『あの事件』で、ユリアが宮殿から消えたことを説明させるのに、私はえらく骨を折った。公には、母の急死に心をいためて、王都の修道院にいれて、そののち行方不明としたが…ありがちな嘘になっているだろう。
「私は、お父様もお母さまもお兄様もいるから、きっと、陛下やティニーのことを、ちゃんと分かっていないと思います。それがすこし…辛いです」
「ありがとうイシュタル。私にはその気持ちだけでいい。多くのものが見せる、うわべだけの悲しみより、ずっといい」
「…陛下」
そのとき、声がした。
「イシュタル!」
イシュタルはねその声には、と顔をあげた。石造りの小道を駈けてくる影…ユリウス、『わが子』だ。
「父上もおいででしたか」
彼は無邪気に言った。
「うむ…イシュタルと話し込んでしまったよ。
 イシュタル、私の相手はもういい。ユリウスについていきなさい」
私はそう言って立ち上がった。
「はい父上、失礼します。
 イシュタル、早く行こう。ミレトスで作らせていた髪飾りが出来上がってきたんだ、君にあげようと思って」
「は、はい、ユリウスさま」
イシュタルは、私に礼をする暇もなく、ユリウスにてを引かれていった。

 ユリウスは、起きながら「眠っている」。
「あの時」…ユリウスの体を得たロプトウスは言ったのだ。
『コノ身体ハ、マダ、我ヲ養フニハ未ダ幼イ』
後数年…ユリウス成長を待ちながら、ロプトウスは眠っている。マンフロイは、笑った。
「…皇帝…命拾いしたな。
 まあ、たのしみにそのときをまっておれ。いずれ」
そして、ディアドラ「だったもの」を見た。
「これの、あとを負わせてやろうほどに」

 「ディアドラ…シギュンの娘」
マンフロイは、そう言った。
「よくここまで健やかに、暗黒神のお体を生みまいらせた。礼を言わねば、ならぬか」
「…暗黒神になどするために、私はユリウスを生んだのではありません」
ディアドラは、唇を噛み締めていた。
「まあ、そう目くじらをたてるな。…褒美をやろうほどに」
マンフロイは、悠然と、詠唱を始める。
「…ロプトウス…我が主…とこしえに等しき闇を説き延べる我に祝福を。
 闇よ、狼となりて黒耀の牙をむけ。森羅万象に等しき闇のおん主、その勲の片鱗を顕わせ!
 邪なるは滅せよ! フェンリル!」
暗黒神に「結界」を張られた、ユリウスの部屋と言う狭い空間だったが、その強大な援護を受けたマンフロイの暗黒魔法はディアドラの身体を一直線に襲った。
「!」
悲鳴があがる。マンフロイは、あきらかにたえだえのディアドラに、とどめをささなかった。ディアドラが、その細いのどから出るとはとても思えない程の声を上げた。
「…息の根をとめなくて良いのですか、マンフロイ大司教!」
「そう死に急ぐことはございますまいよ、皇后陛下。いかに陛下がナーガの継承者で我々の敵と言えども、その御身分にあわせた敬意と言うものは、もちあわせておるのですから」
マンフロイは、言葉とは裏腹の慇懃無礼ないい口で言った。そして、印を切る。
「冥土の土産としてお受け取りください」
「…?」
「貴女の血にまつわるいくつか、お教えしたかったこと、そして、暗黒神をお産み参らすためには、邪魔だった記憶を」
マンフロイが、パチン、と、指を、ならした。

 ディアドラの、硝子細工のようだった心は、粉々に破壊された。
 彼女と…私を中心にして、血はおぞましい輪をかいた。
 そのために、灼熱に融けてゆく男の姿。
 ディアドラは真っ赤な涙を流した。そのまま崩れ落ちて、動かなくなった。

