『馬上望遥下弦月?ばじょうはるかにのぞむかげんのつき?』

さとるさんに。

 「遠い昔、黒い竜をあがめる者達が、罪のない子供を生け贄にしようとした時…」
美しい人はそう語ってくれた。
「私の育った国では、一人の女性が立ち上がり、自分の命をひきかえにして、大勢の子供を救ったと言うわ」
ジャンヌ、あなたと同じ名前の人。その言葉に、小さなジャンヌは胸を時めかせる。
「ジャンヌ、その聖なる人とあなたとが、同じ名前を持っていると言うことは」
美しい人の、はしばみ色の柔らかい眼差し。
「あなたにも、今を生き延びるという運命があったということだと、思うの」

 それ以前の一時の記憶を、ジャンヌは持っていない。自分の境遇の境目の、ほんの数日のことのはずだが、よく、覚えていない。
 美しい人はこう言っていた。
「野党に襲われて、全滅したらしいキャラバンの中で、あなただけが生きていたと言う話なの」
ひどい傷をおっていて、死んでいるのかと思ったわ。彼女はそういって、まだ生々しく傷跡の残るジャンヌの額際を撫でた。
「でもあの人が、『この子は生きます』と言い張ったの。あなたの目がさめるまで、ずっと側にいたのよ」
少し離れた場所で、馬具の調子を見ているらしき男が、ジャンヌたちの視線に気がついたのか、ふと、こちらに向き直った。
 なくした数日の記憶のあと、とつぜん思いだすのが、あの男の顔と、握られた手のあたたかさ。
「起きられるか?」
そう聞かれた時、なぜか泣けた。胸に飛び込んでいって泣きじゃくるジャンヌが、また泣きつかれて眠るまで、彼はジャンヌを離したりしなかった。

 自分の名前をほめてくれたあの美しい人が、突然いなくなった後のことを、ジャンヌはけっこうよく覚えている。
 何も知らない様子のナンナを抱き締めて、あの男は声なく泣いた。どんなことがあっても、簡単に涙を流してはいけないと、小さな主人に説くあの男が、唇を震わせて、長いこと泣いた。
 開拓村フィアナについてすぐのことだった。美しい人とジャンヌと、その小さな貴公子リーフと、もっと小さいナンナをつれて、フィアナに入って来た男のことを、村のほとんどが、名前だけでも知っていた。
 ジャンヌには考えが及ばない自分が生まれる前の話、失われた国に、国を失った王子に絶対の忠誠を誓う「亡国の騎士」フィン。レンスターがまだ、ユグドラルの西で栄えていた頃、リーフの父になる前の主人に随行して、大陸中を見聞した。世が世なら無事即位した「悲劇の王太子」キュアンの片腕として、武官としても文官としても、十分にその才覚を生かすはずだった、らしい。
 でも、あの人がいなくなってから、彼には精気がない。眠るナンナの顔を時に、その奥まで見る様な目で見ていることがある。
 たあい無い井戸端のうわさ話でしかない。
 主人に従い諸国を見聞している間に、某国のやんごとない筋とフィンとは恋に堕ちた、らしい。だが、興味本位にそう話を持ってこられても、フィンはそのことについて、何も話すことはない。
 だからジャンヌが知っているのは、あの美しい人をフィンは「王女」と呼んで仕え、時にはっとするほど貴婦人のその面影を写したナンナが、フィンを父と呼ぶことだけだ。

 肩にかけられた、「宰相補佐官」の綬が重い。
 ジャンヌは書類を投げ出してからため息をついた。
 リーフが「新トラキア王国」の建国を宣言してから、ずいぶんたった。まだいろいろと不具合も多いが、何とか、やって来ている、はずだ。
 太陽の進みが、いつになく遅く感じる。
 トラキアの竜が彼らを運んでくれるなら、今日の夕方には、レンスターに帰ってくるはず。
 今自分の座っている椅子は、宰相の椅子。でも、自分としては、しかるべき人がここに座し、内政に、有事に変わらない鋭い采配を振るう姿を傍らで見ている方が好きだ。
 扉の叩かれる音。
「ジャンヌ、今いいかしら?」
「!」
ジャンヌは投げ出された書類の束を適当に寄せて、扉を開けた。
「王妃様」
「嫌ね、そんなかしこまっちゃって。今までのようにして」
新トラキアの若い王妃ナンナが、微笑みながら入ってくる。
「仕事はいいの?」
「ええ。あとは、…フィン様に承認をいただければ」
「そう」
ナンナはいいながら書類をめくった。
「こんなにいっぱい… お父様は一体いつお休みになるのかしら」
リーフとフィンが、ミーズにいるアルテナの元に滞在していた数日の間、ジャンヌが必至に読んで処理した山のような書類と同じ量を、新トラキア宰相・フィンは、一日の間にかたずけてしまう。
 ほかならぬリーフの要請と満座の家臣からの推挙により宰相になって日も浅いが、彼はまるで何十年も前からその仕事をやっているかのように、落ち着いていた。
「もうそんなに忙しくしなくてもいいのにね」
ナンナはうふふ、と笑った。
「あ、ジャンヌがいるところでこんなこといっちゃダメね」
「え?」
ナンナが自分の部屋に誘おうとするのについていきながら、ジャンヌははた、とした。
「ジャンヌはお父様一番! のひとだもの」
「…ナンナ…」
顔が熱くなるのが自分でも分かった。
「今日ね、お父様によろしくって、こんなものを預かったの」
ナンナが、またゾロ書類の山のようなものをジャンヌに示す。
「これは何?」
「宰相夫人候補の身上書」
「…」
自分たちとさほど年も変わらないいずれも美しい花が咲き誇っている。ジャンヌは何もいわず顔を上げてナンナを見た。
「でも、お父様はきっと全部断ると思うの」
とナンナは言う。
「それはあなたもよく分かっているはず」

