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 そう言うとき、グラーニェがつくづくうらやましいと、ラケシスは思う。隠す必要など、全くなく、むしろ二人はどこでも仲むつまじかったのだから。
 しかし、後になり、政治的な理由がからんでいるとわかると、仲むつまじいところは、いささかに演技である部分もあるのではではないかと、そう考えるようになる。政略結婚でここに来たことを後悔していないか、あからさまにではないが尋ねたことがある。
「…それは」
グラーニェはきょとん、とした顔をして、
「ここに来たら、全部忘れました」
と言った。
「たしかに、婚約から十年もたって、約束は反故なのかと、親は随分とじれましたが…
 陛下のお人柄は、言葉と言う形で十分に承っていました。見た目からは何と言う人もあるでしょう。でも私は、ずっと、ずっと、初めてお手紙をいただいたときから、心は半分ノディオンにあったのです」
何もいえなくなったラケシスに、グラーニェは続ける。
「あなたがお嫁入りの話を嫌がって、陛下もなさらないのか、私は知りません。
 でももし、あなたの中の何かの覚悟がそうさせているのなら、それを貫いてごらんなさいませ」
「…はい」
ラケシスはその覚悟をこの人に言ってはいけないと、瞬間悟っていた。心を半ばノディオンに馳せて今をかなえたこの人の前で、追憶のためにとどまり、支えるために、あえてここにいるという、何か倒錯したその覚悟を。

 しかし今、その倒錯した覚悟を強いるものはない。束縛から突然解き放たれて、なぜかその束縛を懐かしむ軋んだ何かを、強く叩いたものがある。
 そうして、空いた穴に新しく何かがはめ込まれ、ラケシスは今ここで、しんしんと雪が積もるのを見ているのだ。
「…すごい雪」
ラケシスは、そう呟かずにはいられない。あまりの雪の量に、教練場の除雪も追いつかず、人々はただ、降り込められた城の中で息を潜めることしか出来ない。
「いつまで降るのかしら。空に雪の素とかあったりしたら、使い尽くしてしまいそうね」
そう思わない? 尋ねられて、チェス盤から顔を上げたフィンは
「確かに…ここは海風の影響で降っても積もりにくいとは聞いていましたが」
そう答える。
「ノディオンも確かに降ったけど、こんなには降らなかったわ。晴れた日が二三日も続けば、融けてしまうもの」
「レンスターは、雪が降らないの?」
「…私が覚えている限りでは、一年に一度も降らなかったのではないでしょうか」
「暖かいところなのね」
「そうでもありませんよ」
視線をもとに戻し、駒をかたん、と一つ動かして、フィンが言う。
「冷えますが、降らないのです」
「そうなの」
「ですが、何十年かに一度、大雪が降ったという記録はあります。一番近い記録では、私が生まれた年、だったかと思います。レンスターなのに根雪が出来るほど降ったと、誕生日が近くなると叔母が毎年話すので」
「大変だったのでしょうね」
ラケシスがつい、とフィンの向かい側に回り、何かの駒を取って一つ動かした。
「ですが、雪も融ければ雨と同じこと、地に蓄えられ、やがて泉になり…」
フィンがその呟きを止め、
「…あ」
らしからぬ声を上げた。
「どうしたの?」
「王女、今、どの駒を動かされました?」
「この駒」
指差された駒と、定石集と、今まで自分が動かしてきた記憶をひとしきり手繰ったような顔のあと、フィンはやおら首をかくん、とうなだれた。
「お見事です王女、今ので完全に詰まれてしまいました」
ラケシスは
「それって、私が勝ち?」
「そういうことです」
その言葉に本当?と念を押し、本当です、と返答があると、
「信じられない、初めて勝っちゃった!」
チェス盤を飛び越えてフィンの首に抱きついた。

 兄は、ラケシスにチェスを教えなかった。
 ルールが複雑なことと、あくまで自分の気晴らしと割り切っていたからだろうか。政務の暇なときは、三つ子の誰かを相手に、一つの駒を動かすのに長く長く考えて、入れたてのお茶がすっかり冷えるまで考えた。
 ラケシスは、その長考の様子自体が退屈で、
「何であんなに考えていられるの?」
と、伺候している別の三つ子に尋ねたことがある。そのときの返答は、
「今陛下の頭の中では、兄弟があの駒を動かしたら自分はこれを動かそう、の繰り返しが、何十種類もおありで、どう動けばご自分の損害を少なく勝つかというお考えで一杯なのです」
と言うものだった。
「よくわかんない」
「わかりませんか」
三つ子の一人は暫し考え、こう言い直した
「ごく簡単に言えば、あの小さな盤の上で行われているのは、平和な戦争なのです」
「平和な戦争?」
「そうです。誰の命も奪わず、兵糧を費やすこともなく、城が落城することもない。すべてはあの小さな盤の上で進められ、一度どちらかが勝てば、駒を並べなおすだけで、またすべてなかったことにして新しい勝負が始められる」
「ふぅん」
本当の戦争も、チェスで済ませればいいのに。そうラケシスが呟いたのを兄は聞き逃さなかったのか、
「難しい話だな」
と向き直った。
「本物のの合戦と言うものは、たくさんの利害…損と得で動いている。勝って得をするものもあり、負けのなかに得を得るものあり」
「…でも、戦でたくさんの人がかわいそうな思いをするって、お兄様言ったじゃない」
「どちらも真だ。だが、戦により失うものの方が多いと俺は思っている」
「大陸中の王様が集まって、みんなで決めちゃえばいいじゃない。これからは、本当の戦争はしないでチェスで戦争しましょうって」
兄はきょとん、とラケシスを見て、破顔一笑した。そして、ポン、と妹の頭を撫でて
「この小さな軍師はなかなかの妙案を仰る」
と言った。

