「宰相閣下はいささかお疲れが過ぎた様ですな」
宮廷医師が勿体ぶった風に言った。
「…今までが、今までだけに、こうならなかったのが不思議な程でございます」
要するに食って寝ろ。そういうようなことを行って、医師は退出した。
「そうだよ。今まで、私達を、この身体一つで、精一杯守って来たんだ」
リーフが呟くように言った。
「彼もただの人間だったと言うことを、私達は忘れていたのかも知れない」
リーフ、ナンナ、ジャンヌの前で、横になったフィンは表情に言い様もない影を落として、ただこんこんと、死んだように眠っている。ナンナが、
「私、今晩はここでお父様を看ていたいの」
といった。
「よろしいですか? リーフ様」
「いいよ。そうしてあげなくちゃ」
 しかし、「宰相閣下の突然の御病気」は、いらぬ騒動を城に起こした。
 例の、「宰相夫人候補」にあげられた女性たちが、てんでに「宰相閣下の御看病に」と現れて、ジャンヌは、ナンナが看ているからその必要はない、と、やんわりと彼女達を追い払うことをずっと続けていた。あからさまに、嫌な顔をする女性もいた。明らかに、ジャンヌも自分の同類として、さりながら、自分の方がすべてにおいて相応しい、と、自らの存在を誇示していた。ナンナのせりふがよぎる。
『ジャンヌ、あなたなら、いいわ』
「私が?」
呟いていた。

 「ほら、ジャンヌ、見て」
夜になり、人少なになった城。ナンナがジャンヌを部屋に入れる。
「しばらく前からああやって、微笑んで眠っているの」
ランプの明かりをフィンの顔に近付ける。彼は今までになく穏やかに、ナンナのいうように微笑んで眠っていた。
「お母様の夢でも、見ているのでしょうね」
「本当に」
いいながら、ジャンヌは部屋を見回した。質素を通り越して殺風景な部屋には、寝台と事務用の机ぐらいしか、家具らしいものはおいてなく、それも、城づめの兵士に官給品として与えられる粗末なものだ。
 ナイトテーブルに、小さい絵がかけてある。細密に描かれた肖像は、まだ赤ん坊のナンナと、それを抱き上げるラケシスのものだった。後になって、記憶を頼りに描かせたものではあるらしいが、ナンナによく似ているはずのラケシスの表情には、娘にはない雰囲気がただよう。
「お父様とお母様のこと、一体誰が、間違いなんて、言えると思う?」
一緒にそれを覗き込んでいたナンナが言う。
「私、お母様みたいになりたいと、ずっと思って来たわ。でも、ひとつだけ、お母様のようにならないと決めたことがあるの」
「何を?」
「大切な人たちを残して、ひとり離れたりしないって」
「…」
ジャンヌは、今まで一度だけ見た、フィンの涙を思いだした。
「お父様は、ずっと強いふりをし続けていたと思うの。親に先立たれて、御主人様を失って、お母様がいなくなって、大切な人たち皆に突然いなくなられて、本当は泣きたかったはずよ」
「でも、守らなければならない私達のために」
「そうね。
 だからジャンヌ、お父様を泣かせてあげられるのは、あなたでないとダメなの」
「努力はしたいわ。でもナンナ、…わたしにつとまるの?」
「いった筈。私達より他に、お父様をよく知っているのは、あなただもの」
「私達の前でも、フィン様は上手に御自分を隠しているのよ」
ジャンヌはつい、思っていたことを口にした。
「ただ、見ているよりほかに、私に何ができると思う?」
「…ごめんなさい、ジャンヌ」
ナンナはぽつりと言った。
「それ以上のことは、分からないの。何がお父様のためになるのか、わからないの。ただ、私は、お父様がいちばん幸せだった頃を知っているあなたが側にいて、お父様と、お母様に関する思い出を一緒にはなせるようになればいいと、思っただけよ。
 それにジャンヌ、あなたもお父様の側にいたいでしょう?
 あなたはお父様の娘じゃない。いちばん、今のお父様に相応しい人よ」