 ところが、翌日謁見の間でその書類の束を受け取ったフィンは、
「いずれ検討して、よいお返事を」
と言ったのだ。
「え、」
断ると思ったから、その場にいた面々は度胆を抜いたのだ。

「どういうことよっ」
ナンナがかつかつと足をならして部屋を歩く。
「今度ばかりはもう失望したわっ」
「落ち着けよ」
リーフがいう。
「皆の前で渡されちゃ、ああやって言うしかなかったんだろうに」
「それだって、お母様のこと分かってるんだから、断っても、誰も何も言わなかったと思うのっ」
「そうかな」
「どうして?」
「…君には悪いけどね」
私も最近聞かされたのだけど。リーフは前置きした。
「ラケシス様はあまり、ここじゃよく思われてないんだよ」
「え?」
「ジャンヌは、話を聞いているよね」
「…はい」
ジャンヌは顔を落とした。

 「アレスの母上…グラーニェ様は、このレンスターのご出身なんだそうだ」
とリーフが語る。
「話によれば、将来のレンスター王太子妃として、大切に育てられていた、ということだ。
 でも、時のノディオン王が、息子の嫁にと言い出した。王と祖父カルフ、そして祖父バイロンとは、昔からの大親友で、過信の思惑をよそに、縁談を決めてしまったと、いうことだ。
 そして、…これは、想像でしかないよ…グラーニェ様の夫となった当時は王子だったエルトシャン王は、グラーニェ様を差し置いて、妹姫を大切になさった。アレスが生まれていながら、その仕打ちに耐えかねて、彼女はレンスターに戻って、失意のうちに御病気に倒れられた。
 そして、フィンの話になる。そしてナンナ、君の話だ。
 君は知らないだろうけど、君が「新トラキア王国王妃」になることは、一度反対された」
「え?」
話が自分のことになって、ナンナは今まで背中をむけていたリーフに向き直った。
「どうして?」
「…レンスター希代の女性をおとしめたラケシス様のお嬢様であることが」
ジャンヌが言葉をついだ。
「家臣の方達には堪え難いこと、と」
「お母様が一体何したって」
「グラーニェ様を婚家で不幸せにした元凶が、フィンとのあいだに君を挙げている。フィンは、君の父上であるより前に、レンスター中興の基盤を守り抜いた『英雄』なんだ。そういう人物がすねに傷がある女性と関係があったとは、その筋には信じたくないことなんだろう」
「…」
ナンナは、物言わず涙を一つ落とした。
「どうしてそれが、私に関係あるの?」
「私もそう思った。気にしないでいいよ。現に君はこうして、私の側にいる」
「お父様達の立場はどうなるの? ずっと二人でいたかったのに、戦争に引き離されて、幸せになんてなれなかった。
 それを、噂かも知れないことに目くじらを立てて、本人がいないから私に八つ当たり?
 冗談じゃないわ!」
「…フィン様は、どうして、あんなことをおっしゃったのでしょう」
ジャンヌがふとため息をついた。
「…ラケシスさまをそう批判する方々の前で、自分を通すことは得策ではないと思ったのだろうね」
「私はイヤよ、そんなこと認めたら、自分も認めないことと同じなってしまうもの」
ナンナが気炎をあげる。
「仕方がないよ。『レンスター出身の』相応しい女性と結婚することは、ある意味今のフィンには仕事の一つだ」

 山のような書類に署名することと、半島南の情勢を視察することと、結婚することは、一緒ではないことと、職務を離れたジャンヌには思える。ただ、一度結ばれれば、容易には切れない糸は、政治的な局面には以外に役に立つらしいことは察せられた。リーフの両親とて、はじめそういう政治的意図がなかったとは言えないのだ。
「今は半分諦められてはいるけれど」
リーフが言った。
「姉上までが候補に上がっている」
「え?」
「半島南は、まだレンスターからの影響力が完全には行き渡ってはいない。再び燃え上がるようなことを半島北はおそれている。南で一目も二目も置かれているフィンが、姉上の夫となれば、南にもたいした影響力になる」
どのみち、あまり感情が存在していないね。そうリーフは締めた。
「…それじゃ可哀想なのはアルテナ様の方だわ」
ナンナが今度は眉をひそめる。
「アリオーンさまのことがあるのに…」
だがまた顔を挙げ、ジャンヌの方を見た。
向き直った。
「ジャンヌ」
「え?」
「あなたなら、いいわ」
「え?」
戸惑う頭に関わらず、胸だけは鳴った。
「ここで戦争から隔離されてぬくぬく育ったお嬢様達よりは、あなたの方が何倍もお父様のことを分かってあげられると思うのよ」
「はぁ」
ジャンヌは煮え切らない声を出した。

 簡単にいえば彼女の現在の身分は、半分ぐらいフィンの娘のようなものである。奇遇にも先の戦争の間に兄トリスタンと再会でき、自身がアグストリアの騎士の家の出身であることが分かったが、そういう、にわかには信じがたい出自よりは、キャラバン出身のフィンの養女となっていたほうが、ジャンヌにはなかなか都合も気持ちもいい。
「ジャンヌ」
彼はミーズから帰った翌日、執務室で静かにいった。
「私がいない間に君が目を通して、案をまとめてくれた書類のことだが」
「…はい」
座る彼の斜後ろに立ち、机の上を整とんするつぎの言葉を待つ。
「それでいいと思う。あの町のことは、城にも近いし… 君に任せたいが」
「はい」
ジャンヌは思わず顔を綻ばせた。
「頼む」
そうフィンが言うのは確かに聞いた。だが、その姿がぐらりと揺れる。
「!」



 
 

backnext