 グラーニェの話すレンスターの話は、アグストリアの中も、ほんの一部分しか見たことのないラケシスにはとても新鮮に聞こえた。
「あれはいつの年だったかしら、私が十歳…ぐらいだったかしら」
彼女は、記憶をたどりながら、
「めったに雪の降らないレンスターが、冬の間真っ白な年があったの」
レンスターの冬は晴れる日が多いと、前に聞いていたラケシスは、きょとん、として、
「じゃあ、その年は寒かったのね」
と言った。
「いつもどおりの寒さだったと思うけれども、雪がたくさん降ったのは覚えているわ。
 その雪が楽しくて、侍女と大きな雪人形をつくったり、雪球をなげあったり。
 服をぬらして、母に随分怒られました」
いかにも淑女のグラーニェが、そんなおてんばをしたと。ラケシスは少しならず驚いた。
「でも、貴重な体験だったと思います。シレジアや、イザークの北のほうでしか降らない雪を、そこまで行かなくても見ることが出来たのですもの」
「お姉様」
ラケシスは、ぽすん、と、寝台の上で座りなおして、
「今年雪が降ったら、雪球で遊びましょ」
眠る準備をしていたグラーニェは、鏡越しにラケシスを見て、
「ええ、そうしましょうか」
と柔らかく笑んだ。そこに、
「遊びの約束はいいが」
と、兄の声が、足音と一緒にやってくる。
「怪我などしたり、させたりするなよ」
「そんなこと、雪球じゃ出来ないわ!」
ラケシスが言うと、兄は少し意地悪そうに笑って、
「それがだな、中には卑怯な奴があって、雪を石のように固めたり、石そのものを仕込んだりする悪党がいるのだ。そういうのに当たると痛いぞ」
そう言う。ラケシスはしばらく唸って、
「…お兄様は、しないとおもうわ。エリオットはすると思うけど」
「エリオットがはるばるハイラインからそんなことをしにきたら、チェスではなくて、雪球でハイラインと一戦交えるか」
兄は笑いながらそう言って、ラケシスをすとん、と寝台からおろす。
「?」
「もう話は十分だろう、これからは私達の時間だ。行儀のよいプリンセスは眠る時間だぞ」
あからさまに子供、そして邪魔者扱いに、ラケシスはヘソをまげた。
「どうせ私はお行儀のよくないプリンセスですよーだ」
といい、あまっさえ、
「今日はここでお姉様と寝たいの!」
そうとまで言った。グラーニェはきょとん、とし、兄は気まずい顔をする。ややあって、
「楽しそうで結構ですわ。私も一度、姉妹みたいに眠りたいとおもっていましたの」
グラーニェが朗らかに言った。

 ラケシスは、ほくほくとした顔で二人の間に収まっている。
「あったかーい」
ラケシスはくるくると左右を見て、
「お姉様、少しいい香り」
と小声で言う。
「…お母様みたい」
すりすりと、自然とグラーニェのほうに擦り寄るような形になると、グラーニェはすこしさびしそうな顔でラケシスの頭を撫でた。気丈で朗らかにしているが、まだ、実の母の死は癒えきっていないのだろう。少し首を伸ばして見やると、国王は公務の疲れと期待はずれですっかり不貞寝の夢の中である。寝入ってしまったラケシスと比べて、やはり寝顔はよく似ていた。
 グラーニェは一度寝台を抜け、二人の額にそっと唇を当てた後、改めて、夫の傍らに入りなおした。

 「…ふにゃ」
ラケシスがぼんやり目を覚ます。見回したらまだグラーニェの寝室で、追い出されたりしなくてよかったと思いつつ、見るとグラーニェは兄を挟んだ反対側で、すやすやと寝息をたてている。
「お邪魔…だったかしら」
やっと自覚したが、もう朝だ。自分でおきて帰っても良いが、女王様気分で起こされてもいいかなと思いつき、
「もう少し寝ようっと」
もぞもぞとまだ暖かい羽根布団の中にもぐる。と、傍らの兄が寝返りを打って、その手足がからむ。さながら、人間抱き枕だ。
「う、動けない…」
そう思っていると、じょり、という感触がした。頬が、目の粗い布で無理にこすられるような。
「!!!!!」
ラケシスは、自分の頬に、異常な感触の頬が滑ってゆくのを身の毛を総立てて感じながら、二度寝よろしく軽く気を失った。


をはり

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