 飾り布で隠した額の傷が、疼く。体調の悪い時はいつもこうだ。
 けれど、倒れた翌日の夕方には、フィンは寝台に身を起こしていた。もちろん、意識ははっきりしている。
「ありがとう」
娘達が徹夜で看病していたことを聞いて、フィンはまずそう言った。眠っている時のような微笑みは、今はない。だが、鎧ったその薄皮一枚を剥がせば、あの微笑みが、きっとあるはず。
「…ジャンヌ」
「はい」
「昨日言いそびれたのだが、…君にあわせたい人がいるのだ」
「はい」
「知っているだろう、」
フィンは、彼と付き合いのあるさる家の夫婦の名前を出した。彼より、半世代程上の年頃だと思った。半世代前と言っても、ジャンヌ程の子供がいてもおかしくない年だ。(フィンがデルムッドを得た時が若すぎたと言うわけではないが)だが、彼らは子供に恵まれなかった。
「君みたいな娘がひとりいてくれれば後が頼もしいと、常々言っておられる」
ジャンヌの額の傷が、心臓の鼓動にあわせて一瞬激しく痛んだ。
「一人が嫌なら、トリスタンと一緒でもいい」
「…よく、わかりません」
ジャンヌは生え際を押さえながら言った。
「少し、考えさせて下さい」
「返答はいつでもいい」
「…もう少し、おやすみになって下さい。…お屋敷に、戻られますか?」
「…」
フィンは黙ってうなずいた。

 フィンが自分の将来のことを考えていると言うのは、痛い程分かる。
 でも、なぜ、その方法を選ぼうとしたのかは分からない。
「本当の娘では、ないものね」
自分にあてがわれている部屋に戻って、ジャンヌはそう呟いた。
 その事実は不運、そして、幸運。
 ナンナに言われてはじめて、その「幸運」を意識した。
 でも、その「幸運」には、きっと影がついて回る。
 フィンがよくする、すべてを超えたどこか遠くを見る目の向こうに、何があるか、彼女には分かる。ラケシスに関する揶揄を全て受けいれている彼の姿は凛々しい。
 ラケシスに関する風聞は、好むと好まざるとに関わらずジャンヌも聞く。
 遠いアグストリアの動乱で、最後まで暗君に忠義を尽くしたノディオン王の掌中の珠。かけられた愛情はなみなみではなく…聖ヘズルより伝えられるその血を背徳に汚した、と。その関係が、レンスター一流の淑女の誇りを傷つけ、のみならず、レンスター中興の立て役者である英雄を今に至るまで絆し続けている…
 そこで。
「もしかして?」
 いつかフィンがあの返事をしたことを思いだした。宰相としてしかるべき女性を再び娶れ。家中の要望に思わせぶりな態度を見せたのは、それも仕事と割り切ろうとしている反面… 今までを切り落とそうという努力の始まりなのではないのか?
 それじゃ。
 わたしのいままではどうなるの。記憶の中におぼろげに、それでもハッとさせられる美しくて賢くて強くて優しかったラケシス。あの人のいったように、あの人のように、なれればいいと、ずっと、思っていた、のに。

 焼き付いていた。トラキアに狙われて、月の夜を疾走する姿。
 月の光に溶けるような青い影。リーフを前にのせ、セイヨンにくるんだ小さいナンナを抱え、きき手一本で手綱と槍を持つフィンの姿がある。