 それから三年たつ。
 私は、ユリウスの中の暗黒神がいつ本当に目覚めるか、それだけを唯一の気がかりにして日々を過ごしてきた。
 時間だけは、なにものにも等しく、容赦なく、すぎてゆく。
「…陛下!」
強い問いかけ。私ははっと顔をあげた。
「お聞きになりましたか、今の私の言葉を」
というのは、ふたたび登城してきた、ヒルダ。
「ユリウス様の立太子はいつになります?」
「…うむ」
わたしは、ちらりと、傍らのイシュタルを見た。彼女は、母を横目で見て、複雑な表情をしている。
「…まだ、時期が早いと思うが」
「そんな悠長な」
ヒルダはほほ、と笑った。
「ユリウス様はこのごろとみに凛々しくなられまして」
含蓄を気がついてほしそうなものいいには、イシュタルは目尻を染めてうつむいた。
「陛下、こういうことはきちっとしておいたほうがよろしいのではなくて?」
「君にとやかく指図するいわれはない」
私はつい、本音を口にした。
「おおかた、立太子のあかつきにはイシュタルをそばにおいてほしいのだろうが、当の本人はあまり気が進んでいないようにも見受けられる。
 いかに子供と言えども、」
「父上」
ユリウスの声がした。
「ヒルダ王妃は、僕とイシュタルのことを気にしているのです」
「え?」
ヒルダは、「そらごらんなさい」と言う顔をした。
「昔のことにかかずらっておられる間に、ユリウス様はこんなにもりっぱにおなりあそばしてますのよ、陛下」
「…」
「父上、イシュタルのことを」
「許すも何も、私がいつ反対したかね」
「いえ、将来の私の花嫁として、それに相応しいようにバーハラで扱うことを」
「…」
まだ、目の前のユリウスは十三歳、イシュタルも十五歳だ。私はしばしためらった。結婚を前提とした分別のある振る舞いは、まだできないようにも感じられる。
 だが、ヒルダの言う通りに、私は、昔のことにかかずらって、前を見ることを忘れていたのだろうか。
「…ユリウス、彼女に関することで、何があっても彼女を守れるな?」
「はい」
「私がお前の母上にしてきたように、イシュタルに、できるな?」
「はい」
「…私は、その言葉を忘れないぞ」

 イシュタルは、現在はバーハラ帝室の離宮の一つになっていたフリージの城にはいった。ユリウスとは、お互いに、宮殿と城とを公然に行き来する間柄となる。

 一年のうちの何ヶ月かを、シアルフィで過ごすことが、私の年中行事になっていた。
 何の因果か、ディアドラはこの地をことに好んでいた。取り立てて、何があると言うわけでもない、平原に立つグランベルでは良くある城である。
 ユリウスにも、もう彼の生活がある。ここについてくることを私はもう強制しなかった。
 が。 なんとはなしの心細さと、居心地の悪さが付きまとう。その年の予定の半分を消化したところでバーハラに戻った。
 私は、まだ、ディアドラの後を追えずにいた。

 ユリウスは、マンフロイと「魔法談義」をするために、イードに向かったということで、バーハラにはいなかった。
「一人でか?」
「はい。よけいな人間は気が散るとおっしゃられて。
 もっとも、イシュタル王女は外にはお出にはなれぬでしょうが」
「イシュタルが、どうかしたのか」
「はあ、おからだの調子が悪いそうで」
「ほう」
私は、急きょフリージに向かうことをきめた。

 「陛下、こんな取り乱しているところにお出ましとは」
出迎えたイシュタルに、濃い影が見えた。
「具合が悪いと聞いたが」
「…陛下がお心を煩わすほどではございません」
「いや。…未来の娘に、何かあっては、ヒルダも気を揉むだろう。ディアドラにつけていた医者を預けておこう」
「格別のお計らい、有り難うございます」
「…」
私はしばらく、イシュタルを見ていなかった。ユリウスは、フリージの城に入った彼女に通う体裁をとっていたからなおさらである。しかし、清楚で高雅な振る舞いのなかに相応の華と光がある、このようにほほに影を落とすような人物ではなかったはずだ。
 ただ、そういう生活ゆえに思い当たりそうな節もあって、私はつい尋ねていた。
「イシュタル、一つ尋ねて良いか」
「なんなりと」
「…そのからだの不調は…ユリウスの子を身ごもったが故か?」
「…」
イシュタルは、かぶりをふった。控えていた侍女が変わりに答えた。
「イシュタル様におかれましては、私どももわかりませぬ何かによってお食事が進みませぬ」
「ふむ」
なぜだ、と聞くには、あまりにイシュタルが可哀想に見えた。おそらく、ユリウスが絡んだ何かがあるのだろう。もちろん、彼女が否定した向きではないことで、である。
「ディアドラも、子供達を身ごもったはじめのうちは何ものどが通らなかったようで、側で見ていて私は悲しい思いをしたよ。それと一緒にはできないだろうが、いつかは元のようになろう。案ずるのが一番悪いと聞く。
 …ユリウスは、このことを知っているのか?」
「いえ。お気をつかわせては悪いと思いまして」
「そうか」
「あの、陛下」
イシュタルが、突然、というていで口を開いた。
「…ユリウス様は…」
「ユリウスが、どうかしたか。
 あの子には、私からも言っておこう。病床の麗人を放って魔法談義なのだから」
「陛下、ユリウス様は…」
「ん?」
イシュタルは言いさした。言いたい気持ちと言わせない気持ちがせめぎあう表情を見せた。そして、沈黙が勝ったようだ。
「どうした」
「いえ…別段の事は…」
「そうか。
 まずは養生しなさい。元気になったら、一度バーハラに来なさい。後宮では寂しがっているものがおおいから」
「はい。ありがとうございます」
 イシュタルに、どうしてこんなに気をかけたくなったものか、私にもよく分らない。ユリアが無事私の元におれば、彼女のようになっただろうし、…私と出会う前のディアドラも、はたしてあのようであったろうか。