 届かない、月の光。

 「?」
フィンは眠っていなかった。部屋に滑り込むように入って来たジャンヌをいつものように落ち着いた顔で迎えた。
「昨晩は眠っていないのだろう?」
「フィン様こそ、おやすみにならなくてよろしいのですか?」
ジャンヌが返す。半分憎まれ口のようなものだ。
「眠り過ぎたらしい。妙に目が冴えてしまった」
そう起き上がっている彼の手の中には、例の小さな額がおさまっている。
「いいですか?」
「何のことだ」
「この間のお話です」
「ああ、…あのご夫婦のことか。君が嫌ならそれでいいのだ。無理強いを為さるおつもりはないそうなのだから」
「そうではありません。
 …あたらしく、奥様を迎えられること…」
フィンは、ぼそぼそと言い出したジャンヌを、やや驚いたような眼差しで見た。
「どんなおつもりで、前向きなお返事をされたのか、それが知りたいのです」
「…そうだな」
フィンは、いつかリーフが語ったようなことをいった。すなわち、職務の一つだ、と。
「若気の至りをそのままにしておいていい立場ではなくなってしまったらしい」
自嘲の一つあってもおかしくない言い種だった。だがフィンは表情を変えない。
「…ラケシス様のことは昔のことと、そう割り切ってしまわれるのですか?」
「…」
「私は、ナンナから、私をフィン様にすすめたいと、そう言われました。過去を共有するから、ラケシス様の思い出話の相手ができるように、と」
「ナンナが」
ジャンヌは、その先何を言っていいのか迷ってしまった。自分を娶ってほしいのか、私はそれとして、職務に忠実にあってほしいのか、今のままであってほしいのか。
 額の傷が疼く。
「私を…困らせないで下さい…」
「?」
自分でも、その言葉に何の感情が入ったのか分からなかった。フィンがいう。
「ナンナが…君に、私の再婚の相手になれと、そう言ったのか?」
それは確かに本当だった。ジャンヌはうなずく。フィンは寝台から立ち上がって、すくみ上がるようなジャンヌの前に立った。
「君はそれでいいと思うか?」
「…」
それでいいのか悪いのか、それ自体が分からない。
「私は、どうすればいいのですか?」
「君の人生に指図することは、私には出来ない」
「ひどいです」
ジャンヌは、つい口にしていた。その時の気持ちを素直に口に出していた。
「私にそれを決めろって、そんなことを」
「ジャンヌ」
「どんな方法でも形であってもかまいません、私はただ、…フィン様の側にいたいだけなんです」
「…」
「フィン様のお力になれて、邪魔にならない形で」
「私が今まで、君を邪魔に思ったことがあるか」
フィンの言葉に、いつになく感情が入る。
「私にとっては、君は大事な存在だよ」
「フィン様」
「君こそ、私を困らせるな」
しかし、その言い方は、子供の頃、いつまでも眠らない自分達にするようなものだった。ジャンヌは
「はい」
と消え入るような声で返した。
「明日から…あの町のこと、よろしく頼む。ご夫婦には、私からよく断ることにするよ」
「はい」
フィンは相変わらず、仏頂面と言ってもいい顔をしていた。しかし、部屋の外にジャンヌを送り出しながら、彼女の肩を引き寄せて、額に口づけた。この数年はされなかった 眠る前の挨拶だ。
「眠りなさい」
「…はい」

 翌日から、いつものように八面六臂に場内を闊歩するフィンの姿があり、そのすぐ後ろを同じ早さで歩き回るジャンヌの姿があった。
「宰相殿!!」
その回廊の角から貴族風の風体の男が一人。
「なんですか、あの陛下への御返答は!」
「返答?」
「宰相が独身とは外への示しがつかないではないですか! 私の娘をお選び下さるとばかり思っておりました!」
「心に決めた人がいますので」
「そんな世迷い言を宰相どの! 承服しかねますな、みなもそう思っておりますよ! 身分ばかり高いだけでふしだらなアグストリア女に、今の今まで捕われているなど」
「済まないが」
フィンは男のその先をいいさした。
「…御自分の奥方を、そのようにおとしめられて、あなたはだまっていられますか?」
「宰相殿、それとこれとは」
「同じ話です」
フィンが仏頂面のまま、男を見据える。
「…誰がなんといわれましても、王女は私の妻です」
「宰相殿」
「ジャンヌ、急ぐぞ」
「はい」

 ジャンヌはそれでいい、と思った。私はやっぱり、この方の後ろ姿を見ているのが好きだ。

をはり。

<コメント>
1000カウントのさとるさんおめでとうございます!
リクエストを受け取ったのが3/25の話です。4ヶ月も放置してしまいました(大汗)
おまけにこんな走り書き程度のことしか出来ないなんて…じぶんが情けない限りです。
リクエスト詳細の主旨ともややずれてしまったみたいで、…(汗汗)
ジャンヌ…むずかしかったけど、いい経験しました。
おめでとうございますありがとうございます。これからも、ごひいきに。

19990704 清原因香

←読了記念に拍手をどうぞ。

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